8.試練

 ふと目を見開くと、見慣れた天井がそこにあった。上体を起こし掛け布団を剥ぎ取る。ベッドから足を降ろして立ち上がり、両開きのカーテンを開けると、いつもと同じ風景が広がっている。


 二階の自室の窓から望むのは、数多くの家々が建ち並ぶ住宅地。外はまだ薄暗く、ようやく顔を出した日光が、徐々に薄暗い冷え切った空気を暖かく照らしていく。多くの家々が未だ早朝の静寂の中にある。


 窓の外の風景を目にしたとき、なぜか異様に懐かしい感覚があった。いつも目にしているはずの風景だというのに、長い間その景気を目の当たりにできず、久しいという感覚だ。それと同時に、何かが記憶から消え去ったような気がする。目が覚める直前まで、自分にとって何か重要なことが起きていたような気がする。だが、記憶にあるのは、昨夜に寝床に入り目を瞑ったところまでだった。


 脳裏に一抹の疑念を抱きながらも、ふと時計に視線を向けると、針はちょうど七時を指していた。大きく伸びをしてはっきりとしない頭でドアを開け、階下へ向かう。


 階段を降りるとき、台所から良い匂いがした。これは目玉焼きとトースト、あとベーコンだろうか。芳ばしい朝食の薫りが台所から漂ってくる。


 台所へ行くと、母が台所に向かっていた。こちらの気配を察したのか、振り返ると、


「おはよう。さっさと食べちゃいなさい。でないと学校に遅れるわよ」


 母は急かすように言うと、台所から出て行った。仕事に出かける準備だろうか。忙しない様子で動き回っているのが、いつも目にしている母の姿だった。


 母に言われるがまま席に着き、寝惚けた状態で朝食を摂る。食卓にあるのは、定番のメニューだ。母の朝食はこの三品にコップ一杯の麦茶と決まっている。朝食以外は、惣菜や冷凍食品などと適当にも程がある母だが、朝食だけは、なぜか一度たりとも買い物であったことはない。手作りと言っても、趣向を凝らすわけもなく毎朝同じメニューを口にしている。だが、それでも不思議と飽きたことはなかった。


 朝食を食べ終え、歯を磨き、顔を洗い、制服に着替えて玄関に立つ。その時分には、母はとっくに家から出ていた。


「あれ、健二。今日はそんなに早く学校に行くのか」


 玄関のドアを開けたとき、後ろから声が掛かる。振り返ると父が立っていた。ぼさぼさ頭のだらしない格好で、眠そうに健二を見据えている。


「何言ってるんだよ。もう七時半だよ。父さんこそ今日は会社休みなの」


 健二の言葉に父は一瞬思考を停止させ、時計に目を向ける。そして、はっとしたような顔をする。どうやら寝坊したようだ。突然スイッチが入ったように慌ただしく動き出した。


 焦る父を尻目に健二は足早に家を出た。




 学校は家から数分の所にある。毎朝歩きで登校し、遅刻はもちろんのこと、学校を休んだことはなかった。毎日を規則正しく過ごす。そうするだけで、他人から文句はおろか、口うるさく言われることもない。決してそれが辛いと思ったり、面倒だなどと思ったことはない。


 始業の鐘が鳴ると、クラスの全員が席に着き授業が始まる。


 授業の内容は、先生の言葉を逃さずノートに書き写す。要点をまとめ復習すれば、何の問題もない。自分のクラスにも勉強ができない生徒が何人かいる。


 授業の間、集中力を保つことなく、何かに目を奪われたり、他の生徒にちょっかいを出すなど、まるで授業に望む姿勢であるとは言い難い。そのくせに、テストが近付くと、自分の愚行など悔いる様子もなく、学業を疎かにしていたのを補おうと他の生徒を巻き込む。自分の失態を省みず、愚行を重ねる身勝手さにも嫌気が差す。


