第二章 悪魔の世話をするお医者様

第6話

 暗い、暗い闇の中にある何かに包まれている。

 何も見えないが、この何かは決して自分の敵ではない。まるで母に抱き抱えられているかのように暖かく、父の背中に守れられているかのような安堵感。

 生まれた時から隣にあるこの何かを、彼女は知っていた。知っていながら彼女は見て見ぬふりをする。闇の中の何かも、自分を見ないことを肯定する。その選択こそが互いにとって正しいのだとわかっていた。

 何故なら闇の中の何かは異質で、決して常人には理解されないもの。一度認識し、理解してしまえば、もう当たり前の日常には戻れないから。

 闇の中の何かもそれは望まない。自我を認識した瞬間から傍にいる彼女を、まるで娘のように大切に思っている。

 己の中にある欲求を抑え、己の中にある渇望を望まず、己の中にある本能を理性にて封じる。彼女が幸せになることだけを、闇の中の何かは望んでいた。

 そして彼女が望む幸せな日常ただそれだけ。

 小学校のテストで百点を取って、父の大きく暖かい掌で頭を撫でてもらう。料理の手伝いをして、母に褒めてもらう。そんな様子を微笑ましく見ている使用人達。そんなささやか幸せだけでよかった。

 決して自分は表に出てはならない。決して自分はそれ以上を求めてはいけない。それ以上を求めた瞬間、闇の中の何かは、何かではなくなってしまうから。彼女は彼女でなくなってしまうから。

 幸せな彼女の傍で見守れれば十分。何かの望みはただそれだけだった。それだけで、よかったのに――



「目が覚めたか?」


 天井をぼうっと見つめていると、不意にかけられた聞きなれない声。レオナが声のする方へと視線を移すと、長い青髪の少女がパイプ椅子に座って本を読んでいた。

 小柄な体躯に幼い顔つきから年下だろうと思うが、それにしては着ている白衣が妙にしっくり来る。

 少女はぱたんと読んでいた本を閉じると、かけていた小さな眼鏡を外して視線を合わせてくる。


「声は聞こえているようじゃな。では幾つか質問をするので、答えられる範囲で構わん。ゆっくり返答するように」


 自分の名前は言えるか、体の調子はどうだ、指を出して何本に見えるか、何かに飢えていないか。少女の問いかけは単純なものばかりだった。

 体が怠く面倒臭かったが、何故か彼女の言う言葉に逆らえず、思ったまま口にした。答える度に何かに書き込んでいく少女を見ながら、ここがどういった場所なのかようやく理解する。


「目が虚ろだが状況判断はしっかり出来ている。うむ、堕ちてはおらぬようだな」


 少女は満足そうに頷くと立ち上がり、一つしかない扉へ向かう。


「少し待っておれ。食事を持ってくる」


 そう言い残して出て行った少女を見送り、一人になったレオナはゆっくり体を起こし周囲を伺う。

 いくつか見受けられるカーテン付のベットに、先ほどの少女ば使うのであろう机と椅子。他にも点滴用の機材や、薬剤が置かれている棚などがある。

 病院、というには規模が小さいので、診療所といった所だろう。そうなるとあの幼さを残している少女はお医者さんで自分は患者か。

 少女の容姿はレオナの見た限り、十歳程度にしか見えなかった。あんな幼い子が、と疑問に思わなくもないが、子供のお遊びと一笑するには少女の瞳に知性がありすぎた。


「でも私、なんでこんなところにいるんだっけ?」


 ここに運ばれる直前の記憶がどうしても思い出せず、首をかしげる。確か自分は拉致されてダストボックス内で強姦に襲われて、そこで変な男に会って家に帰ってそれで――


「それで……それで……」


 思い出してはいけない。脳内で誰かがそう声を上げるが、もう遅い。ここまで順序立てて思い返してしまうと、意識しないようにするほど意識してしまう。

 脳内に浮かび上がるのは破壊しつくされたダイニングと、壁一面に張り付けられ、恐怖に顔を歪めて変わり果てた家族の姿。


「あ、あああああっ! なんでなんでなんでっ!」


 思い出した瞬間、頭の中から脳味噌を掻き混ぜられているような頭痛がレオナを襲うが、そんなものはどうでもいい。体の芯から全身を凍えさせられている感覚があるが、そんなものはどうでもいい。

 感情が爆発し、抑えが効かなくなる。


「やだぁ! パパっ! ママっ! パパッ! ママァ! あうああああぁぁ」

「どうした!」


 お粥を持って部屋に入った白衣の少女――カログリア・レージェントが見たものは、まるで幼児退行してしまったように家族を求めて泣き続け、幻影すら見ているのか、何かを求めるように手を伸ばしては空を切るレオナの姿だった。


「ちっ、もう思い出したかっ!」


 グリアは舌打ちすると、一目散にベットまで駆けつけ、小さな体で錯乱したレオナを抱きしめる。その瞬間、グリアはレオナによって常人ではありえない怪力で締め付けられるが、顔には出さず慈愛の表情で優しく背中をさすってやる。


「あああああっ……」

「大丈夫。落ち着け。ここには敵などどこにもおらん。みんなお主の味方じゃ」

「パパァ……ママァ……」

「ゆっくり呼吸をして、そう、そのままゆっくりでよい。心を鎮めるんじゃ」

「あ……あ……あぁ」


 レオナの腕からだんだん力が抜けていく。零れ落ちた涙が白衣を濡らしていくが、そんなことは全く気にも留めず、グリアはただただ子供をあやす様に優しい手つきで撫で続けた。


「いい子じゃ……散々泣き続けて疲れたじゃろ? 横になって、目を閉じて、今だけは泡沫の夢の中で幸せになるといい」

「……うん」


 その言葉の通り、レオナは力尽きたようにグリアへと倒れ込むと、可愛らしい寝息を立て始めた。

 グリアはそっと涙をぬぐってベットに寝かした後、持って来たお粥を手に取って溜息を吐く。


「冷める前に俺が食っちまってもいいか?」

「ラクトか……お主はいつも厄介事を持ってくる」

「厄介事とは失礼だな。一応俺は客だぜ」

「金を払わん奴は客とは言わんよ」


 いつからいたのか、扉にもたれかかる様にように立っていた男に、グリアは氷のように冷たい視線を向ける。つい先ほどまであれほど慈愛に満ちた顔をしていた者と同一人物にはとても見えない。

 そんな視線を受けても飄々とした態度を崩さず笑う彼を見て、再度溜息を吐きだした。


「まあよい。ほれ喰いたいなら勝手に食え。どうせ冷めてしまえば捨てるしかないのじゃからな」

「サンキュー。実は昨日から何にも食ってなくてな、腹減ってたんだ」


 そう言ってラクトはお粥を受け取ると一気に喉へ流し込む。久しぶりに食べる誰かの手料理は、例え薄味の病人食であっても極上の味に感じた。


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