一掬の涙

第一話 落穂拾いの少女

 その世界は美しかった。


 空は茜色に染まり、雲は黄金に輝き、豊かに実った麦穂は荷台に横たわり、馬はたっぷりの収穫で重いその荷をく。

 周りでは、一日の労働を終えた小作人たちが、慎ましい夕食と愛しい家族との団欒だんらんに思いを馳せながら帰路についている。

 誰も、すっかり背の低くなった広大な麦畑に現れる、みすぼらしい女たちには目もくれない。

 彼女たちは誰もがみな居心地悪そうに腰を屈め、雀とともに無言で取りこぼされた落穂おちぼを拾っている。それは、彼女たちの最低限の権利だった。そして同時に、彼女たちの存在そのものとも言えた。

 落穂に限らず、彼女たちは裕福な者が見捨てた物を命に変え、生き永らえてきた。それが権利として主張できるのは、古き時代より読み継がれる神識典ヴィヴロスにその教えが明記されているからであり、多くの善良な人間は、その教えに忠実に、落穂を拾う彼女たちを許し、見逃してきた。

 それは麦畑の外を行き過ぎる彼らにしてみれば、疑う必要もない美徳だろう。その絶対的な信念が、彼女たちの行為の本質から目を背け、拭い去ることの難しい優位感を無意識に植えつけていることには気付きもしない。

 だからこそこの世界は恙無つつがなく進み、あるいは停滞していた。


 それでも、その美しさが損なわれることはない。


 それはあるいは、あわれな彼女たちの存在が偉大なるものを揺るがすほどの力を持たないからとも言えたし、またあるいは彼女たちがいてこその美しさであるとも言えるかもしれない。

 誰にも何も出来ない、蟻のごとき無力の象徴。

 終わりのないこの繰り返しを無価値と見向きもしない者もいれば、そこに生まれる苦悩と葛藤を心待ちにして見守り続けるような者もいる。

 私だ。

 私は、今はまだ手を出さない。

 何の力ももたない憐れな子羊の、いまだ始まりを知らない恋を待つ。




       ◆




 その日も、一人の少女が大人たちに混じって僅かな落穂を拾っていた。

 刈り入れから日没までの短い間に、少しでも多くの麦を拾わなければならない。

 帰っていく地主や小作人たちから向けられる視線も、もう気にならない。憐みや嘲笑や邪険な気配などに屈していては、今日の食事にはありつけない。

 けれど手伝いから解放されて刈株かりかぶの間を走り回る小さな子供たちばかりは、いつも厄介だった。


「こそ泥がまたいるぞ」

「乞食だ乞食」

「ゴミを拾ってる」


 周囲を走り回っては意味も分かっていない言葉で囃し立て、こちらが反応するまでまとわりつく。

 大人たちからの視線なら、まだ耐えられた。けれど十三歳の少女にとっては、同年代の、大した苦労も知らない連中の言葉は、やはり胸に刺さった。

 片手で持てるような編み篭を掴む手に力を込め、地面だけを睨む。雀の腹しか満たせないような落ち穂しか落ちていない畑を。

 鋭い声がしたのは、そんな時だった。


「何やってんだ」


 声変わりが始まったばかりのような少年の声が、小さな子供たちを追い払う。その発言の矛先が自分にも向いていることを少女は十分に理解していたけれど、手を止めることはしなかった。


「……おい」


 同じ声が、少女の横をついてくるように追いかける。

 少年のことを、少女は知っていた。この麦畑の地主の息子で、いつも同年代の少年たちに囲まれてふんぞり返っている。少女がこうして余り物を得ようとする時、彼らはいつもこうしてからかいにやってきた。

 だが、今日は珍しく一人のようだ。


「おい」


 無視する。相手をしていたらキリがない。

 こういった手合いは、標的が泣いて懇願するまで満足感しやしないのだから。


「おい、聞こえてんだろ?」

「…………」


 しつこい。少女は、心の中だけで反論した。


(わたしには、ツェーレって名前があるのよ)


 こういった連中は、少女のような階層の人間にも名前があるなど、考えもしない。

 そう考えてすぐ、虚しくなった。


(……もう、呼んでくれる人なんていないじゃない)


 少女――ツェーレは、一瞬胸に湧いた感情を押し殺して作業を続けた。

 そこに、ふん、と頭上で汚い鼻息が鳴った。


「今日はうちの畑で、明日は隣の畑か? ここいらで刈り残ってるのはあそこくらいだもんな。でも、あそこの親父はすんげぇケチなんだぞ。目をつぶって見逃してくれないかもしれないぞ」