 テストが終われば、同じ過ちを繰り返すように、授業を聞かず身勝手な愚行に溺れる。


 そんなクラスメイトたちを見ていても、時分に害が及ばないのであれば、関心などなかった。他人は他人でしかなく、自分ではない。自分に関わりのないことを気にしたところで、何かが変わるわけではなく、日常は無情に過ぎていく。


 授業の殆どを難なくこなす健二にも、苦手な授業があった。


 体育という科目は、他の生徒がどんな授業よりも好んでいる一方で、健二にとっては最悪と言っても過言ではない。体力に自信がないというのもひとつの理由ではあるが、それよりも最も苦手な要因がある。


 体育の授業では、スポーツをすることが多い。それもチームスポーツだ。それが健二にとっては、最悪以外の何ものでもなかった。他人と協力してひとつのことを成し遂げる。他人の心を推し量るなど、思案することさえ無意味に思える。自分自身で、ひとつのことができればそれで良い。わざわざ他人に協力を必要とするなどプライドが許さない。




 午前の授業が終わり、昼休憩が始まる。このときは、他の生徒が校庭に出て遊んでおり、その間は有意義な時間を過ごすことができる。


 静かに読書を楽しむのもありだが、午前中の授業の復習をするのも良い。とにかく、静寂の時間を満喫することができる。今日も満喫した時間を過ごすつもりだったが、珍しく、今日は教室にクラスメイトの全員が教室に留まっている。


 皆席に着き、誰かを待っているようだ。


 暫くすると、女の担任が入って来た。その容姿に健二は違和感を覚える。


 担任は鮮やかな深紅色の髪を頭の上で結っており、派手な服装がこの場に相応しくないことは言うまでもなかった。欧米系の顔つきに、日焼けなどしたことがなさそうな、透き通った雪のように白い肌。すっと伸びた背の高い鼻筋に並びの良い白い歯が、口元に差してい髪色と同色の口紅を際立たせている。大きな深緑色の瞳が眼鏡越しに教室全体を見渡す。


 どう見ても担任が外国人であることに、違和感を拭いきれない健二だが、それをよそに、他の生徒たちは別段気にする様子もない。


 健二自身、なぜ教壇に立つ女を担任と思ったのかが不可解だった。自分が記憶している担任は、別人だったような気がしてならない。


 教壇に立った担任は、おもむろに口を開く。


「今年度も中盤に差し掛かってきた。いよいよ、学園祭の時期が近付いてきている」


 担任の言葉に、健二は落胆する。今年もこの時期に来てしまった。表向きは学生生活の中で、自分たちが何かを企画するか、自主制を培うということではあるが、実際はただ自分たちの学園生活に彩りを添えるためのものに過ぎない。


 皆で一致団結し、ひとつの目標に向かって努力する。これほど遠回り、且つ効率の悪いことはない。自分の実力を出し切る方が手っ取り早い気がする。


「学園祭を二月後に控えているが、我がクラスは、未だに出店なのか、出し物なのかさえも決まっていない有様だ。以前に決めておくようにと言っておいたのに、誰もリードしないのか」


 担任の言葉に、皆が黙り込む。どうやら、学園祭という行事に、高揚感や期待感が高まる一方で、学園祭を運営することに関しては、消極的なようだ。それはそうだろう。クラスのために自身の時間を犠牲にするのだ。好んでその役割を担おうという者など物好きでない限り、あり得ないことだ。


