通り雨は、一般的な人からしたらはた迷惑なものかもしれないけれど、日差しが苦手な僕にとってはありがたいものだ。

 驟雨しゅううのおかげで幾分か涼しくなったことに感謝しつつ、僕は天花の屋敷へと向かった。

 この前は常若にお説教を食らったけれど、それで諦める僕ではない。やるべきことは片付けてきたし、何より天花は僕に来るなと言わなかった。たかだか家臣風情に指図されて、はいそうですかと言うことを聞く程僕は落ちぶれていない。

 塀に登ると、渡り廊下を歩いている天花の姿が見えた。近くに使用人や、常若の姿はない。


「天花」


 声をかけると、彼女は顔を上げた。そして、ぱっと表情を輝かせた。


「お兄様!」

「こんにちは、天花。お邪魔しても良いかな?」

「うん、良いよ。お菓子持って来ようか?」

「いや、大丈夫。おっかない若君に怒られるかもしれないからね。今日は我慢するよ」


 縁側に座った天花の隣に腰を下ろす。いつもこうやって、縁側に二人並んで座って話すのだ。

 だいぶ蒸し暑くなったこともあってか、天花はいつもより高い位置で髪の毛を結っていた。白いうなじに、じっとりと汗がにじんでいる。


「それにしても、お兄様ってばよく来たね。この前若君に叱られたばっかりなのに」

「叱られたって……。それはちょっと大袈裟だと思うよ。全然怖くなんてなかったもの」

「お兄様は肝が据わってるねえ。私も最近じゃ慣れちゃったけど、本気で怒った時の若君は怖いよ。正直、お母様より怖いもの。昔はよく泣かされてたっけ」


 今はさすがに泣かないよ、と天花は笑ったけれど、僕としては笑い話になんて出来ない。僕の大事な天花を泣かせるなんて、どんな神経をしているんだ、あいつは。

 しかし、此処に常若はいない。怒りをあらわにしたら、天花を怖がらせてしまうかもしれない。

 僕は常若に対する苛立ちを飲み下す。天花の前では、いつでもにこやかで優しいお兄様でいなくっちゃ。


「そういえば、天花。最近、お大名様たちが揉めてるって聞いたんだけど……。天花は、怖い目に遭ったりしてない? 大丈夫?」


 話題を変えるついでに、天花の状況も確認しておく。もしものことがあったら大変だからね。

 天花は大丈夫だよう、と柔らかくはにかんだ。


「たしかに、お奉行様がいらっしゃることもあったし、安芸中納言あきのちゅうなごん様──あっ、今はもう中納言じゃないね。とにかく、毛利家の方々も色々大変みたいだって聞いたけど、私の方は全然関係ないよ。若君は結構心配してるみたいだけど、きっと杞憂きゆうに終わるって」

「そうなの? 最悪、戦になるかもしれないって聞いたんだけど……」

「万が一戦が起こったんだとしても、私やお兄様まで巻き込まれることはないでしょう。伏見は少し危ないって言われてるから、いざとなったら大坂か、遠ければ安芸まで逃げなきゃいけないかもしれないけど……。でも、これは豊臣の皆様の問題なんだからさ。足利が巻き込まれることはないと思うよ」


 にこにこしながら天花は言った。戦という出来事に現実味を持てないようだった。

これはなかなか厄介かもな、と僕は思う。

 天花は、戦を知らない。女の子だから、武器を持つこともない。書を読むことは好きなようだから、戦を大まかに想像出来ない訳ではないのだろうけれど……。でも、さすがに危機感が薄すぎると思う。でなければ、もっと焦ったって良いはずだ。

