第3章 アパラチカと船上の労働

 食事を終えて食器を洗う。油用と書いてある洗剤は、油気のある食事をしたときに使う洗剤で、必要ない場合は、水と特性スポンジで流せばいいという話だった。なんだ、何も使わなくてよかったのか。アミには少し意外だった。

「ここで洗剤を使うと、海には不親切だからね」

 バートが横に来て話しかける。この少年、アミが中学生の姿だからなのか、どうも同じくらいの年ごろの子に話すように話す。アミのほうがずっと年長のはずなのに。

 大量に出ていた料理は、トランとバートが勢いよく食べていたせいか、だいぶ減ってはいたが、それでもまだまだ山のようにある。

「あれ、どうやって片づけるの?」

「ん? ああ、あれは魔法しかないね。クロスを使うんだけど、やっておくから気にしなくていいよ」

「でも、つくるのは大変なんじゃない?」

「うーん、日本人が思うほどじゃないかな。素材は用意しないといけないけど、ほとんどはトランさんとアパラチカが魔法でつくるんだ。本当は僕ができればいいんだけど、まだ料理を完璧にするほど、実力がなくて。ときどき朝のヨーグルトを用意するくらいだよ」

 バートは少し申し訳なさそうにアパラチカを見る。アパラチカは黙ったまま、何もコメントしようとしない。先ほどから3人分の服を洗濯しているらしいが、アミはずっと同じスーツを着ているしかなかった。

「アパラチカの仕事を引き継ぐはずが、結局、一日の半分くらいは、トランさんに魔法を習ってるし」

「引き継ぐって?」

「ほら、アパラチカの魔法が完璧じゃないから。アパラチカは記憶を取り戻さないといけないから、これから忙しくなる予定なんだ」

「そっか」

 アミは自分も忙しくなるのだろうと予測した。

「それが終わったら、船の掃除よ!」

 アパラチカが叫ぶ。相変わらず、機嫌が悪そうで、アミはどうしていいのかわからず、戸惑った。

「アパラチカって、いつもあんな感じ?」

 バートに訊いても、バートは肩をすくめる。

「僕はそう思わないけど。何かあったんじゃないかな」

 だからといって、アミは直接、アパラチカに訊く勇気はなかったので、放置するしかなかった。あとは、とにかく波風を立てないよう、おとなしく仕事に専念するほかない。

 各船室を回って、モップをかける。アパラチカは魔法で同時にいくつかを操っていたが、アミにそんな芸当はできないので、地道な作業が続いた。普段から掃除が行き届いているらしく、埃はさほど溜まっていないし、蜘蛛の巣もない。

「少なくとも、海賊らしくはないわね」

 そう呟いて、ひたすらモップがけを続ける。水を含んだモップはそれなりに重く、慣れない仕事は、意外と体力が必要で、甲板までかけ終わるころには、すっかりへとへとになっていた。

「まったく、若いのに、だらしないわねぇ」

 アパラチカの言葉に棘がある。アミはそこまで言われる覚えはなかった。どうすればアパラチカの機嫌が直るのかわからず、すっかり困っていた。こんな調子では、ヴァーミアと変わらないかもしれない。

「僕でよかったら相談に乗るけど」

 バートは申し出たけれど、アミに言わせれば、どうせただの少年に女子の不機嫌がわかるはずもないという話で。

「別に。女って面倒だよねって話よ」

「自分も女性なのに」

「わかってるわよ」

 バートは肩をすくめた。

「アパラチカの機嫌が悪い理由は、正直、僕にもわからない。本人が話してくれればいいけど、僕が訊いても、教えてくれないんだ」

「理由なんてなくても、機嫌が悪くなるときはあるのよ」

 アミは男性に理解できるとは思っていなかった。バートは顔をしかめているが、アミはバートを満足させるために話しているわけではなかった。

「……めんどくさい」

 バートは小さな声で呟いた。本人はアミに聞こえないように言ったつもりかもしれないが、アミの耳には入っていた。もっとも、アミも反論する気はない。

 アパラチカの不機嫌の原因は、明らかにアミらしかった。アパラチカは他のメンバーに対して、そこまで不機嫌そうに振舞ってはいない。仕事を手伝ったからといって、アパラチカの機嫌が直る様子もない。