 担任はそんな生徒たちの反応を予想していたようで、早速議論を進める。


「誰もいないというなら仕方ないな。それでは実行委員はくじで決めるとしよう」


 その言葉に、クラス中の落胆のため息が漏れる。


「誰も立候補しないんだ。これが平等というものだ。実行委員に選ばれた者は、皆の代表として尽力してもらう。心配するな、私も手伝う」


 そう言ってくじを作り始めた。


 くじ引きは、出席番号順で引いていく。


 最後の独りがくじを引き終えると、皆が一斉にくじを開く。張り詰めていた空気は、一人また一人と安堵に変わっていく。


 健二もくじを開く。開かれた紙の真ん中に丸文字で囲われた『当』という字が目に入る。一瞬、困惑する。これはどちらなのか。役割を与えられなかった、と言う意味の当たり、なのか。数少ない中から役割を担われた、と言う意味の当たり、なのか。だが、考えずとも、その意図は容易に理解できるものだった。運の悪さを受け入れられない自分が、その事実を認めたくないあまり、ありもしない別の答えを探しているに過ぎない。


「それじゃあ、くじに当たった者は前に出てきてくれ」


 担任の言葉に、未だ現実を受け入れられずに硬直していた。


 永遠とも思えるときが過ぎたあと、岩のように重くなった腰を上げると、クラス中の視線が自分へ向けられるのがわかった。


 教壇に上り、担任の傍らに立つと、健二の肩に手が添えられる。


「それでは、学園祭の実行委員は、健二に任せることにする。それじゃあ、早速ではあるが、クラスで何をやるかを決めてもらう」


 健二がまだ実感がなく困惑しているのをよそに、担任は話を進めていく。すると、クラス中から様々なアイデアが飛び交った。


 先程までの沈んだ空気とは一変し、和やかで活気がある。こんなとき、人の本質が見えてくる。都合が悪いときは気配を沈め、都合が良いときは出しゃばる。人の見にくさをこの場面は体現している。そう思えて仕方がなかった。


 昼休み時間の中で、数多くのアイデアは上がったものの、クラスの意見はひとつに纏まらなかった。授業の予鈴が鳴ると、クラスメイトは午後の授業の準備を始める。




 一日の授業が終わり、クラスメイトは各々の放課後の予定に向かう。そんな中、健二は一人だけ教室に残っていた。


 授業が終わったあと、担任に呼び出され、放課後に学園祭について話を詰めるから教室に残っているように、と言われたのだ。


 担任を待つ間、読書をして時間を潰していると、ようやく担任が姿を現す。


「すまないな。他の生徒に捕まっていて遅れてしまった」


「いや、別に大丈夫ですよ」


 担任の言葉に、健二は素っ気なく返す。すると、担任は軽く笑う。


「まさか、君が選ばれるとはな。いつもは大人しくクラスの隅にいるというのに。柄ではないのではないか」


 担任の言葉に、健二は苛立ちを覚える。それなら、なぜくじなどという選定法を選んだのだ。こんな状況になる可能性を考慮するべきではなかったのか。内心の怒りを顔色に出さないように、健二は担任と視線を合わせずに頷く。


「まあ、人前はあまり得意じゃないです」


「それじゃあ、今回のことは良い経験になる。見事にクラスをリードしてはどうだ」


 担任は呑気に言って笑う。


 クラスメイトが無責任に挙げたアイデアを、担任と話し合い徐々に絞っていく。最終的には、ふたつまでに絞られた。出店するのであれば喫茶店。出し物であれば演劇ということになる。


「まあ、明日までに二案から一案に絞れば良いな。私としては、皆の晴れ舞台が見られる演劇が良いと思うが。まあ、決めるのは君たちだ」




 翌日になり、再び昼休み時間にクラスメイトが集合した。


「昨日、皆が出したアイデアを二案まで絞ったので、今日はそれを一案に絞るために多数決を行います」


 健二は内心では、緊張しているのをひた隠して声を張る。


 喫茶店と演劇の二案を提示し多数決を摂る。


 結果は数票差で演劇になった。健二は喫茶店が多数で決まると思っていたが、意外な結果に拍子抜けする。


 演劇は個々に役割が与えられる。故に、一人一人の努力と協調性が試されるのだ。その一方で、喫茶店は一部の者だけが役割を果たせば何とでもなる。だがクラスは、その選択せず、わざわざ手間の掛かる演劇を選んだのだ。


