23.生命の樹

 スノウと連れだった健二は、以前にも訪れた街にやって来ていた。


 初めてこの地に足を踏み入れ、内心で不安を覚えながら過ごした記憶の街の風景は、今となってはすっかり見慣れた光景となり、自分の中では日常の一部となっている。改めて街の姿を目にしたとき、健二はようやく街の人々の表情に視線を向けることができた。


 市井の人々が日々繰り返す当たり前の一日。その積み重ねが国の歴史、人々の生きた証しとして後世の人々に脈々と受け継がれていく。


 街を行き交う人々の顔は、決して晴れやかなものではない。だからといって、失望の表情や憂いに沈んでいるわけでもないし。以前にグロリアスから飛来した飛行船団によって爆撃された街の南側は、依然として倒壊した建物が多く見られるが、それでも復興は着実に進んでいるようで、通りの瓦礫は撤去され、建物も修復が進んでいる。街の様子を見ても、景気や治安が悪いわけではなさそうで、通りを活気の良い子供たちが行き来したり、通りの露店では生活の品を釣っている人々の姿もある。


 これが、日常であり現実なのだ。幻想的な理想郷ではなく、純然たる現実がそこにある。


 幸せも苦しみも人が生きる上では必要なことで、どちらが欠けても人は人として生きる意味を成さないのかもしれない。幸せがあるからいつしか悲しみがやって来る。悲しみを乗り越えるために幸せを求める。人生はこれの繰り返しなのかもしれない。


 そんなことを頭の中で巡らせていると、スノウに呼びかけられて健二ははっとする。


「大丈夫か。何かに取り憑かれたような顔をしていたぞ――また天神か」


 そう言って戯けるスノウに、健二は軽く鼻で笑う。


「別にそんなんじゃないよ。ただ……ここに来たときのことを思い出してただけだ」


「感傷的だな。既に懐かしくなっているのか。なんなら帰らず、ここに留まるか」


 そう言って挑発するように、健二の顔を覗き込むスノウ面立ちが、ふと幼さが残る少女の面影を映し出し、健二は居心地が悪くなって思わず視線を逸らす。


「そんなことないよ。早く行こうってば」




 街を発ち、森へ続く不整地を並んで歩く。一歩を踏み出すほどに、足の重みが増していくような気がしてならない。


 健二の隣を歩いていたスノウが突然、立ち止まる。


「――どうしたんだ」


 気になってスノウに尋ねると、スノウは健二の表情を探るように、目を細める。そして、何かを考え込むように口の前に拳をつくり、空を鋭く睨み付ける。


「向こうに帰る前に、君に見せたいものがある」


 スノウはそう言って向かっていた道程からそれると、腰の高さまで生い茂った草むらを道なき道を切り開くように強引に突き進んでいく。


 道からそれて暫く歩き続けると、薄暗い森を目前にスノウは立ち止まる。


「ここって……何かあるの」


 スノウの背後に立ち、静寂と共に迫り来る様相の長躯な木々の群生を目前にして健二は圧倒される。


「ここは……」


 気になって尋ねるが、スノウは意味深に笑うだけで答えることはなく、迷いのない足取りで木々の合間を縫うように、森の中へ足を踏み入れる。


 健二もここへ留まろうとしがみついているかのように、意思に反して言うことを聞かない重い足取りを何とか引きずってスノウの後を追いかける。


 低く生い茂った木と、天を突き刺すほど高々と聳える木が相まっていることで、不可思議で幻想的な光景があった。自然のままに木々が生い茂り、規則性や節理など全く感じられない。横倒しになった巨大な倒木が、枯れて虫に喰われたことで腐った部分が空洞となり、小さなトンネルと化し行く手を阻んでいる。


 スノウは戯れる子共のように、軽い足取りで倒木のトンネルを抜けると、健二が付いてきているのを確認するように振り返る。その顔に張り付いた微笑みが、この時間を大切に愛おしく享受していることを何よりも正直に語っていた。


「ねえ、どこに向かっているんだよ」


 森の不覚に足を踏み入れ、更に不安を募らせた健二は助けを求めるように、スノウに声を掛ける。すると、スノウは快活な口調で言う。


「君は気にしないで私に付いて来れば良いんだ……ほら、見えた」


 スノウが指し示した方向に視線を向けると、健二は息をのむ。そこには、幻覚なのではないのか、と思えるほど不可思議で理解しがたい景色が広がっていた。


 鬱蒼とした木々の空間に、突如として広々と開かれた場所があった。まるで、そこに一線を引いているかのように木々の壁が絶たれ、腰の高さまである茂みが空間の一面に広がっている。その空間の直中に、他の木々とは明らかに違う大樹があった。


 幾つもの根が地面をしっかり把持し、青々とした苔で埋め尽くされ、十人の大人が手を繋いで囲っても足りない程太い幹から分岐した枝は、快晴の空を無数の手が翳すように末広がりになって空間を覆っている。枝から芽吹いた青葉が、昼の日差しに照らされ柔らかな暖かみをつくり出す。それは薄暗い森の中、という舞台にスポットライトを当てたような感覚に似ている気がした。


 スノウと共に樹の根元まで近付いた健二は、違和感を覚える。自分が目にしている『樹』であるはずのそれが、なぜか現実味のないものに感じる。確かにそこに存在するはずの巨大な植物に実態がないのだ。考えるよりも先に、健二の手が樹の幹に触れていた。


