俺たちだけに聞こえる音 3

 朝子さんともう一度話す決意をした直後から、間の悪いことにちょうど試験期間が始まってしまった。なかなかバイトに入ることができず、試験勉強が手につかない日々が続いた。ようやく最後の試験が終わった木曜日の午後、俺は雑居ビルの二階に足を運んだ。そこで開かれているのは、NPO法人が開講している手話教室だ。参加者のほとんどが四十代以上の人で、今日は一番俺が若い。熟練の人に交じり手話を覚えていくのは難しいことだったが、苦ではなかった。明日は金曜日で、夕方にカフェのバイトを淹れている。その足で彼女に会いに行こう。そのときに、少しでも彼女に伝えられる言葉を手に入れておきたかった。

 先生は手首の内側につけた小ぶりの腕時計を見た。


「時間ですね。今日の講座はここまで。お疲れ様でした」

「あ、先生。ちょっといいですか?」


 教室が終わった後、他の人たちが帰り支度をしているところを縫って、先生に声をかけた。彼女は長い間手話通訳者として活躍していたそうだ。穏やかでグレーヘアーの似合う先生は、老眼鏡を外しながら振り向いて立ち止まってくれた。


「私に何かご用?」

「えと、この言葉を手話でどうやるかを教えてほしくて……」


 明日、朝子さんに会いに行って手話で言葉を伝えようと思っていた俺は、先生にメモを渡そうとした。試験勉強の合間に自宅のローテーブルで何回も消しては書き、消しては書いたメモ。そのせいで、ルーズリーフは皺だらけになっている。その手触りがやけにザラついて、一瞬動きが止まる。

 俺はまた、自分の言葉だけを朝子さんに伝えようとしているじゃないか。またこのとってつけて覚えた手話を披露しても、朝子さんの言葉はわからないままだ。伝えるだけで満足するだけでは駄目だ。俺は思い直して、ルーズリーフをダウンジャケットのポケットにしまいこんだ。


「やっぱりいいです」

「あら、よろしいの?」

「そのかわりに、今からやる手話の意味を教えてほしいんですけど。うろ覚えなので正確ではないかもしれませんが」


 二人で映画に行ったあの日の朝子さんの手の動きを思い出しながら、先生の目の前で同じ動きをしてみた。私、あなた。そのあとの記憶は定かでないが、見よう見まねで手を動かしていた。思い出せる分をやり終えたのち、「こんな感じです」と伝えると、先生の顔はみるみるうちに綻んでいった。


「あらまあステキね。情熱的だこと」


 先生はホホホと口を押さえて上品に微笑む。


「ステキ、って、どういうことですか?」

「今あなたがされた手話、ちょっとわからない部分もあったけれど、ひとつだけわかったわ」

「どういう意味ですか?」

「『私もあなたを離したくありません』、って意味ですよ」


 その部分だけ手話で表現したあと、「若いっていいわね」と先生は笑った。俺はいてもたってもいられずに、先生に頭を下げてから教室を飛び出した。

 朝子さんの顔が浮かんだ。朝子さんに会いたい。明日じゃなく、今日。いま、会いたい。いま会って、朝子さんと話したい。それがたとえゆっくりでも、筆談でも、読唇でも、手話でもいい。人が吸い込まれていく駅に駆け込み、朝子さんが勤めるオフィスビルがある街に向かう電車に飛び乗った。



   *



 ダウンジャケットのポケットに手をつっこんだままガードレールに腰掛けた。目の前には、朝子さんが勤めている会社が入ったオフィスビルがそびえている。スマートフォンで時間を確認すると、午後五時をすぎたところだった。ビルの出入り口には警備員が立ち、人がまばらに出たり入ったりしている。大学生が入れるような雰囲気ではないので、出入り口が見える位置で朝子さんが出てくるのを待つことにした。いつも六時前後にカフェに来ることが多い朝子さんのことだから、あと一時間もすれば出てくるだろう。ガードレールの下のポールに片足をひっかけ、冷え込んできた空気の中、辛抱強く待つことにした。


 夕陽はいつの間にビル街の向こうへ消え、街灯が灯り始めた。街灯の周りがいつもより綺麗に輝いていて、空気が冷えて澄んでいるのがわかった。冬の足音がすぐそこまで近づいているのだ。