 結果が出たことで、学園祭への準備は着々と進むことになる。このときの健二は、更なる苦悩を強いられることを予想していなかった。




 学園祭で演劇をすることが決まったのは良いが、ここからが長かった。演劇をするということは、演目を決めるということだ。そして、それぞれの役決めや脚本担当が必要になる。それを考えると頭が煮えくり返りそうだった。


 まずは演劇のために、舞台を取り仕切る者と脚本の構成をする者の選出しなければならない。幸い脚本の担当はすぐに決まった。しかし、舞台を取り仕切る者。つまり演出役がなかなか決まらなかった。


 健二はクラスメイト一人一人に、演出役の抜擢を直訴して回ったが、応えてくる者はおらず、結局は健二が実行委員と兼任することになった。


 演目は様々な意見が出たが、多数決を採った結果、桃太郎となった。


 健二は今後の見通しが立たず、頭を抱える。自分が実行委員になってしまったがために、学園祭が最悪な結果になる気がしてならない。


 翌日から、クラスメイトに役を振っていく。演劇の主役である桃太郎の役には、クラスで最も人気のある者が務めることになった。その他の役も順次決まっていく。


 演劇であることから、照明や音響など裏方の役目も多く、内心不安だった健二であったが、役決めは一日も掛からず、何とかクラスの全員にひとつずつの役割が与えられることになった。



 学園祭までは一月以上の余裕がある。それまでに演劇を形にし、人前で披露できるクオリティに仕上げなければならない。その上、桃太郎はお伽話の中でもよく知られている物語だ。お伽話の内容をそのままを演じたところで、面白みがないとアレンジを加えることになった。


 物語にアレンジを加えること以外にも、決めなければならないことは他にもある。それぞれの役にあった衣装の準備に演劇のセットの考案。それ以外にも、スケジュールの管理や練習場所の確保だ。


 考えなければならないことが多すぎて、頭が混乱してしまう。そこで、必要なことを忘れてしまわないようにノートに書き留めることにした。


 クラス全員にそれぞれの役割はあるが、それを主導するのは健二だった。


 まずは脚本の催促。脚本を作成している者が、途中まで仕上げた台本をクラスに配布し、それぞれの台詞を覚えてもらう。そして、各場面の舞台設定を構想し、裏方の者たちに道具の作成や調達をしてもらう。


 スケジュール管理に関しては、甘く考えていた。だが、部活動に励む者や放課後の個人の予定。その他にも、様々な事情で放課後の練習や制作に参加できない者が多く、スケジュール管理は難航を極めた。


 クラスの団結が必要であることは、言わずとも知れているが、こうも纏まりがないクラスをどう導けば良いのか。考えても、導き出せない答えを探して頭を抱える。


「すごく悩んでいるようだな。どうしたんだ」


 絶望の淵に立つ健二の気などお構いなしというように、面白がった様子で担任が声を掛けた。


 担任は僅かに口元を綻ばせている。まるで、健二が煩悩に顔を歪めいているのを眺めるのに、喜びを覚えるらしい。


「何ですか。用がないなら、いちいち含みのあるような態度とらないでくださいよ」


 健二の言葉に担任は微笑む。


「いや、違うさ。お前が努力している姿を見ていると、つい微笑ましくてな。がんばっているようだから労いの言葉を、と思って来てみたんだが、見たところ足踏み状態のようだな」


 担任の言葉に、健二は目を伏せる。


 ここ数日は、演劇の練習をクラスに呼びかけているが、集まるのは数人。その者たちもやる気がないのか、その場に屯しているだけで、練習をする気配はない。


 よく考えてみれば、役者が何人も欠けている状態では、練習がしたくてもできないのは必然だった。だからといって、練習をしなくても良い、ということにはならない。理想と現実のもどかしさの狭間で、健二の苛立ちは募るばかりだ。


