ミザの手紙

にのまえ あきら

ミザの手紙


 拝啓 貴女へ

 

 暦の上では八月八日に立秋を迎えますが、実際は本格的に暑くなり始める時期の今日この頃、如何お過ごしでしょうか。


 こちらは涼しくてだいぶ過ごしやすく、海上の特設ステージの設営準備も順調に進んでいるとマネージャーから伝え聞いています。


 私は今、ベランダから特設ステージを望めるシーサイドホテルの一室で静かな夜の砂浜を眺めながら、貴女と過ごした長くも僅かな時間を思い出しつつこの手紙をしたためています。とは言え手紙を――それも念写やデータ入力ではなく紙に直接――書くのは初めてなので上手く書けていなかったらごめんなさい。


 ここはとても良い場所です。私たちが過ごした殺風景な施術室とも違って、カラフルな絨毯に柔らかいソファがありますし、窓からは絵画のような自然の風景を見ることができます。


 こんな時、隣に貴女が居ればと思わずにはいられません(これまでにも何度も思ったことですが、これからも思い続けることでしょう)。貴女が居れば一人ではすぐに飽きてしまったベッドダイブも笑い転げるくらい楽しかったでしょうし、一度も行っていない砂浜の散歩も一生忘れられない思い出になるはずです。


 ゲノム融合化施術を貴女と受けてからの一年、私は本当に色々な場所に行きました。

 東京に始まり、上海、ニューヨーク、オタワ、ウィーン、ミュンヘン、サンクトペテルブルク、シドニー、ウェリントン……他にも小さな公演を含めれば数え切れません。果てしなく長い旅路でしたが、初めて見るものだらけでめまいのするような感覚に酔っていたら、あっという間に終着に辿りついていました。

 

 そちらはきっとまだ日本で念願の湯巡りを続けていることでしょう。あるいはVR空間で望む景色を見ていたり。ですがこの辺りで一度、海外の観光スポットを訪れてはみませんか。


 封筒にライブのチケットコードや現地の3Dマッピングデータ(方向音痴な貴女のためにちょっと奮発して衛星通信のリアルタイムガイド機能付きにしました)、旅の手引き書を同封してあります。ぜひともミザの最終公演にいらしてください。


 追伸 できればご自分の水着を持ってきてください。そして私に泳ぎを教えてくださると嬉しいです。旅の無事を祈って楽しみにお待ちしています。


                           敬具 ミザより


 ◇


 八月七日、この手紙を受け取った私はその日のうちに飛行機へ飛び乗った。

 そして飛び立つ飛行機の窓から東京の街を見下ろしながら、私と彼女が歩んだ一年間、あるいは数日間のことを思い出していた。


 ◇


 ゲノム融合化施術。

 私と彼女が歩んだ一年間の名前。

 人類の進歩の中で恐らく、いや確実に最も目覚ましい成果の一つだろう。


 どのようなものかと言えば、文字通り人と人のゲノムを照合して融合させる施術だ。それをして何になるのかと言えば、わかりやすいところだとガンをたちどころに治せる。


 そもそもガンというのは遺伝子異常によって変異した細胞(ガン細胞)が異常増殖して起きる病気であって、ゲノム融合化施術は遺伝子情報そのものをまるっと相手のそれに書き換えてしまうので極めて安全かつ確実な根本的治療になり得る――彼女の言っていたことの受け売りだ。


 人間の最小単位は細胞と言われてきたけど人類はもう一段先の世界へ足を踏み入れようとしていた。


 その第一歩目を私と彼女が踏み出すことになったのだ。


 ◇

 

 五月五日 : 施術一回目 : 六十四日 : 照合率16.7%


 鼻先に水滴が当たって目を覚ました。

 目を開けると、細くまばらな白いカーテンが顔の周りにかかっていた。


『起きて、検診の時間よ』


 そのカーテンの根元には息を呑むほど美しい彼女の顔がある。――つまり、彼女は自分も目覚めたばかりだというのに濡れた白髪や赤い唇、高い鼻先から雫を滴らせながら私の顔を覗き込んでいるというわけだった。それも一糸まとわぬ姿で。


