第九話 放浪する者

 助からない。

 その見解は、観衆の中にも発生した。

 変化は劇的だった。

 それまでのざわめきがしん、と静まり、次の瞬間、周りにいた見物人が蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。


「病気だ!」

「この乞食、病気にかかってやがった」

「血を吐いたぞ」

喀血かっけつだ。うつるぞ!」

「村に病気が入る。逃げろ!」


 鞭打ち台の周りの人口密度が、笑ってしまうほどに過疎化した。刑吏さえも逃げた。

 最初こそ感染病患者の適切な処置を、と言おうとしたようだけど、助手二人が真っ先に逃げ出したのを見てすぐ、役目を放棄した。

 瞬きの間に公開処刑場には人がいなくなり、あとには人がいた痕跡とゴミと、ぼくたちだけがいた。

 取り残された二人。

 まるで、ぼくそのものを現しているような光景だった。

 でも今は、そんなこともどうでも良かった。ただ処刑人がいなくなって、鞭打ちが中断された。それが全てだ。


「かあ、さん……?」


 傍らで倒れたままの母の肩を、恐る恐る揺する。その視界の端で、服が破れ剥き出しになった赤い背中が見えた。皮膚は真っ赤に爛れてめくれ、所々に見える赤黒いものは、骨だろうか。それが、肩甲骨の周りから、背中、脇腹、お尻の上辺りまで、熊手で全体重をかけて引っかいたみたいに、ぐちゃぐちゃだった。これで助かる人がいるなんて、とても信じられない。

 げぼっ。

 と、再び母の口から血の塊が零れた。今度はさっきよりもどろりと濃い、病人特有の吐血だった。


「…………ッ」


 もう、見ていられなかった。小汚い服の裾で母の口元を拭うことしかできず、嗚咽交じりに懺悔した。何の意味もないと知りながら。


「ごめ、ごめんなさい……ッ」


 守れなくてごめんなさい。弱くてごめんなさい。利用しようとしてごめんなさい。愛されたいって思ってごめんなさい。騙していたって、ちゃんと言わなくてごめんなさい。

 ただの好奇心が誰かを傷付けるなんて、知らなかったの。たった一切れのパンを得ることが、あんなにも難しいことだって知らなかったの。出来もしない希望が、こんなにも残酷だって知らなかったの。

 こんな結末になるって知っていたら、ぼくはきっと教会から出なかった。何もしなかった。今でもそんな風に思うぼくが、嫌いでどうしようもない。

 アイゼンは、自分で気付いたのに。親に生贄のように捨てられ、狭い空間で自分の力だけを頼りに足掻くしかないことを。そのために、努力が必要なことも。

 ぼくも境遇は似たものだったのだから、できたはずなのだ。少しでも考えて努力すれば、アイゼンには及ばなくても、こんなにも後悔することはなかっただろうに。


「馬鹿で、ごめんなさい……愚かで、無知で、ごめんなさい……ッ」


 あなたを助けられないのは、ぼくが愚かだからだ。弱いことを言い訳に、何もしてこなかったからだ。

 今だって、謝ることしかできない。

 その矮躯を抱き上げ運ぶことも、治療することも、求める言葉をかけ、気を紛らわせることさえ、ぼくにはできない。


「ごめんなさい……ッ」

「……あ」

「! 母さん!」


 荒い呼吸の合間を縫うように、声が発せられた。ぼくは縋りついていた顔を上げ、母の口元に耳を近付ける。


「……あんたみたいな、ひょろっちい弱虫が……ひとの命、ひとつ、守れるほど、大層な力……あるもんかい。他人なんか気にする前に、自分を全力で、守るんだね」


 ぜぇぜぇ、ひゅーひゅーと、言葉よりも零れる呼気の方が大きいほどだった。一言口にするたびに、新たな血が口端から細く零れた。

 それでも、母は笑っていた。目で、口の端で、心で。

 その強さが、ぼくには眩しくて、痛かった。

 四つんばいの姿勢から顔を上げ、息も絶え絶えな赤の他人の顔を覗き込む。鼻からも口からも血が垂れていた。赤く充血した瞳には、それでも涙はない。そして顔には、歳の分だけついた傷と、苦労と放浪の分だけできたシミが広がっていた。

