第39話 白いてのひら


 馬車はつつがなく城門をくぐり、いつもの通用口で停車した。ノエルに手を取られ馬車を降りると、すぐに扉が開いてニコラス兄様が姿をみせる。


「アリス、どうかしたのかい?」


 今日はアーサー様の姿はなく、ニコラス兄様一人だった。シャンデリアの件もあるし、騎士団はきっと大忙しなのだろう。


「お兄様!」


 馬車の前までやってきた兄に、私は思わず抱きついた。

 大丈夫、妙な気配は無い。いつも通り、普段通りのお兄様だ。


「うん、私だよ。どうしたんだい、アリス」


 少し驚いた声で、でも髪を撫でてくれる手は優しい。しかしここにきて私は我に返りつつあった。


 やばい。

 いま私、ものすごく恥ずかしいことしてない?

 兄の仕事場にやってきていきなり抱きつく妹ってどうなのよ?


「あの、お兄様……、ごめんなさい、私」

「何を謝ることがあるのかな。私はアリスの顔が見られて今とても幸せだよ」

「いえ、あの……お忙しいのにお呼びだてしてしまって……、その、お仕事の邪魔をしてしまって……、もう大丈夫ですので、お離しいただけますか?」

「はは、そんなことを気にしなくていいよ。アリスが傍にいるだけで元気が出るからね!」


 兄様はあいかわらずのトンチキな台詞を吐きながらもようやく手を緩めてくれたので、私はひとつ息をついた。いかんいかん、ノエルは隣にいるし、馬車にはアルバート王子が乗っているんだぞ。しっかりしなきゃ、アリス。

 ぐっと握りこぶしを作って気合いを入れていると、ニコラス兄様は可笑しそうに私を覗き込んだ。


「もしかして、悪い夢でも見たのかな?」

「え?」

「昔から怖い夢を見ると、私のベッドに潜り込んで甘えてきただろう」

「お兄様!」


 どうしましょう、かんっぜんにからかわれていますわ!!

 小さい頃の話をここで持ち出すなんて、反則だと思います。


「まったく、恥ずかしい兄妹だな」


 背後で呆れた声が聞こえて振り向くと、ようやく馬車からアルバート王子が現れた。声は作っているが、顔はにやにやしている。その姿に、ニコラス兄様は一瞬だけ目を見開いてそれから口元をへの字にした。


「殿下……?」

「よ、ニコラス」


 軽薄な挨拶がカンに触ったのか、兄様がすうっと目を細める。


「何故殿下がうちの馬車に? 今日は部屋で過ごされていると聞いていましたが」

「いや、その、……少しばかり用事があってだな……、」


 さすがのアルバート王子も若干後ろめたいらしい。

 わかる~、ニコラス兄様って静かに怒るときのほうが怖いものね……。


「落ち着くまでは城から出ないで下さいとお願いしてあったはずですが」

「四六時中護衛がついて部屋の中か? 息が詰まるだろ」

「御身になにかあれば、どれだけの者が処罰されるか想像してから行動して下さい」

「わかったわかった……悪かった」

「殿下」


 ニコラス兄様がいっそう低く呼びかけたとき、その背後でゆらりと何かが動いた。

 兄様の影に隠れて、たぶんアルバート王子には見えていない角度。

 いつの間にかゆらりと揺れる、長いローブ、目深にかぶったフードは漆黒だ。

 私は動くことも出来ず、ただそれを見つめる。


「わかったと言っているだろ。あまりしつこいと可愛い妹に嫌われるぞ」


 軽い口調と唇の端に浮かぶ笑みはたぶん、殿下の腹いせだ。

 勢いだけのことだ、本当はアルバート王子だって自分が悪いことは理解している。

 でも、だけど。


 ニコラス兄様の口が真一文字に結ばれた瞬間、フードの影が待っていたようにゆらりと腕を伸ばした。あのときと同じ――、真っ白な手のひら。

 その瞬間、馬車の馬が声高く嘶いた。


「!」


 止めるまもなく馬は馬車に繋がれたまま身体の向きを変え、頭を振りながら大きく立ち上がる。蹄の裏がはっきりと見えて息を飲んだ。

 馬車がぐらりと揺れて、アルバート王子が一歩下がった。それを追いかけるようにいったんステップを踏むと、馬は暴れて再び前足を振り上げる。


「あぶな……っ!」


 考えている暇は無い。声にならない声と同時に王子を馬の攻撃範囲から逃そうと、勢いにまかせて体当たりをする。馬に完全に背を向けたので、間に合ったのかどうかさえわからないけれど、とにかくアルバート王子だけは護らなくては。あの蹄が直撃したら、怪我くらいでは済まないかもしれない。