『……まだ眠いの?』


『起きます。今起きます』


 口を少しも動かさず話しかけてくる彼女に私も同じように返して起き上がった。ザバァ、と水音を立てながらコフィンから出てそのまま備え付けの洗面台に思い切り嘔吐する。


 嘔吐と言っても胃ではなく、肺に満たされている施術用の特殊溶液を吐き出しているだけなので別段汚くは無い。ただあまりにもクスリ臭さがキツいのでいつか一緒に胃液まで吐き出すことになると思う。


 薄く濁ったオレンジ色の液体を最後まで出し終えて、びちゃびちゃと音を立てながら排水溝へと流れていくのを横目にバスタオルで身体についた溶液を拭き取っていく。

 

『こればっかりは何度やっても慣れなさそうだな……』


 つい今しがたまで寝ていた、二つ繋ぎの繭を横倒しにしたような形状のコフィン。その中を半分以上満たしている半透明のオレンジ色の液体を見つめながら心中で呟く。


『そう何回もするわけでも無いのだから別に慣れなくていいと思うけど』


 念の方を向けば無造作に髪の毛の水気を拭き取る彼女と目が合った、ような気がする。どこを見ているんだかわからない紅の瞳はその実、私を見ているわけじゃない。彼女は盲目だ。

 

『勝手に人の心の声に反応しないでよ』


『聞こえてしまうのだから仕方がないでしょう。私の声だって筒抜けなのだから先祖返り同士おあいこよ』


 そう言って肩を竦める彼女にうめきたくなる。

 けれど仮にうめけたとてその声は彼女に届かない。彼女は聾唖ろうあだ。


 それでもたった今ノールックでバスタオルをかごに放ってみせた彼女は間違っても聾唖や盲目の人には見えないし、本来なら触れ合うことでしか通じ合えない私たちは至って普通にコミュニケーションを取っていた。


 それもそのはず、彼女は〈超心理学における専門特殊研究の最高機密研究対象〉なのだ。掌で文字を読み、鼻で音を嗅ぎ、魂で声を届ける。


 古今東西の特異体質を併せ持ち、空前絶後の特殊能力を兼ね備えている超人で。本来ならば彼女の顔は認識阻害によって記憶すらできないのだという。

 

『っていうか服着なよ。風邪ひくよ』


『どうせすぐ戻るのだから手間なだけよ。貴女も着るのが辛いならそのままでいればいいわ。咎める人もいないわけだし』


 彼女は左手をひらひらと振りながら、タブレットを右手に生まれたままの姿でダブルベッドにうつ伏せで寝転んだ。超人バカは風邪を引かないのだろうか。あの白くて丸い尻をひっぱたいてやりたいと思いつつ、私も服を脱いでからタブレットを覗き込む。


『なに読んでるの』


『ん』


 すると手を引っ張られて、彼女の柔らかな太ももの上にぽすんと着地した。立ち上がろうとしたら羽交い締めにされてしまったので背中全体に柔らかな感触と一部には固い感触を感じつつ、差し出されたタブレットを受け取って内容を見てみる。


『【次世代のアーティスト、〈声無き歌姫〉ミザに迫る】

 

 ――超能力。我々がそう呼んできたものが今、最も鮮烈な形で現実となった。


 ミザ。テレパシーによって歌声を届ける彼女が世界中で話題の中心になっている。


 ミザを初めて知った者は皆揃って言う――デタラメだ、と。

 

 あるいは、初めて彼女を知った時の筆者もそうだった。

 

 何せ、音も光も電波に乗せて世界中のどこへでも瞬時に情報を伝えられるメディア全盛の社会で、彼女の歌声はどこにも存在していないのだ。

 