 時間が経つにつれ、ビルから出てくる人々が増えていった。みんな上着の前を押さえながら、足早に駅の方へ消えていく。近くの自販機で急いで買ってきたホットコーヒーを飲みながら、朝子さんの姿を見逃すまいと目をこらす。 

 そんな中、一人の女性と目が合った。街灯の光で照らされた茶髪の見知らぬ女性が俺に近づいてくる。あまりにじっと見ているから、不審者だと思われたのだろうか。焦る俺の目の前まで、淀みない足どりで歩み寄ってくる。緩やかなパーマのかかった髪に、トレンチコートを着ている。パンツスタイルで、ハイヒールは足先まで綺麗に磨かれており、いかにもキャリアウーマン、といった容貌だ。その目は不審者を見るものではなかった。万人に好かれそうな笑顔で、屈託なく俺に話しかけてきた。


「もしかして、国広朝子の知り合いの方ですか?」


 突然朝子さんの名前が出てきて、俺はどう答えていいかわからず返答に窮した。


「すみません、急に声かけちゃって。私、国広朝子の同僚で中崎朋なかさきともっていいます。この間の休みの日に、朝子とお二人でいらっしゃったところを見かけたものですから」


 どうやら朝子さんと映画へ行ったのを見られていたようだ。俺は中崎さんに自己紹介した。


「朝子のこと、待ってるんですか? 朝子、もう少しで出てくると思いますよ。今日は珍しくミスばっかりしてて、ちょっと残業してますから」

「ミス?」

「朝子とケンカされたんじゃなかったんですか? 朝子、ここ最近落ち込んでましたよ。私がこの間映画館で見かけたよって伝えたら、『ひどいことしちゃった』って。『このままじゃ駄目だから、謝りたい』って言ってました」


 もう会わないと思われていると思っていた。胸の奥が熱くなった。


「朝子を迎えに来てくださったのなら、もう大丈夫そうですね。私、朝子とは高校からの付き合いなんですけど、今回のは相当キテるな、と思って心配してたんですよ」


 中崎さんの顔に、少し寂しそうな表情が浮かぶ。幼い我が子を心配する親のような顔だ。


「朝子は人のことをよく見てるから、考えすぎてしまうだけなんです。『今こうした方がいいんだろうな』とか、『私がこうすれば、私が辛くてもみんなハッピーなんだろうな』とか」

「よくわかります」


 朝子さんとカフェで話すときは、いつも俺から話しかけていた。きっと、忙しく働いている俺の手を止めると迷惑だから、と考えてのことだろう。映画の前に迷子を見つけたときも、先回りしてインフォメーションセンターを探してくれていた。彼女はそういう人だ。俺のことを考えて、自分の本音にベールをかけて見えないように隠す人だ。そういう優しい人だから、俺は彼女のことを好きになったのだ。


「ご迷惑をおかけするかもしれないですけど、朝子のこと、よろしくお願いします」


 中崎さんは頭を深々を下げた。俺もガードレールから立ち上がり、中崎さんより低く頭を下げた。歩道端でお辞儀しあう俺たちを、通行人たちがいぶかしげに眺めている。中崎さんは俺と朝子さんの邪魔にならないようにと、満面の笑みで去っていった。


 中崎さんと話してから十分も経たずに、見慣れた背格好の女性がビルの玄関から出てくるのが見えた。小柄で華奢で、吹きすさぶビル風で飛ばされてしまいそうだ。こちらに気づかない彼女のほうへ、俺は足早に駆け寄っていく。


「朝子さん」


 いきなり目の前に現れた俺の姿が信じられないのか、朝子さんは目を見開いて動けなくなっていた。横を通り過ぎる人々は、立ち止まる俺たちを睨みながら次々に去っていく。風に翻弄される長い髪の隙間から、彼女のまっすぐな視線が俺を貫いている。刻一刻と寒くなっているのに、やけに背中が熱く感じた。拳を握りしめ、自分を奮い立たせる。


「こんなところまで来て、ごめんなさい。でもどうしてももう一度話したくて」


 朝子さんは目をそらさず、俺の言葉をくれていた。俺も彼女を見つめ返す。雑踏の中、ビル風も強く吹いているのに、やけに静かに感じた。


「俺、本気です。あなたのこと。手話の勉強も始めました。家から電車で二十分くらいの、手話教室に通ってて。遊びじゃないです。朝子さんともっと話がしたい。朝子さんの気持ちを教えてほしいです」