 醜い、けれど眩いほどに美しい、女の顔だった。


「他人なんかじゃ、ない」


 ぼくは次から次へと溢れる涙を止めることもできず、ふるふると首を横に振った。


「母さんだ。てたぼくをずっと想って、やっと会いに来てくれた母さんだ。ねえ、……それでいいでしょ?」

「そんな夢想で、腹がふくれるもんか」


 ぼくの願いを、母は笑止と否定する。そんな都合のいい人情話が現実に起こるはずはないと、ぼくだって分かってる。それでもその通りだと言って、受け入れてほしかった。

 でもこの母は、そんな夢も見せてはくれない。弱さを認めはしない。ただ、現実を見ろという。


「放浪者、なんて……自分一人を生かすのだって死に物狂い、なんだ。いつ産んだとも思い出せない餓鬼なんか、気にするもんかい」

「だったら……なんで庇ったの。騙してたのに、なんで……!」


 糾弾することで、死に掛けの魂を繋ぎとめる。憤りもあった。それでも、ぼくはこの人が母でいてほしいと思った。母に触れ、知ろうとすればするほど、分からなくなっても。


《分かってないなぁ、お前は》


 悪魔がほくそ笑む。

 助からない母と、助けられないぼくを満足げに見下して、なおぼくの心を痛めつけようと。


《そいつはお前を騙して脱獄できれば、あとは一人で逃げるつもりだったんだぞ? その後でお前が代わりに鞭に打たれようと、助けもせずに距離を稼ぐだけだ。そしてまた次の村を見付けて、飯を漁るために忍び込む》


 構わない。母がどこかで生きてさえいてくれるなら、ぼくはそれで良かった。ぼくが修練教会で独り生きてきたのは、きっとこのためだったと思えるから。


《憐れだなぁ。愛など、報われなければ意味などない。無償の愛など、口先だけだ》


 悪魔が、珍しく感情的に吐き捨てる。

 その通りかもしれないと、ぼくも思う。パンを届けるのも、結局愛してほしかったからだ。無償の愛なんて、ぼくには遠すぎて影も形も掴めない。

 では、もうすぐ死ぬと分かっているこの女に縋りつく行為は、何なのだろう。

 こうなっては、どんなにぼくが尽くしても、愛を返すことなど不可能だ。それでも縋りつくのは、ただ諦めが悪いだけだろうか。こうなってさえ、まだぼくを救ってほしいと、愛してほしいと思っているのだろうか。


「喋り過ぎて、喉が渇いたよ……」


 母は笑ってそう言った。ぼくの問いには答えない。視線も合わない。もう、目が見えていないのかもしれない。


「……水、いま水を」


 いや違う、医者だ。医者を呼んでこなければ。

 施療院に行って、治療できる誰かを探す。孤児のぼくがお願いしても、誰も来てくれないかもしれない。それでも、やらなければならない。最悪、施療院から治療道具を持ち出して、ぼくが手当てすればいい。