「アリス!」

「ダメだ、」


 馬車がなにかに当たるがしゃっという音と、兄様の声、それからノエルだ。

 そこでようやく我に返ったらしいアルバート王子が体勢を立て直し、私の身体を引き寄せてさらに後退する。

 また馬が高く啼いた。


「よし、ようし、大丈夫だっ、って」


 なだめる声で振り向くと、すぐ後ろでノエルが馬の首にかじりついている姿。

 その負荷のおかげか馬は地面に足をつけ、しかし首を振って抵抗している。


「心配ない、良い子だ、いいこだ」


 ポンポンとノエルが首を叩くと、暴れていた馬はみるみる落ち着きを取り戻した。ずっと家の馬車を引いている馬で、そもそも大人しい性格なのだ。


「おい」

「はい……」

「いつまでしがみついているつもりだ?」

「……っ、し、失礼致しました!」


 ひえー、ノエルが馬を鎮めてくれたから、結果的に王子に抱きついただけになってしまった。めっちゃ恥ずかしい。慌てて離れるとアルバート王子がひとつ息をつく。


「いや……お前に押されなければ、蹄で一撃くらったかもしれない」

「いえ、びっくりして身体が動いてしまいましたけれど、そんなことより」


 王子が馬を睨み付けたので私は慌てて首を振った。

 だってこれはまずいのでは? 馬とはいえ、王子に怪我をさせるところだったのだ、罰せられても文句は言えない。これで殺処分とかになってしまったら、馬が可哀想過ぎる。

 それに――、


「殿下……、ご覧になりました?」


 声を落とすと、王子の顔が近くなる。

 何故かお兄様の耳には入れたくなくて、私はさらにアルバート王子の耳元に顔を寄せた。


「何をだ?」

「お兄様の後ろに……、」


 フードの人物が居たのです、と言おうとして私は言葉を飲み込んだ。

 お兄様の視線を感じて、すっと空気が冷えたような気がしたのだ。


「ニコラスの後ろ?」

「いえ」


 何かおかしい。

 理屈ではなくそう感じて私は軽く首を振ると、ニコラス兄様のほうへ向き直った。


「あの、お兄様?」

「ん……、ああ……アリス。怪我は無いかい?」

「はい、私は大丈夫です。お兄様こそ、お加減が悪いのでは?」


 そう訊ねると、兄様はわざとらしく困り顔を作った。


「アリスが危ない目にあったんだ、具合も悪くなるさ」


 近づいて来て、ゆっくり私の手を取る。その様子はすっかりいつものお兄様だ。


「こっちへおいで。うん、怪我はないようだね」

「ええ、びっくりしただけですわ、お兄様」

「本当によかった、肝が冷えたよ……ノエル、君もよくアリスを護ってくれた。礼を言わせてくれ」

「いえ、それが自分の役目です」

「うん、良い返事だ」


 アルバート王子の存在をスルーしているのはもしかしなくてもわざとだろう。


「おい、俺の心配はいいのか?」


 しびれを切らしたらしく、王子は腕組みして不機嫌な声を出した。

 しかしニコラス兄様は一瞥しただけで、私を軽く引き寄せる。


「アルバート王子なら、今は部屋におられるはずですからね。ここで何が起ころうと、私の知ったことではありません」

「む……」

「お兄様」


 たしなめるつもりで声をかけたけれど、ニコラス兄様は悪びれる様子もなくいつもの笑顔を私に向けた。


「うん、なんだい?」

「お兄様はご覧になりませんでしたか?」


 迷ったけれど、訊いてみないことにははじまらない。


「何の話かな」

「さっき、お兄様の後ろに……、あのフードの人物を見ました」

「フードの……、舞踏会に現れたっていう?」

「はい」


 頷いてみせると、ニコラス兄様はふむ、と小さく首を傾げた。それからしぶしぶと言った様子で首を巡らし、ノエルを捉える。


「ノエルには見えたかい?」

「いえ、気付きませんでした」

「ふむ」


 ニコラス兄様はまたしても意図的にアルバート王子をスルーして、視線を私に戻した。


「舞踏会の時にはアルバート王子とアリスが見た。そして今この場所に現れた――、もしかしたら、馬が暴れたのはそのせいかな」

「ええ、私はそう感じました」


 あの白い手のひらは、目に焼き付いている。

 それに、どう考えたって馬の暴れ方が不自然だ。


「わからないな」

「え?」

「攻撃対象に一貫性が無い。一体、何がしたいんだろうね?」



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