「これってでも、わたしが仕事をしないから、って感じでもないのよね」

「アパラチカ? だって、必要ないもん。僕ら、魔法使えるから、仕事なんて、そんな大変じゃないんだよ。船を動かすのだって、まあ、アパラチカの体力が必要なのは事実だけど、アパラチカはなんていうか、ちょっと僕らとは身体が違うんだ。契約があるから、トランさんのためなら船を動かすし、もともと僕がここへ来るまでは、アパラチカだけでやってたんだ。まあ、今は名前を忘れちゃって、力が落ちてるらしいけど。それはアミさんには、関係がないはずだから」

 アミは肩をすくめる。船をどう動かしているか、なんてアミが知るはずもなかった。

「どうやって船を動かすの?」

「僕は方角を操ってるんだ。船の進行方向は、危険なところを避けて、だいたい固定してある。アパラチカはその体力を使って船を動かすエネルギーを生み出すから、実際には僕より大変な仕事を引き受けてるはずだけど、アパラチカが文句を言うのは聞かないな」

「煙突の煙は?」

「あれは補助みたいなものだよ。それと、そこでお湯を沸かしてるっていうのもあるけど」

 アミは、はっと顔を上げた。船上でお湯を沸かしていたはずなのに、まったく気づいていなかったのだ。

「その水はどこから来てるの?」

「水なんて、そこら中にあるじゃないか」

「え?」

 まさか、海だと言うのだろうか。アミがそう思っていると、そのとおりの返答がある。

「もちろん、そのまま使うわけじゃないよ。一旦沸かすと、塩と水が分離するから、その水だけを利用するんだ」

「消毒は?」

「うーん、蒸留するから、問題ないと思うんだけど」

 蒸留。確か、理科で習ったはずだ。アミは思い出そうとしてみる。水を沸騰させて、蒸気を集め、水に戻す。水に別の物質が混ざっていても、沸点が違うから、水だけ取り出せる、という実験だった。一定の間、高い温度に保つ必要があるので、不純物を取り除けるだけでなく、微生物なんかも死にそうだ。

「時間かかるんじゃないの?」

「まさか。実験用の小さな器じゃないんだから。3日分だから、量もだいたい決まってる。そうじゃなくても、アパラチカだけに任せておくわけじゃない。魔法のために、できるだけ彼女の力を温存しておきたいんだ。船を動かすのにいくらかエネルギーをつくるから、わざわざ水をつくるのに再利用なんかしなくても、いつだってそこは熱いんだし」

 アミは、自分が入ったから必要な水の量も変わっただろうと思ったが、黙っていた。余計な発言で反感を招くのは、あまり得策ではない。

 バートはそんなアミの考えには気づかないのか、さっさとどこかへ姿を消してしまった。

 アミは自分の船室に戻った。アパラチカにまた仕事を命じられるかもしれないが、少し休憩しておきたかった。

 ふわりと包み込むようなイスは、アミにとって、ほとんど奇跡だった。アミはなんとなく、自分が住んでいた実家の部屋を思い出す。狭い部屋に詰め込むように、ベッドの下のスペースを利用した学習スペース。古くなって、鏡が外れかけている洋服の棚は、いかにも安っぽいデザインで、今アミがいる船室とは比較にならない。

 こんな部屋だったら、もっと心地よく過ごせたんだろうな。アミは何もせず、ただじっと、そのイスの座り心地を感じていた。

「そういえば、お兄ちゃんの部屋は、わたしの部屋とは違った気がするな……」

 アミが記憶している兄の部屋は、アミの部屋よりも広かった。十分な部屋がないから、と言われて押し込められた狭いスペースは、そのままアミの、家の中での居場所の狭さでもあったのかもしれない。

「あんな場所、帰らなくていいか」

 なんとなく呟いて、視線を上げる。鏡が目に入って、顔をしかめた。相変わらず、中学生の顔だ。ニキビは、最初に魔法をかけられたときよりは、少し腫れが引いたかもしれない。それでも、まだまだニキビだらけだ。