 もしも伏見が戦場になって、天花が逃げ遅れるような事態に陥ったら。想像するだけでも、寒気が走る。


「あっ、でもね! いざという時のためにって、お母様が刀をくださったんだよ」


 僕の顔が曇ったのを、天花も感じ取ったのだろうか。ごそごそと懐を探り、何かを取り出す。

 それは彼女の言葉通り、一振の刀だった。刀、と言っても短刀である。戦うために用いられるものとは思えない。


 すなわち、命を絶つためのものだ。


 天花の前だったから我慢出来たけれど──僕は自分の体に流れる血潮の全てが沸騰ふっとうするかのような心地を覚えた。

 何だ、これは? いざという時のために? いざとなったら、天花に死ねと、そう言うのか。

 それは、尊厳を守るためのものなのだろう。粗暴な兵士に蹂躙じゅうりんされる前に死ねば、彼女は誰にも犯されないままあの世へ逝ける。神母坂も、それを見越して天花にこの短刀を与えたのだろう。


「天花──ひとつ聞くけれど、君は腹を切る作法を学んだの……?」


 震える声で、僕は問うた。

 天花はううん、と首を横に振る。その顔に、僅かな影が落ちる。


「刀をいただきはしたけど──でも、私は腹を切らなくても良いって。これはあくまでも私に腹を切る手段があるって証明するためのものだから、腹を切る前に介錯かいしゃくするんだって」

「……それじゃあ、天花が切腹したくなくても、周りがそうあれかしと望んだのなら、の?」

「……うん、そうだね。多分、私の意思とは別になるんだと思う」


 視線を落とした天花を前にして──僕の中には、言い様もない怒りが湧き起こった。

 天花が死にたいと望んでいるのなら、まだ理解は示せた。だが、彼女が言う限り、これは第三者の都合で命を奪われるだけに過ぎない。たとえ天花が生きたいと願っても、その意思は無視されるのだ。

 何たる傲慢だ。許せない。


「そんなこと、僕は納得出来ないよ。天花、君は本当にそれで良いの?」


 力に訴えたくはなかったけれど、感情の激流は僕を突き動かした。

 天花の肩を掴んで、僕はそう問いかけた。彼女の瞳が揺らいでいて申し訳ない気持ちにもなったけれど、このまま看過しておくべき問題ではない。


「天花、君に死ぬ覚悟があるなら僕は何も言わないよ。でも、そうでないならはっきり僕に言って欲しい。僕は、天花が死ぬのは嫌だ」

「お、お兄様……」

「ねえ、答えて天花。君には、関係のない戦に巻き込まれて、尊厳を守るために死ぬ覚悟はある?」


 しばらくの間、天花は視線をさ迷わせていた。しかし、やがて彼女は否定の言葉を口にする。


「い──や。私、私は、まだ、死にたくない……」


──嗚呼、やっぱり。

 僕は天花を抱き締めた。柔らかく、汗ばんでいて、温かい体は、未だに強張ったままだった。

 そうだ、そのはずだ。そうでなくては。

 天花は死んじゃ駄目なんだ。彼女の人生は、権力者に転がされて良いような軽いものじゃあない。天花が戦に巻き込まれて良い理由なんて、何処にもあるはずがないんだ。

 ねえ、常若。見ていたかい。聞いたかい。

 天花は生きたいと、たった今此処で口にした。お前の思うがままに動くだけのお人形じゃないことを、この僕が証明した!

 壁の向こうから凄烈としか言い様のない視線を感じたけれど、僕は構わず天花を抱き締め続けた。

 見せ付けるのだ。天花は僕と共に在るべきだということを。天花の側にいるは、この僕こそが相応ふさわしい。


「ねえ、天花」


 頭を撫でる。汗のせいか少し湿っていたけれど、ふわりと良い香りがした。これは香を焚き染めているのではなく、天花そのものの香りだろう。


「天花、天花。僕の愛しい妹。君のことは、僕が絶対に守るからね」

「……お兄様、私は」


 天花は何か言いかけたが、言葉を続けることなく僕の胸に額をくっつけた。

 嗚呼、何ていとおしいのだろう。何て可愛らしいのだろう。

 僕は幸せ者だ。こんなにも素晴らしい妹を持つことが出来たなんて。

 僕こそが、天花のよすがだ。彼女の拠り所は、僕一人だけだ。

 天花は誰にも渡さない。この子は僕の妹で、片割れで、何物にも代えがたい宝物だ。


 このかけがえのない花を摘み取ろうとするのなら──たとえこの天下であろうと、僕は決して許さない。

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