「俺はどうすれば……どうすればクラスが纏まるのかが、わからないんです」


 健二はふと担任に悩みを吐露する。すると担任は考え込む様子で健二の傍らに座る。


「そうだな……もっと柔軟に考えてみれば良い。お前は今どうしたいんだ」


「クラスの全員で集まって練習をしたいです」


「そのためには何が必要だ。どうすれば良いと思う」


 担任の問いかけに、健二は首を捻る。どうすればクラスが纏まとまるか、ということは思案し続けている。そのために、練習の日にちをこちらからクラスに提示し時間までも決めた。


「練習の日時はちゃんと決めました。だけど、殆どの生徒が来なくて。集まった生徒たちもただ時間を持て余してるだけで。正直、やる気を感じられません」


 健二が不満を口にすると、担任は納得した、という表情で何度も頷く。


「お前は実行委員として使命を果たし、皆をリードしている。そう言いたいんだな」


「はい、その通りです。俺に落ち度はありません」


「お前からしてみれば、色々お膳立てをしてやったというのに。腹立たしいだろう」


「まあ……少しはそんなことも思ったりもしますけど」


 健二は自分だけが、忙しく動き回っているというのに、クラスメイトが協力してくれないことに、内心は苛立ちを覚えていた。そんな健二の言葉に、担任は頷く。努力している自分に、同情の言葉を投げ掛けてくれると期待していた健二を裏切るかのように、担任の口から語られたのは、意外な言葉だった。


「お前は努力している……だが、その努力は無駄とまでは言わないが愚かな行為だ」


 その言葉の意図を理解できず、健二は困惑する。自分がしていることが否定されていることはわかったが、何が間違いなのかがわからない。


「何でそういうことになるんですか。俺はクラスを想って……」


「そこだ。お前は努力している。だが、その方法が愚かだと言ってるんだ」


「――言ってる意味がよくわかりません」


 健二は訳がわからず、担任を睨み付ける。なぜ、自分が愚かだというのか。その理由が知りたい。自分のことが気に食わず、皮肉、あるいは故意で嫌がらせをしているというのであれば、健二にも考えはある。このまま学園祭まで何もせず、このクラスの演劇が悲惨な状態で発表を迎えることになれば、クラスの監督責任を問われ担任が、恥を掻くことは必至。それが嫌なら担任には、強制的にこの演劇を見るに堪えるクオリティにまで上げてもらうと思っていた。


 そんなことを考えていた健二とは裏腹に、担任の表情は穏やかだった。


「健二。お前は努力家だ。だが、他の者にも仕事をさせてみてはどうだ」


「俺は別に……皆のことを想って、便宜を図ってるつもりですけど」


「お前は優しいな。だが、それではクラスは纏まらない。なぜだかわかるか」


「――いえ、わかりません」


「それは、お前だけが苦労し、他の者たちは、お前が敷いたレールの上を進んでいるだけだからだ」


「――何が言いたいんですか」


「私が言いたいのは、他の者にも苦労をさせろ、ということだ」


 担任の言葉の意図が読み取れず、健二は眉を顰める。


 健二の反応を見て担任は諭すように、優しい口調で言う。


「人が自立するには、自主制が大切になる。自分たちのことは、自分たちで決められる力が必要だ。そして、自分たちで決めたことは、責任を持って携わる。これは、社会に出ればごく当たり前なことで、逆を言えば、それができなければ、社会から排除されても文句は言えない。他から言われて動くのは、容易であると同時に責任感が伴わない。故に、直ぐに約束を違えるといった信用に足らない軽率なこともできてしまう。自主制を掲げるのは、容易なことではない。自分たちで考え、互いの意見を集約しなければならないし、互いの意見を交え妥協することも必要になる。難しいことではあるが、それが達成できれば、お前をはじめ、クラスの全員が社会に出るために必要な素質を培うことができる」


 担任はそう言って微笑んで見せる。その微笑みが、なぜか健二を安堵させた。実行委員になってからというもの、ずっと自分の中にあったもやもやとしたものが、一気に拭われた気がした。