 はじけた形の窓に、視線を移す。

「変な形」

 触ってみても、普通のガラスだ。窓枠は何でできているのか、水色でポップな雰囲気だ。開くのだろうか。ただ、見る限り、窓を開ける仕組みはなさそうだった。

 少しだけ休憩するつもりだったはずが、結局、夕食に呼ばれるまでそのままのんびりしてしまっていた。呼びに来たのはバートで、食堂にはアパラチカとトランも来ていた。

 簡単な食事をするようで、昼ほど豪華ではなかったが、4人が食べるには十分すぎるほど用意されていた。アミは料理を取るため、お盆にお皿や箸を載せていく。

 アパラチカはさっさとトランの近くに座って、盛んにトランに話しかけている。トランは不思議そうな顔でアパラチカを見ていたが、途中で肩をすくめてバートに課題の指示を出す。さらに、そのままアミのほうを向く。

「アミさん、ちょっといいかな?」

「はい」

 アミは、急いで料理を取ってテーブルに向かう。お皿から炒めものの春雨が少しはみ出してしまっていたが、食べるときに気をつければいいか、とそのまま運んだ。

「アパラチカが、真名を探すのを手伝ってほしいって言ってるんだけど、その話って伝わってる?」

「はい」

「そっか。それなら、アルテン語を勉強したほうがいいね。僕らは日本語を話すけど、名前と<言葉>はアルテン語なんだ。だから、少しは読めないと、資料を探すのに、支障が出るかもしれない」

「それって……」

 英語を学ぶのとは違うはずだ。バートも言っていたが、アルテン語は声に出すと、その時点で効力を発揮するという話だった。

「もちろん、僕らは子どものころから習うから、どうやって教えればいいのかは、ちゃんとわかってるし、心配しなくていい。1文字だけ発音しても、きちんとした<言葉>になっていなければ、意味を成さないし、発動しても構わない魔法だってあるからね」

 トランが請け合うので、アミはうなずいた。アミにとって、<言葉>を学ぶのは、魔法を学ぶのと同じだ。他人が魔法を扱うのは羨ましい以外の何ものでもないけれど、自分も魔法を扱えるとなれば、話は別だった。

 ご飯に雑穀が混ざって、ぷちぷちと噛み応えがあった。慣れない食感に、アミは一瞬、そちらに気を取られる。

「それじゃ、まずは少し僕が話すのを聞いて、雰囲気をつかむところからね」

 そう言うと、トランはいったん食器類を全部置いて、聞きなれない言葉を話した。それは短かったけれど、英語とも日本語とも違う、聞きなれない響きだと、アミは気づいた。欧米の言葉の、右脳的な響きの言葉のようでもあったが、一方で母音が多い、日本語のような発音の言葉でもあった。

