それからというもの、僕は隙を見て宇治の屋敷を脱け出して、天花のもとへと向かった。

 天花の暮らしている神母坂の屋敷は伏見にある。そのため、距離的にそう遠くはない。さすがに乗り物に乗ると目立ってしまうから徒歩だけれど、天花に会えるというだけで疲れなど吹き飛んだ。

 何度か訪問し続けていると、天花の方も屋敷の者に気付かれないようにと人気があまりない時間帯や日にちを教えてくれるようになった。特に八龍丸は年を経るごとに厳格になっていくようで、天花は「若君を誤魔化すのは大変なの」と悪戯いたずらっぽく笑った。他の男の話をされるのは気に食わなかったけれど、天花が笑っているのなら不愉快な気持ちも幾分か和らいだ。


 そういった経緯で天花のもとを訪れるようになり、ふと気付けば三年の月日が経っていた。


 日に日に天花は美しくなった。以前は可愛らしいと思うばかりだったけれど、最近はふとした表情に──勿論良い意味で──ぞっとすることがある。

 特に僕は、喜怒哀楽そのいずれにも該当しない、全くの無表情が好きだ。無にこそ本当の美しさが宿るのだと、天花を見ていると常々実感する。

 天花は表情豊かな女の子だ。だが、ぼうっとしている時や表情が切り替わる瞬間に、その顔はありとあらゆる感情を映さなくなる。その一瞬が、僕は好きで堪らない。


「お兄様って、私の顔をよく見るよね。前からだったけど、最近は特に。……やっぱり、にきびとか気になる?」


 今日も天花の顔を眺めていたら、そんな風に尋ねられた。

 長らく降り続けていた雨は次第に離れ、夏の日差しが顔を出しつつある。僕はあまり汗をかかない体質だけれど、天花は対照的に汗かきだった。そのため、蒸れて肌が荒れることも多いらしい。僕から見たら、そんなことを気にする必要なんてないくらい綺麗な肌だと思うけれど。


「そんなことないよ。ただ、天花も顔付きが変わってきたなって思って」

「ほんと? それって褒めてる?」

「褒めてるに決まっているじゃない。最近の天花は、父上に似てきたと思うよ。きっと、若い頃の父上はこんな顔をしていたんだろうね」


 遠目にしか見たことのない父だが、その輪郭や鼻筋は天花とよく似ていると思った。女の子は父親に似ると聞くけれど、あながち間違っていないのかもしれない。

 天花はへえ、と相槌を打った。そして、少し躊躇ためらう様子を見せてから、あのね、と切り出す。


「お、お兄様は、さ。私の、本当のお母様のことって、どれくらいなら話せる?」


──驚いた。まさか、天花が実の親類の話をしたがるなんて。

 これまでの天花は、自分の屋敷の話をすることはあっても、僕の──正確には、自分の親類の話をねだることはなかった。あまり触れさせるべきではないと思ったし、僕も頼まれるまでは口を閉ざしていようと思っていた。


「あっ、あの、無理だったら良いんだよ、話さなくても。元将軍家っていっても、貴人な訳だし……。それに、私は足利からは引き離されているもの。あんまりとやかく聞くべきじゃないよね」

「……いや、気にしないで。少し驚いただけだから」


 だから何でも質問して、と僕は天花に促した。

 前もって聞いておきたいことをまとめていなかったのか、天花はううん、と小さくうなりつつ、しばらくの間質問を考えていた。その顔を眺めているのもまた醍醐味だいごみだ。

 やがて天花は、えっとね、と不安げに前置きをしてから口を開く。


「その……お母様、元気? お父様がお隠れになられて、もう三年経つけど……。今、どうなさっているの? 私のこと、覚えてくださってる?」


 両手の人差し指をくっつけながら、天花は視線を逸らしつつそう問いかけた。

 彼女なりに、実の母親のことが気になっているのだろう。生まれてからずっと、実の親から引き離されて育ってきたのだ。自分の出生について聞いて、両親について知りたいと思うのは何ら可笑しいことではない。