 彼女の歌声を知るには彼女の声を聞ける距離まで近づかねばならず、そのためには何十あるいは何百倍という倍率のライブチケットに当選しなくてはならない。


 けれど、そうしてミザの歌声を聞いた者は皆揃って涙する――美しい、と。


 常に一枚の紗幕を隔てて歌うために誰一人として彼女の素顔を知らず、記録する媒体を持ち合わせていないために誰一人として彼女のアルバムを持っていない。


 また彼女は歌以外で一言も喋ったことがなく、誰一人として本当の声を聞いたことがない。


 全貌が謎に包まれている〈声無き歌姫〉。


 それでも、彼女のファンは今日も確実に増え続けている――』


 それはだいぶ前のミザについての記事だった。

 いや、趣旨はテレパシーについてだろうか。ミザの紹介文の後はテレパシーとはどういうものかということがつらつらと綴られていた。


 そこに書かれている超心理学の最新研究結果曰く、テレパシーは元々人間に備わっていた機能でテレパシーができるのはつまり先祖返りを起こしているのだという。


 先ほど彼女が私たちを先祖返りと言ったのはこれが理由らしい。


『えぇっと、それで、これが?』


 とはいえこの記事に対してどう反応したらいいかわからず、曖昧な表情でタブレットから顔を上げた私に、彼女はくてんと小さく首をかしげた。

 

『貴女、よく私との施術を受ける気になったわよね』


『い、嫌味ですか』


 私ほどの人間と施術を受けられるなんてまたとない名誉なのよ、くらい言われるかと思ったけど、彼女はゆるゆると首を振った。


『いいえ全く。本当に言葉通りよ。よく受けてくれたなって』


『それはこっちのセリフだよ。私はステージIVの余命ゼロだから受けるしかなかったけど、そっちは何も病気になったりしてないでしょ』


『別に病気じゃなくても受ける意味はあるわ』


『……それって施術前に言ってたってやつ?』


 私の問いに彼女は真顔でうなずいた。


『別に文句もないでしょう。貴女にとっても悪い話じゃないんだし』


 この施術が進めば進むほど彼女は死んでいき、最後、照合率が100%になった時、完全に死ぬのだという。


 確かに、私と彼女は人類の次なるステージへ共に足を踏み出した。


 けれど、向かう方向が同じなだけで目的地は違う。


 あるいは生き返るため、あるいは死ぬため、私たちは一年間を過ごす。


 ◇


 七月七日 : 施術二回目 : 六十四日 : 照合率33.4%


 人類の進歩を集約した最先端技術であるゲノム融合化施術。

 その全容は――寝る、起きる、寝るの繰り返しだった。


 大まかな流れを記すと、まず特殊溶液の入った施術用のコフィンに裸で入り、ぷかぷかと浮きながら数ヶ月眠る。


 その間に溶液を通して体内で施術が行われていき、起きたら次の施術まで私たちは経過観察を兼ねて問題がないか身体チェックをして、また眠りに入る。その繰り返しだ。

 

 施術中は(当然のことだけど)人の介在する余地がなく、基本的に私と彼女の二人だけだったのでとても気が楽だった。


 そして起きている間、私たちはもっぱら施術かお互いについて話しあった。


『揉み心地は悪くないのだけど、欲を言えばもう少しサイズが欲しかったわ』


 例のごとく、ミロのヴィーナスばりに白く滑らかな裸体をベッドに投げ出したままの彼女が紅の瞳を眇めてぼやく。


『人の身体好き勝手にしといて出た言葉がそれですか』


 私はと言えば同じく裸で彼女の上に乗せられ、おっぱいやらお腹やら太ももやらを現在進行形で撫でさすられていた。それだけでなく、時折うなじに顔を埋められて匂いを嗅がれたり、首筋を舐められたり、果てには耳たぶを甘噛みされたりもするから身じろぎしないようにするので精一杯だ。