 そう思い至って、やっと膝を浮かせたとき、


「あんた、名前は、なんとお言いだい?」


 ひび割れた唇が、喘鳴を伴ってそう動いた。聞き取れないほどに掠れていたけれど、ぼくはすぐに理解した。


《おいおい。そんな場合ではないだろう。名前など、死にゆくものに何の意味がある?》


 悪魔が一笑に付す。

 間違いではない。けれど今この時に言わなければ、二度と名乗る機会はない。

 だからぼくは、ずっと大嫌いだったその名前を口にした。


「ゾーン。ただの名も無き息子ゾーンだよ」


 それは、ぼくを拾った院長様が付けたものだ。そしてこの十一年間、ろくに呼ばれたことのない名前。

 何者でもない、ただの『息子ゾーン』。


「ゾーン。良い名だ。息子ゾーン……」


 もう音にすることもできない吐息で、ぼくの名を何度も、何度も繰り返す。

 常に無心に努め、心を荒立てず、神様にも修練士様にも咎められないようにとだけ生きてきたぼくが唯一、心の底から忌み嫌ってきたこの名前を。


「みんなの息子ゾーン……あたしの、息子――」

「――――」


 左手の甲を、何かが濡らした。温かい液体に、また血かと思った。けれど、違った。

 それには、ぼくが恐れた色はついてなかった。

 母の吐いた血で赤く染まった手の甲の真ん中にひとつ、まるでそこだけ清められたように、透明な雫が浮いていた。

 何者にも染まってたまるかとでも言いたげに。


「かあ、さ――」


 まさかと、母の瞳を見る。その前に、どん、と肩を押された。不意のことで、呆気なく鞭打ち台から転げ落ちた。

 背中をしたたか打って、左足がしつこく痛みをぶりかえした。

 それでも必死に体を起こして、台の上を見上げて。


「『聞けオブスクルタ』」


 天啓がした、と思った。

 瀕死の重傷のはずの母が、いつの間にか自分の足で立ち、両手を広げて空を見ていた。

 まるで双聖神が再臨したかのように、威風堂々、音吐朗々と、声が響く。


「我らが息子よ。無垢な子よ。嫌になるほど長生きして、世界に溢れる罪と悪と醜い全てを知るがいい。そして全てに絶望しな。あたしらみたいに」


 それは嘘だと、すぐに直感した。

 放浪者は、誰も絶望なんかしていない。だから歩き続けるんだ。歩き続けられるんだ。信じるものを、心の赴くままに信じ求めている。

 だって母は、一度も諦めたりしなかったじゃないか。

 だから母は笑うのだ。

 もう目も見えず、声も出せないほどに弱っていたはずなのに、あの濁声でもなく、修練士様のように耳触りの良い声で、歌うように優しく。


「これは呪いだよ。全てに絶望するまでは、絶対に……あたしらの所に来るんじゃないよ。いいかい。来たら追い返してやるからね」


 生きろ、と。

 そう言われているのだと、理解するにはひどく時間がかかった。

 ぼくが逃げようって言っても、馬鹿だね、としか言わなかったのに、そんなの身勝手だ。母さんを逃がしてあげられないのなら、そばにいていいでしょう? そばにいるのもだめなの?