「いないよ」


 だから、正直に答えるのはあまりにも残酷で、天花を傷付けてしまうと思った。でも、僕は天花に嘘を吐きたくなんてなかった。


「死んだんだ。父上が亡くなるよりも前に」


 ひゅ、と天花が息を飲んだ。

 彼女の顔が強張るのを確認してから、僕は答えの続きを述べる。


「だからもう、この世にはいない。でも、天花のことは覚えていたし、会いたいって頻りに言っていたよ。きっと、君の顔も一目見てみたかったんじゃないかな」

「そ……そう、なんだ」


 天花は膝の上でぎゅっと拳を作った。何とも言えぬ、複雑な表情をしていた。

 悲しいだろう。実の父母は、もうこの世にいないのだ。二度と会うことが叶わないのだ。それは、どれだけの苦しみだろう。


「それで、その……お母様は、何か病をわずらっていらっしゃったの? もしもそうなら、お見舞いも出来なくて、私……とんだ親不孝者だ……」


 戦も、死の苦しみも知らず、穏やかに育ってきた天花。彼女の表情はあまりにも悲痛だった。

──だから、少しでも安心させてやりたかった。


「違うよ」

「……?」


 天花が顔を上げる。


「母上は、自死したんだよ」


 天花の顔が、みるみるうちに青くなっていく。

 自ら死を選んだ母上。それが成就されたのは、彼女にとって喜ばしいことではないだろうか? 少なくとも僕はそう思う。

 母上を失った天花は哀れだ。だからせめて、彼女がことを伝えておかないと。


「母上は僕が十にもならない頃に、首を吊って死んだんだ。だからちょっと死に様は汚かったけれど、死のうとして死ねないよりはましだったんじゃないかな。どうして死にたくなったのか、僕にはついぞわからなかったけれどね」

「首を……」


 天花は自らを抱き締めるように縮こまった。その表情は、怯えているようにも見えた。

 一体、この子は何に怯えているんだろう? 怖いものなんて、何処にもないはずなのに。

 天花、君が怯える必要なんてないんだよ。どうあろうと、死者が甦ることはない。たとえ甦ったのだとしても、母上は天花を求めていた。だから、天花に酷いことなんてしないはず。

 これ以上、天花に苦しい思いをして欲しくはない。どう慰めたものかと、僕は思案して──。


「──何をしている、白子」


 僕の思考を、冷たく張り詰めた声が遮る。

 ああ、この声は。聞き覚えがある。


「若君……!」


 天花が顔を上げて、乱入者──八龍丸の方を見た。

 その眼差しに安堵の色が含まれていることが、僕は気に食わなかった。どうしてこんな、楽しい会話を邪魔してくるような奴が、天花に信頼されなくちゃいけない?


「……こんにちは、八龍丸。天花に何かご用?」

「既に元服は済ませている。常若とこわかと呼べ」

「ふうん。……それで、どうしたの? 僕たち、楽しくお喋りしていたんだけど……。それを邪魔するだけの事情があるってことだよね?」


 邪魔をするな、と暗に伝えたつもりだったが、八龍丸──もとい常若は、ふん、と鼻を鳴らしただけだった。

 彼はひそひそと、何やら天花に耳打ちする。天花は不安げな顔をして一度だけ僕の方を見たけれど、小さく手を振ってからその場を去っていった。

 天花がいなければ、僕が此処にいる意味もなくなる。何ということをしてくれたんだ、と、僕は常若を睨む。


「貴様がこの屋敷に出入りしていることは知っていた」


 常若は、表情ひとつ変えずに言う。それが余計腹立たしい。


「僕をとがめようというの? 僕と天花は双子だよ。二人いっしょでなくちゃ、意味がない」

「そう考えているのは貴様だけだ、愚か者。貴様の愚挙のせいで、天花の身に危険が及んだのならば、貴様はどう責任を取る? 腹を切るだけでは済まさんぞ」

「誰がお前のために腹など切るかよ。それに、まるで天花の身の回りに危険が潜んでいるとでも言いたげな口振りだね? 君たちが守ってくれているのなら、天花が危ない目に遭うことなんてないと思うけれど」