「これは一体……」


 健二は不思議な感触に思わずスノウを凝視する。手に触れた幹は、硬くどっしりとした感覚ではなく、まるで着ぐるみに触れときのようなふわりとした柔らかい感触だった。


「生命の樹だよ。君を送り届ける前に見せてあげたくてな」


 スノウは恍惚な表情で、目の前に立っている樹を見上げて言う。


「これが、生命の樹」


 健二は呟くように言って木の根元まで近付くと、つぶさに観察する。枝から芽吹く青葉が気になり、更に注意深く目を凝らす。


 視界にある全ての青葉が『葉』ではないことに気付いた。一見すると、大きな広葉がそよ風に揺れているように見えるが、陰火のような小さな生き物が、がゆらゆらと形を変えながら細い枝にしがみついているのだとわかった。だが、その姿を正確に捉えようとすると、視界がぼやけて意識が朦朧とする。まるで実態が掴めない。


「これが精霊の姿だ」


 低い声で言ったスノウが、横目で健二を見る。その面持ちが、君にはどう見える、とでも言いたげな様子なのを痛いほど感じた。


「良くわからないけど、意識を向けると気が遠くなるような感じがして」


「ああ、そうだな。精霊は魔法使いである私たちの視覚さえも超越した存在なんだよ。まあ、天神と繋がりを持つ君ならもしかすると、と期待していたが、やはり難しいか」


 スノウは頭を掻きながら力なく笑う。どうやら、精霊への探究心がスノウをここまで誘ったようだ。そんなことを考えている健二を横目に、スノウは興味津々といった様子で樹の周りを何度も右往左往している。


「以前もこの樹を見に来たんだが、あのときは今にも枯れて朽ちそうな老樹でしかなかったが、今はこうして生命力を取り戻している」


 そこまで言うと、スノウは健二を見据える。その視線が何かを伝えようとしているのがわかり、健二は恥ずかしさを紛らわそうと狼狽える。


「それは良かったよ。君のお陰だろ――精霊王だっけ。君がいるから精霊たちが戻ってきた。そういうことだろ」


 健二がひとしきり言葉を吐き出すと、スノウはなぜか微笑みを浮かべる。


「私がいることでこの世界に幾分かの影響は与えた。だが、君が成し遂げたことは、それ以上のことなんだ。世界そのものを救ったんだからな」


 その言葉を聞いて、健二は唸る。こんなことで褒められても嬉しくはなかった。あのとき、自分は不思議な感覚に高揚し衝動のままに暴れていただけだった。世界を救えたのは結果であって、もし自分が衝動のまま暴れ続けていたら、味方であるスノウたちに被害が及んでいたかもしれない。最悪、泉を破壊していた可能性も考えられる。そんな事を想像し冷や汗が一気に噴き出すのを感じる。


「そんなことは別に良いんだよ。俺はただやりたいことをしただけだし」


 健二は肝を冷やしたのを誤魔化そうと乱暴に言い放つ。すると、スノウはただ微笑むだけだった。スノウの今の態度が異常に親しげであり、何か裏があるのではないかと健二は疑ってしまう。だが、健二の警戒心とは裏腹にスノウは気が済んだのか、


「それでは井戸へ向かおう」


 そう言うと、そそくさと生命の樹から離れ森の中へ消えていく。


 健二は生命の樹に後ろ髪を引かれながらも、スノウの後を付いていく。




 僅かに見えるスノウの姿を必死に追いかける。暫くスノウの背中を追いかけていると、再び拓けた場所へ出た。


 健二は目の前の見覚えのあるものを認めて立ち止まる。全身が硬直し向けられた視線を逸らすことができず、じっと佇んでいることしかできない。


 自分をこの世界に誘い、全てが始まったもの。目の前にある古井戸を見据えたまま、健二は沈黙する。今まではもとの世界へ帰りたい。ただそれだけを思ってここまで突き進んできた。だが今、井戸を目の前にした瞬間、この世界で過ごしてきた記憶が雪崩のように脳裏を目まぐるしく巡る。その瞬間、この世界が名残惜しくなった。


 健二はふと、井戸の傍らに立っているスノウを見つめる。


 健二の視線に気付いたスノウは、どうした、というように眉を顰める。


「――この世界が懐かしくなってまた戻ってくることは可能だったりするのかな」


 健二は口籠もるように言う。今までは家に帰りたい、と言い張っていただけに、今更この世界に留まりたいなどと言っても、それが許容されるとは思っていなかった。だが、僅かでもその希望があるのでは、と確かめずにはいられなかった。


 健二の言葉に、スノウは呆れたように眉を吊り上げる。


「君という奴は……今更何を言っているんだ。そんなことをハディが許すはずがないだろう」


 それに、とスノウは言葉を継ぐ。


「境界門を潜ってしまえば、例え今の君がこの世界を懐かしんでいたとしても、戻ってくることはない」


 スノウの意味深な発言に、健二は首を傾げる。


 困惑する健二の手を引いて井戸まで連れてくると、スノウは以前と同じように準備を始める。


 暫く井戸の周りを忙しなく動き回っていたが、準備ができたらしく健二を手招きする。


 井戸の縁に立つスノウの隣に立ったとき、井戸の底から細い光が細い糸状に立ち上る。健二は恐る恐る井戸の底を覗き込む。そこには以前、ここへ来る前に見たのと同じ景色があった。


 井戸の底らしき場所に複雑な図形と見たことの無い文字が円に沿って刻まれている。錬金術、あるいは魔方陣なのだろうか。立ち上る糸状の光は、円柱の太さまで広がる。円柱の内側の空間は、陽炎のように空気が大きく揺れ動いている。


「ねえ、さっきの言葉の意味ってどう……」


 健二がそう言い掛けたとき、背後から強い力で押し出される。バランスを崩し必死に井戸の縁を掴もうと手を伸ばすが、指先は空しく空を切るだけだった。柱に呑み込まれるように健二の身体は井戸の底へ急降下する。ふわりとした感触のあとには、闇だけの世界が広がる。

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