終幕

払暁


 生まれ故郷の記憶は、ほとんどない。

 

 伝聞で聞いたところによると、私は備後国びんごのくにで生まれたようだった。その頃、まだ父上は名目上室町幕府の将軍であらせられて、京を追われた身だったから、庇護してくださっていた毛利氏、及び渡辺氏の土地に身を潜めていらっしゃったという。

 足利将軍家はともに始まり鞆で終焉を迎えたと、何処かで聞いたことがある。だから、足利の人であったお兄様をほうむって差し上げるには、鞆に向かうしかないと思った。

 ゆっくりと海を見るのは、久しぶりなようにも思える。船に揺られたことは何度もあったけれど、どうやら私は船酔いしやすい体質のようで、穏やかな気持ちで海を眺めることなんてそうそう出来なかった。今日が晴天で本当に良かったと、心から感じる。


「眠いねえ、お兄様」


 早起きは苦手だ。寝起きが悪いのは昔からのことで、いつも誰かに起こしてもらっていた。

 けれど、一人で過ごすことが増えてからは、ちょっとした物音ですぐに目が冴えるようになってしまった。それゆえに、こうして日の出のぎりぎり前に外出出来ている訳だけれど──やっぱり、眠いものは眠い。用事を済ませたら、宿屋に戻って二度寝しよう。そうでもしなければ、寝不足が祟って体調を崩してしまいそうだもの。

 大事に抱えた木箱を開けてみれば、中にはよくみがかれていたのかつるりと滑らかな髑髏しゃれこうべが入っている。これが、七年前に亡くなったお兄様の頭蓋。

 早起きしたのは、骨──しかも頭蓋を持ち歩いている奇特な人間として、周囲の者から怪しまれることを防ぐためだった。さすがに生首を持ち歩くよりはましだと思うけれど、それでも不審者と見なされることは確実だろう。私はついこの間まで牢人ともつるんでいたのだから、目を付けられたら面倒なことになるに決まっている。兄には申し訳ないけれど、人気の少ない時間帯に事を済ませてしまいたかった。


 そういえば、乙葉おとは首級くびはどうなったのだろう。私はぼんやりと考える。


 乙葉の体は隠蔽いんぺいのために燃やして灰にしたと牢人が言っていたけれど、さすがに首級まで同じように処理するのは忍びなかったので、若君のもとに送り付けた。嫌がらせだと勘違いされたら心外だけれど、仕方のないことだ。どうせあっちは武家の子なのだから、首級を見せられたところで卒倒するようなたちでもあるまい。

 実のところ、私は乙葉が好きじゃなかった。多分、あっちも私のことを嫌っていたと思う。でなければ、お兄様の首を引きちぎるなんて真似はしないはずだもの。

 私は、乙葉が羨ましかった。私の知らない若君のことや、お父様やお母様のことを知っていたから。


「……お母様、か」


 ふと、私と顔も合わせずに亡くなったという母のことが頭に浮かんだ。

 お兄様と共に暮らしていたというお母様。首を吊って亡くなられたのだとお兄様から聞いた時には、衝撃を覚えずにはいられなかった。自死という行為自体は珍しいものではなかったけれど、わざわざ苦しむような死に方を選ばれたというものだから、訳がわからなくて──その度しがたさ故に、余計驚いたのだと思う。


 そして──人の、ひいては自分を生んだ母親の死を、あっけらかんとして語るお兄様にも驚くと共に、彼のことを恐ろしいと思わずにはいられなかった。


 少なくとも、私にとって身内の死というのは、故人との別れを悲しむものだ。これまで親しかった人と離れなければならないのは、悲しく寂しい。とてもじゃないけれど、軽々しく話せるようなことではなかった。

 お兄様は、お母様の死が悲しくなかったのだろう。故人の心情を推し量ることなんて、無粋にも程があるけれど──でも、あの人はきっと、私以上に世界を知らなかったのだと思う。

 無知であることを非難するつもりはないし、斯く言う私もまだまだ無知だ。世の中には知らないことがあり過ぎる。

 それゆえに、今よりも無知だった私は、お兄様に恐れを抱いた。自分の中にある常識とは、かけ離れた振る舞いをなさられる方だったから。

 それを悪と断ずることは出来ない。ただ、よくわからないということが、とても恐ろしく感じられただけだ。

 私から恐れられていることすら知らず、私のことを可愛い妹として──いや、もしかしたらそれ以上の存在として守ろうとしたお兄様。振る舞いはともかく、その在り方はあまりにも真っ直ぐだと、心から感じる。──真っ直ぐ過ぎて、痛々しくもあり、眩しくもある。

 私もお兄様のように、真っ直ぐな好意を抱けていたのなら──乙葉に嫉妬することなんてなかったのかな。


「……いや、やめよう」


 そうだ。今はお兄様を葬って差し上げなければならない。感傷に浸るのは、その後で良いのだ。

 私は木箱の蓋を閉めて、眼前に広がる海を見つめる。

 青い海だ。瀬戸内海せとうつみというのだったか。

 幼い頃の私やお兄様、そして若君は、この海の放つ潮風を浴びながら育ったのだろうか。だとしたら、母なる海と呼んでも過言ではない。

 私はゆっくりと木箱を掲げた。水平線の向こうから、お天道様が僅かに顔を覗かせている。


「……さようなら、お兄様。私の片割れ、愛しき同胞はらから


 手を離す。

 飛沫しぶきが上がって、木箱は海中に沈んだ。浮かび上がってくることはなかった。

 お兄様が聞いたら、唇をとがらせるかもしれないけれど──私はようやく、ずっと背中にのし掛かっていた重荷から解放されたような気持ちになった。

 私はこれまでずっと、誰かに頼りっきりで生きてきたものだと思っていた。若君やお兄様に迷惑をかけ続け、その恩を返すことも出来ないまま奴隷になってしまったのだと──そう思わずには、いられなかった。

