彼女の理想②

「どうだった? あいつ頭おかしいでしょ」

 師匠が平然と生きている辺り、この組織に不敬罪は無いらしい。

 ただ、条文の有無と人心は無関係だ。求職中の構成員、受付窓口や管理役員らの視線を避けて往来に師匠を引きずり出す。まだ干されたくない。

「……組織の頭目としては、ふわふわされるよりかマシです。目指すところが明確な狂人のほうが」

「破滅に一直線でも同じこと言えんの? ……はーやだやだ、マジでここ真人間が居なすぎでしょ。ほんっと頭おかしー……」

「え?」

「は? なに」

「真人間でない筆頭がそれを仰るかと」

「多忙なお師匠様の代わりに是非とも身を粉に働きたいって? 勤勉で大変よろしい。じゃあこれ依頼書」

 手妻に現れた紙束が、両手にずしりと重みを課した。

「……いや、これ師匠の名前で受注してあるんじゃないんですか。さすがに問題が」

「上にも依頼元にも話つけとくから君はなんにも気にしなくていいよ。僕ってほんと優しくて気が回る弟子思いのお師匠様だよねー」

 この師の爽やかな笑顔を「無茶振りの前触れ」と呼ぶ同僚がいた。解らんではない。

 最低限、物理的に受注不可な取り合わせでないかだけ確認する横から、師匠が数件の依頼を指さした。すいと声を低くする。

「この辺は、僕しかできないから有無を言わさず回される案件。今まで見せながら教えてきたろ。……つまりはこれから君もやっていく仕事だ」

 上流階級のお宅への諜報が数件。師匠の仕事に同行させて頂いた時と同じ人物であり、周辺の人間関係や屋敷の図面も記憶に入っている。

 すると今回の課題は、気まぐれに押し付けられた理不尽ではなく。

「習熟度の確認を込めた試験、と」

「理解が早くて結構」

「であれば、この数枚の案件をこなせば充分なのでは」

 九割五分を占める「そのほか」の依頼書をあらためながら質問する。

「向上心と思い遣りのある弟子を持てて僕も誇らしいよ。しばらく休暇取って旅行でもしようかな。じゃあね」

 嫌がらせだったかと思い直したものの、既に師匠の姿はなかった。


 早急に依頼期限を整理した。近い地域に固まってはいるが何しろ数だ。

 毎日の目標件数と各種仕込みを確実に片付けねば後が詰まる未来が見える――失敗の許されない強行日程が問答無用で組み上がる。考える暇も惜しいと駆け出した。


 娘御をたぶらかした下衆男の捕獲依頼は、最後の依頼元に挨拶を済ませ立ち去ろうとしていた直後、変則的に舞い込んだ追加業務だった。

「……本当に申し訳ありませんでした」

 依頼主から悪評をこれでもかと詰め込まれた下衆男が知人だったことはさて置き。いや違ったのだけれど。頬に平手打ちを食らわせたうえ連行してから人違いが発覚し、知人の名誉を深く傷付けた詫びはどの様に支払うのが誠意だろうか。

 手近な飯屋に押し込んだはいいが、食事を摂る以前の問題だった。このテーブルだけ従業員から遠巻きにされている。そんなに空気がよどんでいるのか。

「気にするな。よく巻き込まれ……間違われるんだ。その手の男に」

「……それは難儀な造形でいらっしゃいますが。私が貴方の名誉を汚したという事実は変わりませんから」

 腫れは引いたがまだ赤い。平手打ちの負傷は打ち身の薬でよいのだろうか。

 清潔な布に薬を塗布して頬に貼る。手跡が隠れればよしとして、薬を容器ごと渡した。

「数日分はあります。お納めください」

「放っておけば治るが」

「紅葉くっつけて歩こうとしないでください」

 色々と頓着とんちゃくないのは知っていたが、この人ちょっとおかしくないか。

 しかし彼の浮世離れに言及するとキリがない。かすみ食って生きてるのかと疑っているくらいだ。食欲の有無も曖昧だが、食物耐性と好き嫌いだけ聞き取って適当に料理を頼んだ。食べないようなら私が平らげるのでよい。

「マキさん、金銭はお好きですか?」

「とくに関心がない」

「……そんな気はしました」

 では、彼の関心に値する品とは何だろう。

 詫びだけではない。再会するとは思ってもみなかったが、彼には多大な恩義があるのだ。今ならきっと返していける。

 彼から頂いてきた恩に報いる方法を、見付けなければならない。

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