「…………」


 この厭味も、もう三度は聞いた記憶がある。新しい文句があるわけでもないのにわざわざ言いに来る心理が、ツェーレには理解不能だった。

 そんなことは、今さら言われなくとも嫌という程身に染みている。


『束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。ぶどう畑で収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない』


 神識典には、そんな一説がある。

 この村に限らず、この地域に住む者はみな生まれる前からこの教えに親しみ、日曜には教会に赴いて説教にこうべを垂れ、実際に大抵のことを忠実に守っている。

 けれどどれほど明記されていようと、結局は丹精込めて育てた自分の作物だ。畑に卑しい者が入ることを嫌がる者も少なくない。

 そして無意識に見習うべき大人たちがそうであれば、子供たちの態度がそれよりも良くなることなど期待できるはずもない。あからさまな嫌悪感だけならまだましな方で、何の収穫も得られず血だらけで帰ることも度々だった。

 惨めだと、思う感情はとうに擦り切れていた。

 その、はずなのに。


「……くそっ」


 小さな苦々しい悪態が、屈んだまま移動していたツェーレの耳に触れる。

 まだいたのか、と思った時、不意に落ち穂というには整いすぎた麦の束が眼前に現れた。


「…………」


 ツェーレはついに手を止めた。疲れきった翠眼をじっとその先へと滑らせる。

 やっと少年と目が合った。


「まだ厭味が言い足りなかったのならどうぞ。拾いながら聞くわ」


 何のつもり、とか、馬鹿にしてるの、から始まる問答にかける時間さえ、ツェーレには惜しかった。

 言い方が生意気だということは承知している。その延長で相手を言い負かし、無用な暴力を受けたこともある。だが今のツェーレには、言葉よりも暴力のほうが遥かにあしらいやすい苦痛だった。

 肉体的な苦痛なら幾通りものやり過ごし方を知っている。それに今は少し、鈍くなっている気がするのだ。痛覚と言わず、何もかもが。

 特に最近――ここ二週間程は。

 けれど諦観とともに再び地面に手を伸ばしたツェーレに向けられたのは、予想したものとは少し毛色の違う言葉だった。


「ちがっ……ホント厭味な女だな。なんで素直に受け取らないんだよ」

「? 受け取らないなんて言ってないわ。有り難くいただくわよ。うちには空腹に泣くのを堪えて待っている幼い弟妹が、五人もいるのだもの」


 言われたことの意味が分からなくて、ツェーレはまた顔を上げた。

 少年は、少し近いとさえ思える距離にいた。そばかすの浮いた鼻にもどかしそうな小じわを浮かべている。


「だから、それはしっ……」

「……?」


 返された文句はけれど、途中で不自然な沈黙になって終わった。薄い唇を引き結び、拳一つ分低いツェーレを見下ろす。


(綺麗な碧眼だ)


 いいな、とツェーレは思った。

 夏の青空のようにきらきらと澄んだ瞳は、疲れてもんでもいない。その真っ直ぐな、我がままとさえ言える強さは、何不自由なく周りに愛されて育った証拠のようにも思える。

 途端、胸に湧いた感情が息をも止めようとするかのように苦しくなって、目を逸らした。


「……なに」

「ぁ、いや……」


 八つ当たりをした。困惑気味の顔で歯切れ悪くそう答えた少年を盗み見て、そう思った。


(八つ当たりなんて、今までしたことなかったのに)


 これでは、この少年たちと同じだ。

 そう思うともうこの場にいることが耐えがたくなって、ツェーレは力任せに目の前の麦束に手を伸ばした。


「! なにす――」

「『束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは在留異国人、孤児みなしご寡婦やもめのものとしなければならない。あなたは、自分がかつて奴隷であったことを思い出しなさい』!」

「は、はあ? 突然何を」

「そうすれば、落ち穂を掴むその手も少しは緩めやすくなるはずよ」

「!」


 まるで恐喝しているようだと、他の誰かが見れば思っただろう。それほどにツェーレの瞳は苛烈で、麦束を持つ少年は怯えるように手を離した。

 ツェーレは黙って麦を引き抜くと、戸惑う少年の顔も見ず、礼さえ言わず、踵を返した。

 振り返った先では、西日が赤々と世界を茜色に塗りつぶしていた。

 まるで、異物ツェーレは入ってくるなと言わんばかりに、今日も世界は美しかった。



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