──けれど。


「私って、意外と頼られていたんだなあ」


 若君も、お兄様も。後は鞆音や、かつて奈落で出会った人々も。

 皆それぞれ、違った形で、私という存在を求めていた。私にしか出来ないこと、とは言えなかったけれど、それでも彼らの居場所を埋めることは出来た。

 嬉しかった。誰かに必要とされることが、とてつもなく嬉しくて堪らなかった。

 請け負った直後は迷惑極まりない──と思うこともなくはなかったけれど、誰かから必要とされることって意外に心地よいものなんだ、と後からじわじわ感じずにはいられなかった。

 私で本当に良かったのかはわからないし、私以上の結果を出せる人なんて世の中にたくさんいるかもしれない。それでも、たくさんの人がいるこの世界で、決して目立つ存在でもない私を選んでくれた者がいた──その事実が、私にとっては嬉しかったのだ。

 だからもう、私は寂しくなんてない。──いや、本音を言うと独り寝の夜はちょっぴり寂しさを覚えることがあるけれど、それでも以前のような、空漠くうばくたる荒野に身一つで放り出されたような不安を覚えることはない。私のようなちっぽけな存在であっても、誰かの役に立てるのだと知れたのだから。

 私は正義にも悪にもなれない。人を助けたこともあるし、人を殺したこともある。大まかな善悪では量れないところに私は立ち、そして今も歩いている。

 それで良いと、今なら思える。私は何者でもなく、ただこの世に生まれ落ちた人の一人でしかないのだ。今からどうなるか、そのようなことは誰にもわからないし、口出しされる理由もない。


「ふふ、体が軽いや」


 その場でくるりと一回転してみる。

 足場の悪い岩場にいるのだ。誤って海に落ちないように気を付けながら、重荷の下りた体を享受する。

 私は若君が好きだった。きっと、両片想いというやつだったのではないか?と今更ながら考えてみる。

 でも、若君──ううん、八龍丸はちりょうまるのことが好きだったのはかつての私。何も知らないことを漠然と恐れ、どう在りたいかも定まっていなかった、不安定でちっぽけで、若君以外に手を伸ばせなかった──伸ばすことを知らなかった、天花という少女。

 その天花は、もういない。私は知ってしまったから。無理矢理に送り出された流浪の旅の中で、天花が天花たりえる理由は失われてしまった。

 だから、若君はもう私のことを好きでいなくて良いんだ。天花はもう、何処にもいないのだから。いつまでも過去の影法師に追いすがろうとしているなんて、あまりにも見ていられなかったし──それに、私の好きだった若君ではないのだから、見えないかせに囚われている理由もないと思った。私の心の中にしまっている恋心も、いつしか居場所を失ってしまった。


 だから、決着を付けなければならなかった。若君に天花の死を伝える者──奈落として。


 その奈落も、もう此処にはいない。私は役割を果たしたのだから、奈落がいる必要だってなくなったのだ。

 鞆音。あの子には、少し悪いことをしてしまったかなと思わないでもない。本当に、ただの情報収集要員として買ったつもりでいたのだけれど──まさかああまで頼りにしてくれるとは思ってもいなかった。だから、神母坂常若以外には目線を向けないと決めていたはずの奈落も、あの子を気にかけずにはいられなかった訳だけれど。

 鞆音も、既に過去のしがらみからは解放されているはずだ。半陰陽であることは罪でも何でもないし、個人の生まれ持ったものなんて他人が口を挟める領域ではない。あの子も、自分の好きなように生きれば良いだけの話だ。少し冷たいようにも聞こえるけれど仕方ない。だって私は冷たい人間なのだから。

 嗚呼、もうじき日が昇る。思えば、こうしてゆっくり夜明けを目にする機会もあまりなかったっけ。

 知らず、笑みがこぼれた。奈落でいる時は極力感情を表に出さないよう気を付けていたから、気も顔も弛んでいるのかもしれない。

 今は、この一時だけは、笑おうと泣こうと、誰に何を言われることもない。私の目の前にあるのは青く深い海原と、柔らかくあらたかな朝陽だけ。

 両手を広げる。胸いっぱいに、朝の空気を吸い込んだ。

 天花も奈落も、此処にはいない。若君への恋情は始末がついたし、彼の天花に対する執着も、解消出来たのだから。

 だから──此処にいるのは、新しい私。まだ何にも縛られない、誰にも知られていない、まっさらで柔らかな己。

 もう、寂しくはない。私はこれから、私が在ることの出来る場所をいくらでも探せるのだ。それはとても、とても喜ばしいことだと思う。

 だから祝おう。心から笑って祝福しよう。役目を終えた天花と奈落が、私の誕生を言祝ことほごう。


「──おはよう、私!」


 花は咲き、枯れて──今此処に、小さな芽を出した。


【完】

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奈落に咲え、 硯哀爾 @Southerndwarf

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