 朝子さんの手はスマートフォンを鞄から取り出すこともなく、空を舞うこともなかった。ただ横に抱えるトートバッグの持ち手を両手で握りしめている。力が入っているのか、手の甲が強ばっているように見えた。そのまま、長い沈黙が流れた。彼女は視線を足下に落とし、何かをためらっているような表情をしている。

 どうすれば、彼女がかぶっているベールをはがすことができるだろう。ケイタ先輩の言葉を思い出す。


 ――彼女が何か不安に感じてるんだったら、それを感じさせないくらいおまえの気持ちを伝えろよ。


 俺は握りしめていた拳から、力を抜いた。そうだ。俺たちだけに、聞こえる音があるじゃないか。冷たくなった指先を彼女の視界の中で振ると、彼女はこちらを見た。彼女の目には、小さな光があった。俺の両手は記憶を呼び覚ましながら、たどたどしく動く。


 人差し指で自分を差してから、朝子さんを差す。

 体の中央で合わせていた手の甲を左右に離す。

 顎の前で、くっつけていた右手の親指と人差し指を開く。


 「俺も、あなたと、離れたく、ない」


 彼女の両眼は、俺の手の動きをしっかりととらえていた。また横風がびゅうと強く吹いた瞬間、彼女の目から涙がこぼれた。彼女は次から次へと溢れる涙を、指先でせわしなくぬぐう。そして、彼女の小さな手が音を紡ぐ。


  私も、あなたと、離れたくない。


 街灯の下にたたずむ彼女の表情がはっきりと見える。大きな瞳は俺をとらえ、うっすらと微笑んでいる。その手はもう一度ゆっくりと『離れたくない』と動き、彼女はひとつ頷いた。彼女の言葉が俺の体に染み渡るようだった。

 俺は思わず、朝子さんを抱きしめた。腕の中にすっぽりと彼女の体がおさまる。朝子さんの両手が、おそるおそる俺の背中を引き寄せた。抱きしめていると朝子さんは俺の唇を読むことができないし、スマートフォンを操作することもできない。ましてや、手話などお互いにできない。でも、背中に添えられた朝子さんの手の感触からは、どんな言葉よりも気持ちが伝わってきた。俺はますます、彼女をきつく抱きしめた。俺のこの腕の感触から、彼女への想いが伝わりますようにと祈りながら。



   *



 金曜日の夕方、カフェの休憩室でいつもどおり漫画雑誌を読みふけっているケイタ先輩の前に、先ほど淹れたブラックコーヒーを置いた。ケイタ先輩は不思議そうな顔をして、横に立つ俺を見る。


「俺からのおごりです。……おかげで上手くいきましたので」


 俺はなんだか照れくさくて先輩の顔を見ることができなかった。ケイタ先輩はすぐにピンときたのか、「ははあ」とわざとらしい声をあげながら立ち上がり、俺の肩に寄りかかってくる。


「そうかいそうかい、上手くいったってかい。それは良かったねェ」


 ニヤニヤしながら、先輩はうんうんと頷いている。これで俺をからかうネタがひとつ増えた、とでも思っているのだろう。恩着せがましいことこの上ない。ただ、お調子者で世話好きでたまに頼りになるこの先輩が、俺も結構好きなのだ。


「ほら、そろそろ休憩終わりですよ。戻りますよ」

「そうだねェ、もうそろそろ“無口の姫君”がカフェに来る六時前だもんねェ?」


 痛いところをつかれたので、俺はケイタ先輩を無視してさっさと注文カウンターへ戻った。カウンター下のテイクアウト用の紙袋を補充していると、カランカランとドアベルの音がする。立ち上がりドアの方へ視線をやると、朝子さんが立っていた。俺は左手の上に親指を立てた右手の握りこぶしをのせ、手前に引き寄せた。


 「いらっしゃいませ、朝子さん」


 少し照れたような笑みを浮かべて、朝子さんは「こんばんは」と手話で挨拶する。注文カウンターの中で、俺も同じように返す。コーヒーの香りとBGMとして流れているジャズ、そして人々の会話。それらがあふれる店内で、俺たちだけに聞こえる音が、静かに、でも確かに響き合っていた。




   了

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彼女を振り向かせる方法 高村 芳 @yo4_taka6ra

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