「だが、自主制を持たせる以外にも、お前には実行委員としての大事な使命がある」

「大事な使命」


「リーダーは文字通り、皆を導かなければならない。皆が別々の方向を見ていては纏まりに欠ける。だから、お前がそれぞれの考えや意見をまとめ上げ、ひとつの目標へ導くんだ。相手の立場に立ち、なぜそのような考えに至ったかを考えろ。そうすれば、何をすべきかが、おのずとわかるようになる」


 担任の言葉に、健二は大きく頷く。


「私は助言しかできないが、大人としてお前たちに必要なサポートは最大限するつもりだ。沢山苦悩し藻掻け。そうすれば、最善の答えが導き出される」


 そう言って担任は、健二の髪をクシャクシャに撫でると足早に去ってしまった。


 一人取り残された健二は、呆然としたまま立ち尽くしていた。


 自分の考えの及ばないところに、担任の助言を受け、新たな打開策を見出せる気がしていた。今までは、自分の考えに固執し、それが結果的にはクラスにとって不利益に働いていたとするならば、確かに自分は間違っていたのかもしれない。


「ありがとうございます」


 健二は呟き気味に、担任に感謝の念を口にする。




 翌日は担任に助言されたことを早速実践してみた。


 はじめは、クラスの殆どから不満が出ていた。それでも、めげることなくクラスメイトを引き止め話し合った。


 演劇を成功させるためには、一人一人の参加が重要であることを健二はクラスメイト全員に訴えた。健二の言葉に、皆が面倒くさそうな様子で聞き耳を立てる。中には話を聞かず、私語に勤しむ者たちもいる。健二は沸き立つ苛立ちを何とか抑え、担任の言っていたことを信じて実践しようと歯を食いしばった。


 まずは、放課後に練習に集まれない理由などを聞いていく。やはり、部活や放課後の予定などで参加できない者が多くいた。それ以外にも、曜日を固定したい者や逆に柔軟に日程を変更したい者もいた。その他にも様々な意見が出た。これではクラス全員が同じ日に、日程を合わすことが難しいとわかった。そこで、健二は思案した結果。ある結論を導き出した。


「皆には演劇練習や打ち合わせの日程を自分たちで決めてもらいます。クラス全員が同じ日に集まれないことはわかったので、演劇練習をするのは、幾つかの班にわけて行いたいと思います」


 健二の言葉に、皆の口から不満げなため息が零れるのがわかった。


 健二はそんな反応には構わず話を進める。


「今日は班を決めてもらいます。そして、練習日も各班で決めてください。そのあとに、まだ演劇の細かい演出や設定などを皆で話し合います」


 健二の言葉に、皆がやるせない様子であったが、役同士で集まり徐々に班を作っていく。


 班は桃太郎をはじめとする主役の班、鬼の班、老爺と老婆の班。そして大道具、小道具の班に分かれた。そこから、各班の日程を決めてもらう。


 各班から代表者を決めてもらい、日程のすり合わせなどを行う。各班同士が連携して各場面の演劇の練習をする日程を調整することで、クラスメイト全員が同じ日に集合しなくても済むようになる。


 そのあとは、演劇の演出や設定を決めていく。


 役の設定に関して生徒の一人から桃太郎の共をする犬、猿、キジに関して面白い提案が上がった。これらの役を動物ではなく擬人化してはどうか、というのだ。つまりは今、アニメや漫画界隈で人気がある動物を獣人として発展させ、人間的な側面を持たせることで、共感を生みやすくするということだ。そうすることで、オリジナリティで趣ある演劇になることは間違いない。


 いつしか、クラスの全員が、健二あるいは提案者の言葉に耳を傾けるようになっていた。はじめは乗り気ではなかった生徒たちの雰囲気が、明らかに変わり始めているのがわかった。皆の顔が、明るく和やかになりつつあった。