「……俺たちの手の届く範疇はんちゅうであれば、の話だ」


 常若の視線が落ちる。それが何を意味するか、わからない程僕も愚かではない。

 天花の周囲には──彼女にとっての危険が潜んでいるということか。


「……どういうことだよ、神母坂常若。君たちが天花を守るんじゃなかったの? 何が相手であろうと、あの子を天下の万民のように育てる。そういう約定だったはずだけれど」

「最早、足利の時代は終わった。そして、豊臣の時代も終わろうとしている。太閤殿下がお亡くなりになった時点で、天下の均衡は崩れたも同然だ」

「……何が言いたいの」

「まだわからないのか? 次代の権力を握らんとする者たちは、今や一貴人である足利の生き残りすら利用せんとしかねないんだよ」


 頭から冷水を浴びせられたがごとき、衝撃だった。

 父上が亡くなった翌年に、太閤こと豊臣秀吉もこの世を去った。彼には嫡子がいるが、未だ十にも満たぬ幼子。政権移行など、出来るはずがない。

 その後見の座を太閤の家臣が争っているのは噂に聞いていたけれど──どうして、天花にその累が及ばなくちゃならない?


「石田治部殿は、貴人の奥方や息女を大坂にお集めになるつもりでいらっしゃるらしい。我等足利は、かつて毛利氏の世話になった。幻庵宗瑞げんあんそうずい殿──もとい、毛利輝元もうりてるもと殿は治部殿の側に付かれたご様子。我等が屋敷に訪れる使者から進言を受ければ、天花も視野に入るだろう」

「そんな──どうして天花が。あの子は足利の子と公表されていないんでしょう? 知らぬ存ぜぬで通せば良いじゃないか」

「──貴様がその可能性を打ち砕いたんだ」


 歯軋りしそうな勢いで、常若は歯を食い縛った。

──僕のせい? どうして?

 僕は他者に天花の身分を明かしてはいない。どうせ家督かとくも継げない白子だ。僕の話に耳を傾ける者なんて、いるはずがない。


「僕が天花の側にいることが気に食わないんだね。それで言いがかりを付けているんでしょう、常若。自分が天花を独り占めしたいからって、浅ましいこと」

「……黙れ」


 常若は喉の奥から声を絞り出した。その目は、憎悪にまみれている。

 やれるものならやってみなよ、常若。僕は君のような人間に負けなどしない。僕は君のように、天花を縛らない。だから、きっと天花も僕を選ぶに違いない。

 しかし、常若はその場から動かなかった。ふううう、と細く息を吐いてから、平静を装った声で告げる。


「……現在の情勢は見ての通り不安定だ。誰も彼もが情報を集めようと躍起になっている。天花は我々が守ってきたが、隠し通すことまでは出来ない」

「……それは」

「貴様の顔など、とっくのとうに割れている。天花と顔を合わせたことのある者ならば、大方察しは付くだろうよ。貴様も片割れが大事ならば、行動を慎むことだな」

「……わかったよ」


 要するに、早いところ帰れということなのだろう。もう天花には会えなさそうだし、此処は屋敷に戻るのが妥当か。

 塀を乗り越えて、僕は宇治までの道を歩く。胸の内には、途方もない焦燥感が居座っている。


──何とかして、天花を助けなくちゃ。


 天花を助けられるのは、この世で僕だけだ。他の人々は、天花を足利の末裔としてしか見ていない。

 天花を利用などさせるものか。あの子は絶対に幸せにならなくちゃいけない。権力の奴隷になど、させて堪るか。


 天花を傷付ける者は──皆、消えてしまえば良い。

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