「そばに……かあさんの、そばにいたいよ」


 碧落のようなその人を見上げて、ぼくは願う。今まで一度として願い事なんて叶ったことがないのに、今更のように願う。

 母は陽炎のように笑って、また口を動かした。音には、もうなっていなかった。でも、聞こえた。

 それが分かったように、母はふらりと身を翻した。とん、とん、と弱々しい足音を立てて、裸足のまま鞭打ち台の階段を降りる。

 そして村とは反対の、寂れた街道とも違う場所へと歩き出した。


《放浪者とは、憐れな存在よな。居場所など、永遠にない》


 母は放浪者だ。今の世に溢れ、人の世にあぶれる数多の中のひとつ。

 差異などごく僅かだったはずなのに、時の移ろいに翻弄される間に、些末な違いは絶望的な隔たりへと変わった。

 戻る先は人の中ではなく、大いなる命の循環にしかない。

 腕一本動かすのさえ辛いはずなのに、その背は最早酷く遠かった。とても追いかけられない。今までのぼくなら。

 でも、ぼくはもう知ってしまった。たった一人の母に、教えてもらった。

 どんなに難しくても、障害があっても、行けないことなんてないと。

 ぼくは震える足を何度も拳で叩いて、嘆く心を何度も言葉で殴った。


「……行け」


 時折強く吹く風が母の痕跡を掻き消してしまわないよう、遥か遠いその小さな背中だけを見つめた。


《無駄だ》


 蟻のような遅さでも、ぼくは走った。走りながら、また泣いた。


《無駄だ無駄。追いついても意味はない。愛は得られない》


 母は、もうどこにも行けない。あんな体じゃ、次の集落にも、他の放浪者とも合流できない。到底生き延びられない。

 それでも母は歩く。放浪者だから。

 こんな、未知を恐れて動かない、排他的で停滞した営みの中で潰える魂ではないから。

 だから歩く。在るべき場所で死ぬ為に。

 そしてその命は、ぼくが辿り着く前に巡る輪の中に還るだろう。

 それでも、ぼくは追いかける。だからこそ、追いかける。腕を振って、足を前に出す。痛みで目が眩んでも、意識が飛びそうになっても。


《無駄な足掻きだ。あの女も、お前も》


 乾いた風が目に染みる。まるで泣けと言うように。

 そんなことは違うって。風の通り道に自分が立ってるだけだって分かってるのに。瞼は熱く震え、止めるものは最早なかった。

 滂沱ぼうだと流れる雫が、ぼくの弱さを押し流す。自分の意思ではとても止められそうにない。その勢いは、ぼくの何かを作り変えるようで、恐ろしくさえあった。

 涙するということの怖さと痛さと偉大さを、全身で感じた。


《無意味な涙だ。今すぐ足を止め、傷を癒す方が何倍も建設的だ》


 悪魔がぼくを全身で否定する。もうここまでくれば、それが本当は悪魔なんかではなく、もう一人のぼくの声にすぎないと気付いていた。

 悪魔なんかどこにもいない。ずっと押し殺して、見ないふりをしていた本音が、ぼくを唆すのだ。

 でも、それでいいんだ。

 ぼくはこれからも惑うだろう。心の中で他者を貶し、侮り、善を憎み、楽な方へと逃げようとするだろう。

 それでも、今だけは、ぼくは歩くから。

 母に追いついたら、力いっぱい抱き締めよう。そしてうんと甘えるのだ。喉が渇いたと言った母に、ぼくの涙を捧げるのもいい。母は汚いと嫌がるだろうけれど。

 ぼくの涙を、母の旅立ちの聖水にしよう。

 だから、母さん。

 待っていて。

 いま、追いつくから。




       ◆




 世界は、劇的に変わることなんてなかった。

 母の遺体を一晩かけて地中に埋めると、ぼくは修練教会に戻った。野次馬の誰かが知らせたのか、すぐに修練士様に見つかって、気絶するほどに鞭を打たれた。勿論食事も抜かれた。

 それでも、結局元の生活の中に再び組み込まれた。

 左足は、あれからずっと引きずって歩いている。

 アイゼンたちからの虐めはもっと酷くなるかと思ったけれど、案に相違して遠巻きにされるようになった。病気が移ったとでも思われているのかもしれない。

 でも、独房に入る回数はあまり減らなかった。

 修練士様の言葉で分からないことや納得できないことがあると、理解できるまで尋ねるからだ。


 独房は、嫌いじゃない。

 懐かしささえ覚える石と黴臭さの中、月も収まりきらない小さな窓を見上げながら、いつも考える。

 ぼくの母になってくれた、あの人のことを。

 村でまた捨て子が拾われたという噂を聞くにつけ、思わずにいられない。

 あの人も、本当の子供を産んだことがあったのだろうかと。そのうち何人の子供を生かし、生かしきれず、棄てるしかなかっただろう。その子供は、今もどこかにいるのだろうか。

 あの人の名前も聞かなかった。きっと探し出すことは出来ないだろう。


 愛とは何だろう。


 それもまた、考え続けている。甘美なものだと答えた悪魔は、あれ以来喋らない。

 でも、導き出せるものはあると、ぼくは気付いた。


「『赤子を喪った母親ドゥッツベッテリン』……か」


 あの人が捕まった時、アイゼンはそう言った。

 実際、放浪者は様々な同情的存在を演じて、定住者からの同情を買う。そしてそれは、聞き慣れてしまえば効果が減る。

 それでも、そのあとに捨てられた赤子を見た者は、きっと考えるだろう。この赤子もそうだろうか、違うだろうか。施しを与えるべきだろうか、平気だろうか。

 その時は何もしなくても、次はするかもしれない。次もしなくても、その想いは振り払えない塵のように音もなく降り積もり、いつかその者の心を溢れさせるだろう。

 それが罪悪感という名なのか慈悲という名なのかなど、赤子にはどうでもいいことだ。

 あの人がそこまで考えていたなんて思わない。けれど、想像するのは勝手だろう。


「……母さん」


 たまに、本当にたまに、声に出してそう呼ぶ。

 挫けそうな時、もう前に進めないと思う時、もういないあの人に縋って、また顔を上げる力にする。

 その度に、ぼくの胸に深くふかく杭打たれた呪いが色濃くなる。あの日の決意を鮮やかに蘇らせる。

 ぼくはあの人の忠実な息子として、もう何年も母の言い付けを胸に刻み続けていた。

 世界を見ると。この目で全てを見ると。

 最初で最後の名もなき母の言葉を形見に、ねがいを道標に。

 絶望するまで歩き続けると、決めたのだ。


「行くのか、ゾーン」


 修練教会の門まで来てくれた見送りは、一人だけ。彼と胸襟を開いて話せたのは、ここ一、二年ばかりのことだったけれど、ぼくにはとても有意義で、幸せな時間だった。


「ああ。行ってくるよ、アイゼン」


 すっかり大人と変わらない体格になった青年に軽く手を上げ、ぼくは歩き出す。

 未練はない。躊躇いもない。目の前には、絶望へと繋がる希望だけがある。

 それが蟻のような一歩でも、ぼくは歩いていける。

 何もなかった心の一番奥には、あの日、母が最期にくれた音のない言葉が、ずっと優しく横たわっているから。




『 かなしいぼうや。あたしの罪。

                     ――――歩け 』



《了》

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