 翌日からは、各班同士の代表者が話し合い、練習の日程を決めているのを見掛けるようになった。大道具や小道具を担う班も、舞台上で必要な道具について話し合っているのが見えた。健二が話し合いを提案しなくとも、自主的に集まるようになったのだ。




 日々を演劇に費やし、半月ほどが経った。


 演劇の殆どが完成間近の状態だった。クラス内で通しを数回行い、途中でトラブルなどが起きることも多々あるが、それでもクラス全員が、その問題を解決すべく動くこともある。以前には考えられもしないことが、目の前で起きている。健二は信じられない光景を日々、目にしていた。声掛けひとつで、クラスが纏まり、学園祭に向けて一丸となっている。


 今日はクラスで通しをするため、本番と同じように、体育館の舞台で実際に演劇をすることになった。


 大道具が準備する舞台背景は、全ての班が協力して制作した。不格好ではあるが、演劇の雰囲気を盛り立てるには十分な完成度だ。


 通しを終えたあと健二は担任に呼び出された。


 担任は、教室の教壇に立っていた。


 健二が来たのを認めると意味ありげな表情をする。


 そんな担任の意味深な様子が気になりながら、促された椅子に座る。担任も同じく椅子に腰掛ける。


 担任は深くため息を吐くと、そこから何かを語る訳でもなく、ただじっと健二を見据える。


 担任の眼差しに、健二は視線の行き場に困る。見つめ返してしまうと、睨めっこのような状況になりそうで避けたかった。他人と視線を合わせることには、抵抗がある。自分の全てが見透かされているような気がしてならない。


 担任は、暫く黙り込んだままだったが、おもむろに口を開く。


「それで……クラスの様子はどうだ」


 やっと会話が始まったことに、健二は安堵する。これで緊張せず、担任の目を見て話しをすることができる。


「まあ、順調ですよ。これなら学園祭にも余裕で間に合うと思います。というか、クラスの様子からして、待ち遠しいといった感じですけど」


「そうか。それは良かった」


 そう言って担任は何度も頷く。その表情は満足げで、喜びの表情が露わになっている。すると、担任は何かを決心したように居住まいを正す。


「そういうことなら。お前がいなくても、クラスの生徒たちは最後までやり遂げられるだろう」


 担任はそう言って、健二の肩を軽く叩く。その言葉に、健二は違和感を覚えた。


「あの、何が言いたいんですか」


 担任が言う自分がいない、というのはどういう意味なのか。比喩的な意味なのか、それとも言葉通りの意味なのか。その答えは直ぐにわかった。


「言葉通りの意味だ。このクラスは、お前がいなくてもやっていける。学園祭は有意義なものになるはずだ」


 担任の言葉が理解できず、健二は硬直する。その言葉を頭の中で繰り返す。


「俺も学園祭には出るつもりですけど」


 健二はなぜか疎外感を覚え、担任に食い下がる。


「だが、お前にはもう時間が無い。私もこれ以上、時間を稼ぐのは無理だ」


「時間を稼ぐって、どういう意味なんですか」


 健二の言葉を遮るように、担任は言葉を継ぐ。


「お前が私の望むような者で良かった。まあ、少し子供っぽいところはあるがな。と言っても、お前は子供か。何にせよ、お前が次代の王に相応しいと私は思う」


「何の話をしてるんですか」


「そろそろ目覚めるときだ。私の言葉をどうか忘れずにな。それと――スノウにもよろしく言っておいてくれ。アイツがどれほどの覚悟を持って試練に望んでいるのかは知らないが、師匠としては心配な部分もあるのでな」


 担任が話し終えると同時に、周りの風景がゆらりと揺らめきだすと、溶けるように視界が霞む。そして、以前にも経験したことがある感覚が襲う。


 意識が遠のいていくのと同時に、身体は身動きすらできなくなる。全身を襲う痺れを感じ、意識が朦朧としていくと、目が眩ます発光のあとには、無だけが残った。

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