1-2 和菓子職人とホッチキス

 夜九時を回ると、おじさんに今日は上がるようにと言われた。

 本当はもっと働いて仕事を覚えたかったが、ごねるわけにはいかない。自分の我が儘はかえって店に迷惑になることを重々承知していた。


 早く自立しなければならない。その意識は常にムカゴに付き纏っていた。


 和菓子屋の二階がムカゴの下宿先だった。

 自室に顔を出せば、まだ二歳の娘、クコが清らかな霧雨を束ねたような黒髪をおばさんに結んでもらっていたところだった。


 黒曜石のように潤んだ目がムカゴを発見すると、「あ、おとうさん、きた!」と無邪気な声が上がった。

 娘の頬に手の平を添わせれば、幼児特有のぷくぷくとした滑らかな肌の感触が返ってきた。

 クコの美しさは日を追うごとに洗練されてゆくようだった。


 積み木で手遊びをするのに夢中な娘を膝の上に乗せつつ、高校から課された膨大な課題を消化していく。

 課題を終えれば予習。それも終わればクコを世話しながらの晩飯、風呂。今日もゲームや漫画、動画視聴などの娯楽に一切手を付けず、ムカゴは布団に潜った。


 風邪をひかないようにしっかり布団を掛けて娘を寝かせた。

 クコが寝返りをした際に銜えてしまった数本の髪の毛を摘まみ取ってやる。連日の水仕事でささくれの目立つムカゴの指が、クコの柔らかな唇を裂いてしまわぬよう細心の注意を払って。ガーゼを濡らし、愛娘の頬の涎を拭った。

 クコのものであれば汗でも涎でも排泄物でも汚いなど思わない。


 ムカゴは手慰みに今朝方、女性客からもらったホッチキスをカチカチと閉じてみる。芯は入っていないのに、不意に何かが綴じられた感触が手に返ってきた。奇妙に思ったが、それ以上は触らず眠りについた。




 ――クコの寝顔を穏やかに見詰めていられるまでに紆余曲折あった。

 

 十五で両親との縁を絶ったムカゴは、お世話になっていた和菓子屋に飛び込んだ。血の繋がりもないはずのおじさんとおばさんは「阿部」という名字をムカゴに与え、匿ってくれた。

 おじさんは昔気質で、店の売れ行きが悪い時に酒を浴びるように飲んでムカゴを殴ることはあったが、おばさんが「ああいう人だから勘弁してね」と謝ってくれればそれで万事気にならなかった。


 クコと出会ったのは丁度二年前。

 連雨をたっぷり吸った通学路で、産まれたての赤ん坊が排水溝に薄いタオルケット一枚包まった状態で捨てられていた。排水溝の泥水は渦を巻き、落ち葉やビニール袋を躍らせる。雨が降るほど側溝の水嵩が増していたようだ。

 溺れかけていたその子を一瞬の躊躇もなく拾い上げ、病院に連れて行った。


 和菓子屋に連れて帰った時、おじさんとおばさんには「僕の娘です」と伝えた。ムカゴは何故かそれしか伝えようがないという心境に陥っていた。

 おばさんは慌てて問い質し、ムカゴが何も応えないと分かった果てには嘆き始めた。堅物のおじさんは事情が分からないなりにムカゴが自分たちへの義理を欠いた行動を取ったのだと解釈したようで怒号を放ち、殴られた。


 多大な恩のあるこの二人と縁を切っても、拾った娘――クコは自分が育てるのだとムカゴは信じ込んでいた。それでもここにムカゴとクコを置いてくれたおじさんたちへの感謝は計り知れない。


 まず、おばさんが精神のバランスを崩した。

 クコの世話をする以外の日常生活に必要な動作を忘れてしまった様子だった。おばさんはクコがふにゃんと顔を歪ませればその意図を正確に汲み取り、水分を取らせたり、おしめを換えたり、離乳食を与えたりした。


 おばさんの声はここ一年ほど、セキセイインコが人間の言葉を意味も知らぬまま覚えたような、常軌を逸したものしか聞いていない。


「クぅコちゃんっ、クコ、ちゃんんっ、クーコチャンっ、クコちゃぁんっ」


 おばさんが楽しそうに繰り返すと、ムカゴも嬉しかった。この世にこの子の面倒を見る以上に大切な事項があると思えないからだ。


 最近、クコの二語文も流暢になってきた。人見知りしがちな反面、物怖じせず何処にでもトコトコ歩いて行く。

 まるでクコがおばさんの生命力をメキメキ吸い上げていくようだ。


 おじさんはいつも気味悪がって、クコに触れもしなかった。

 一度面と向かって「その子が来てから、何もかもおかしくなった。俺たちは不幸になった……」と何かを喉の奥で磨り潰しているような声で非難された。


 ムカゴはゆっくりとおじさんの正面に回り、言い含めた。


「クコは僕の宝物です。次、今と同じことを言ったら、おじさんでも許せないと思います」


 おじさんの顔があからさまに怯えて強張った。ムカゴに、ではなくムカゴの向こうに何かを見つけて慄いたようだった。


 そんなことがありながらもムカゴはクコを何より大切に思っていた。

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