 トランの言葉が途切れたとき、トランの手元には白い石のようなものが載っていた。

「さて、これで文字を書いていくんだけど、甲板に書いちゃっていいかな」

「いいかなって、あなたの船ですよね」

「まあ、そうなんだけど、さっきアパラチカに掃除させられてたみたいだったから」

「まあ……」

 食事を終えると、トランはその白い物体を手に取り、左側だけ杖を手に立ち上がり、ゆっくりと外へ向かう。アミはトランが置き去りにした杖を持って、追いかけた。

 外はすっかり暗くなっていた。船の明かりは煌々と照らされていた。見上げると、空は少し曇っていた。風は先ほどより強くなり、船も少し揺れていた。

 それでも、トランは意に介さないのか、杖の持ち方を少し変えて、ゆっくりと甲板、ちょうど明かりの真下のあたりに座り込む。最後は杖を脇に置いて、手で身体を支えていた。

「さあ、始めるよ。まずは母音の文字からだ」

 トランは、アミが見たこともない文字を書き始める。白い石は、少しずつ削れて甲板に白い線を残していく。

「これが、あ」

「あ」

 日本語みたいだ、とアミは思う。トランは日本語と同じ順で、母音を教えてくれた。

「どう、覚えられそう?」

「自分でも書いてみないと」

 時間を空けると忘れるかもしれない。音は簡単でも、文字は日本の文字とは違う。

「文字は母音と子音を組み合わせてつくるんだ。母音は常に右側に来る。子音は左側だ。それで一文字。母音だけの音のときは、母音で一マス分、使う。それで一文字」

 ハングルに近いのだろうか。それとも、ローマ字の影響でも受けているのだろうか。画数はハングルほど多くなかった。アミは不思議に思いながらも、トランから石を受け取る。トランは少し横にずれた。アミはトランが書いた文字の下に、同じ文字を何度か練習していく。

「まず、船の上で、母音だけでも覚えるんだ。島に着いたら紙もペンもあるし、本もある。そうしたら、練習には困らないだろう」

 トランはそのまま立ち上がろうとする。だが、その瞬間に船が揺れた。

「おっと」

 トランがバランスを崩す。とっさのことで、アミは思わずトランを支えようと動いていた。だが、トランの体重は、アミが簡単に支えられるほど軽くない。トランの体重がかかってきて、アミ自身がバランスを崩してしまう。

「わっ」

「バート!」

 トランが大声で叫び、バートが慌てたように出てくる。

「トランさん、立つときくらい、杖を使ってくださいよ」

「すまない」

 バートは杖を拾うと、トランに手渡した。3人がいるのは、止まっている大地ではない。いつ揺れても不思議ではない、船の上だ。

「やっぱりトランとアパラチカの契約を破ったほうがよさそう」

 アミは思わずそう漏らしてしまった。

「僕たちの契約を破る? できるなら、そうしてくれたほうがいいのかなぁ。だけど、そうすると僕は、今使える力の一部を失うんだよね」

 聞かれていると思っていなかったアミは、一瞬、慌てた。

「だけど、トランさんはそのせいで片脚、不自由になってるじゃないですか」

 アミは言い返す。

「そうだよ。だけど別に、構わないんだよ。ほら、若いからケンケンでも移動できるし」

「だけど……」

 アミはうつむいた。トランは魔法の代わりに片脚が使えなくても構わないと思っているらしい。

「利き手だったら、僕だって困る。だけど、片脚なら、もう片方の脚には、その分、筋肉がつくんだ」

 トランはズボンの下のほうをまくって、しっかりしているほうの脚のふくらはぎを露出する。太いふくらはぎだ。トランがわざとそうしているのか、筋肉がぴくぴくと動いている。

「でも、また転ぶかもしれないでしょう?」

 アミは反論した。もしトランが颯爽と歩いていたら、もっとずっと逞しく見えるのだろう。ふにゃふにゃの片脚だって、契約を破って鍛え上げれば、筋肉もつくはずだ。

「あなたに迷惑をかけたんなら、悪かったと思う。だから、もう僕が転んでも支えようとしてくれなくていいから。僕は自分の体重が、アミよりはるかに重いってわかってるし、下手したらアミが痛い思いをするかもしれない。アミは僕みたいに筋肉がついてるわけじゃないんだから、僕を支えてくれるなんて期待は最初から、してないし」

 トランは上げていた裾を戻すと、「ああ、だけど」とつけ加える。

「もしどうしても契約を破るって言うなら、マリーナに会わないといけないよ。破り方を知ってるのは、僕が知る限り、彼女だけなんだ。たぶん、アパラチカもそこまでは説明しなかっただろう。僕の片脚が不自由になって、アパラチカは本来、何のデメリットもないはずだったんだけど、島を丸ごと封印なんてしたものだから、そのはずみで重要な記憶を失くしたらしいんだ。それも、よりによって、肝心なやつを、ね」

「名前?」

「そう。真名だよ。アパラチカにも、手伝うように言われたんだよね? 僕でさえ知らなかったのに。その名前がないと、アパラチカは本来の力を発揮できない。困ったもんだ。だけど、僕が魔法を失敗しなければ、こんな状況には陥らないで済んだと思う。完全に僕の手落ちだ」

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