夢を、見ました。

 ご主人様の、夢でした。

 それが夢だという自覚はございました。気付けば壁も屋根も、何のへだたりもない白い空間に立っていたら、それを現と思うことはそうそうないでしょう。……いえ、わたしだけかもしれませんが。

 わたしの目線の真っ直ぐ先に、ご主人様はいらっしゃいました。いつもの──化粧が薄くて、お着物も地味で、その本質に気が付けぬ者でなければ影の薄い女としてしか見られなさそうな──そんな冴えない姿で、立っておられました。

 所詮は夢ですから、声をかけたところで意味はありません。これは、わたしの意識が作り出した幻影。ご主人様がわたしのことを想ってくださっている──だなんて、そのような無礼なところには思い至りません。決して、思い至ってはならないのです。

 それでも──わたしはご主人様、と呼び掛けようとしました。彼女を無視することなど、わたしには出来るはずもなかったから。


 しかし、ご主人様はわたしの方を振り返ってはくださいませんでした。わたしを認識してくださることすらしませんでした。


 ご主人様は、今までに見たこともないようなお顔をされておりました。そして、小走りである一点に向けて駆けていかれます。

 何を目指して走るのでしょう。わたしは視線で追おうとして──息を飲みました。


 其処にいたのは、もやで顔を覆った一人の男でした。


 ご主人様はその男を知っていらっしゃるのか、何事かを口にして彼のもとへ駆け寄りました。時々転びそうになりながらも、決して立ち止まることはございませんでした。

 あれは、誰なのでしょう。

 わたしにはわかりませんでした。それよりも──大変なものを、わたしは見てしまったのです。


 ご主人様が、微笑んでおられる。


 少女のような笑みでした。天真爛漫てんしんらんまんにして天衣無縫てんいむほう、この世のけがれなど知らず、健やかに生きる乙女の顔をしておられました。

 あのような顔を、ご主人様が──

 わたしは、荒々しく胸を掻きむしりたい衝動に駆られました。


 このようなご主人様は、ご主人様ではない。わたしの想像が産み出したのだとすれば、尚更気に食わない!


 ご主人様はくるくると表情を変えて、男に何やら話しかけておりました。何をおっしゃっているのかはわかりませんでしたが、酷く楽しそうで、物騒な物事とは縁遠い話をしているのだということは理解出来ました。

 ご主人様、あなたは気楽な話などしてはならない。あなたは、どのようにして神母坂常若を追い詰めるかだけを考えていたのではなかったのですか? 雑談に興じることもなく、わたしにも無駄口を叩かなかったあなたが、このような男に相好そうごうを崩して良いはずがない。あなたは血塗られた道をく人でなければならないのですから。

 わたしの胸中など知らないであろうご主人様は、にこにこしながらひっきりなしに喋っておいでです。それだけ、会話が楽しいのでしょうか。わたしとは、必要最低限の会話しかしてくださらないのに。


 地獄のような時間でした。早く目覚めたくて堪りませんでした。


 わたしの気が付いた時、太陽はだいぶ南に昇っておりました。わたしは布団から片足を飛び出させて眠っていたらしく、片方の足だけがやけに冷たく感じられました。

とにもかくにも、わたしは夢から覚めたのです。あの忌々しい悪夢から、解放されたのです。

 そう思うと、いてもたってもいられませんでした。一刻も早くご主人様のお顔を拝みたくて、わたしは着替えもせずに自室を飛び出しておりました。

 この時間だと、さすがにご主人様も起きていらっしゃるでしょう。だとすれば、彼女はいつも通り文机ふづくえに向かって何か書き物をしていらっしゃるはず。

 まずは寝坊したことを詫びなければ。それに、お食事も作って差し上げなければ。

 ご主人様は、お料理をはじめとして家事がからきしなのです。良家の生まれですから、致し方のないことでしょう。彼女が頃はどうしていたのか──と思わない訳ではございませんが、あまり詮索せんさくばかりしていては無作法が過ぎましょう。ご主人様が自ら語ってくださるまで、わたしは待つだけでございます。

 そうして、ご主人様のお部屋にたどり着いて、わたしは息を切らしつつふすまを開けました。不機嫌そうな顔をしたご主人様は、きっとわたしに遅い、とおっしゃって──。


──いない。


 いない。いない。ご主人様が、いらっしゃらない。

 部屋はもぬけの殻でございました。ご主人様がいらっしゃらないだけではなく、家具などの大きなものを除く彼女の私物すら、姿を消しておりました。

 これは一体、どういうことなのでしょう。

 わたしの頭はぐらぐらと平衡感覚を失い、視界はぐにゃぐにゃとして定まりませんでした。どうにか這いずるようにしてご主人様の文机に向かうと、其処には一枚の半紙が置かれておりました。

 其処には、やるべきことが見つかった、貴様は生きたいように生きよ、との旨が、わたしにもわかりやすい文体で記されておりました。


 ご主人様は──わたしを置いて、出ていってしまわれたのです。


 それを理解した瞬間に、わたしの目からは涙が溢れ落ちました。涙のせきが切られてしまったのか、それは止まってくれと願っても止まることはありませんでした。

 生理的な現象以外──悲しみによって流す涙は、これが初めてです。


 ご主人様、わたしのご主人様。どうしてわたしを置いていってしまわれたのですか。わたしは役立たずだったのですか。あなたのの道行きにおいて、邪魔な存在だったのですか。


 問いはいくらでも生まれましたが、その度に泡になって消えてゆきました。ご主人様に問いかけるまでもないと、わたし自身が断じていたのでした。

 そうだ。ご主人様は、最初から役立たずなんて買わない。ご主人様の慧眼けいがんを疑ってはならない。

 ならば、ご主人様は何故わたしを此処に置いていかれたのでしょう。わたしはまだまだ役に立ちます。役に立つことが出来ます。

 もしかしたら、ご主人様は一時的に家を空けただけで、再び帰ってこられるかもしれない。そう思うことも出来ましたが、不思議と彼女が戻ってくる光景を想像することは出来ませんでした。考えたくもないのに、これがご主人様との今生の別れのような気がしてならなかったのでございます。

 わたしは涙を拭くこともせずに、くりやへと向かいました。

 いつも此処に立って、ご主人様のお食事を作った。料理など見よう見まねだったが、いつの間にか多くのものを作れるようになっていた──。

 厨の食材はほとんど減っておらず、それが余計に切なく、そして悲しく感じられました。ご主人様は、わたしが此処で生きていくと思っていらっしゃるのです。此処はもう、わたしの家になってしまったのです。

 ご主人様を追いかける気にはなれませんでした。追いかけたところで、彼女はわたしの思考など汲み取っていらっしゃるでしょう。きっとその姿を見付けることなど出来ない。


 それに──わたしは、神母坂常若の居どころを知らない。


 ご主人様が向かうとなれば、彼の住み処であるはず。わたしたちは其処を探していたのですが──わたしはついぞ、神母坂常若の行方を知ることなど出来ませんでした。ご主人様が、教えてくださらなかったのです。

 隠密の首級くびに化粧を施している時点で、気付けることでございました。しかし、愚かなわたしにはそれすらも叶わなかったのです。


 ご主人様。奈落御前。あなた様は今、どのような顔をしていらっしゃるのでしょう。


 夢で見たように、無邪気に笑っておられるのか。それとも、憎悪に顔を歪めていらっしゃるのか。はたまた、普段通りの無表情か。

 わたしにはわかりません。無表情以外、わたしの想像でしかないのですから。

 ご主人様は、喜怒哀楽すらも──わたしの前でお見せになることはありませんでした。

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