 彼女の五感が触、嗅、味しかないため、スキンシップの方法はこれが最適らしい。絶対ウソだ。


『あと臭い。ヒトの身体からは絶対にしない匂いがする』


『それは施術の溶液のせい! っていうか臭いならもう離してよ!』


『だーめ、私を光も音もない世界に置いてけぼりにするつもり?』


『言い方に悪意がある……』


 彼女は渋々身体を戻した私のおっぱいを揉みしだきながら言う。


『まだ目や耳には施術の影響が現れていないのよ。目が見えるようになって貴女を見られるようになるのが楽しみだわ』


 意識で五感の違いを感じ取れるのはだいぶ先の話じゃないだろうか。

 恐らく今は身体の基礎を書き換えている段階のはずだ。


『私の身体なんか触っても楽しくないでしょ。見るのなんてなおさら』


『そんなことない。私が施術を受けなければ貴女はいまごろ灰になっていたでしょうし。灰を触るよりはよっぽど楽しいわよ』


 それまで彼女に撫でさすられるままだった私は転がり落ちる勢いでベッドに平伏した。


『その節は本当にありがとうございました』


『別に。見殺しにできなかっただけ』


 目が見えないから?と聞くのは流石にやめておいた。怒りはしないだろうけど、呆れてため息をつかれそうだ。


『施術可能な相手を見つける確率がなんて聞かされたら、受けないわけにはいかないでしょう』


 彼女は施術の欠陥にため息をつきながら、再び私の体をまさぐり始める。

 そう、この施術には問題点が二つあった。

 そのうちの一つが今まさに彼女が言ったこと。


『そもそもの照合率が99.9%を超えていないといけないんだもんね。聞いた時はもはやドッペルゲンガーじゃんって思ったくらいだけど』


 99.9%という奇跡の照合率なのに、私と彼女の見た目は全く似ていない。似てるのは境遇くらいだ。


『当然よ。ヒトゲノムの数は3.0×10^9……30兆個あるんだもの。たとえ99.9%合っていたとしても残り三千億個もの違いがあるわ』


『えっそんなに?』


『ええ。そもそもヒトとチンパンジーのDNAだって99%は一致していると言われているし』


『そうなの!?』

 

 とんでもないトリビアの連続に思わず身体を起こしてしまい、図らずも馬乗りの状態になってしまった。けれど彼女は少しも表情を変えずに下から私のおっぱいを揉み続ける。めげないなこいつ。


『実際は全く記述の違う遺伝子情報約20%を取り除いた上での比較だから70〜80%程度らしいのだけどね』


『じゃあなんで言ったし……』


『貴女に驚いて欲しくて』


『さいですか』

 

『驚いてくれた?』


『出会ってからこっち驚かされっぱなしだよ』

 

『それは残念』


『残念? なんで』


 怪訝に眉をひそめる私に彼女はなんでもないような顔で言う。


『驚いて欲しいのはたまにで、いつもは安心して欲しいのに』


『ご冗談を』


『私、冗談を言ったことなんてないわよ』


『はは』


 思わず鼻で笑ってしまった。

 彼女はだいぶ面白い性格をしている。

 

 ◇


 九月九日 : 施術三回目 : 六十五日 : 照合率50.1%


 施術も折り返し地点に来た。

 すでに施術が始まって半年経っているけれど、体感は三日しか過ごしていないのだから浦島太郎かエピメニデスにでもなった気分だった。


『そういえば、んっ、貴女は施術が終わったら何かしたいことは無い、のっ』


 私の腕の中で彼女が浅く喘ぎ声をあげながら、そんな問いを投げてくる。


『無いかなぁ。考えたことなかったし』


『んっ、なら、今からでもか、んっ、がえてみたら?』


 私は彼女の上に寝そべった状態で大きいのに形の良いおっぱいをこねる手は止めずに思考した。それを嫌でも脳内に入り込んでくる甘い喘ぎ声をバックに数十秒。気が散って仕方がない。


『あの、気が散るんで喘ぐのやめてもらっていいですか』


『だって、んっ、貴女がそんなイヤらしく揉むから……っ』


『揉めって言ったのはそっちなんですが……?』


 照合率は50%を突破して、ついに彼女の感覚にも変化が現れ始めた。

 私の感覚=一般人のそれに近づいていて、以前は超人的な感覚で世界を知覚していたのができなくなっていたのだ。


 一人では満足に立ち上がることすらできなくなって不安げにしていた彼女に私の方からも触れて欲しいと言われ、その通りにして流石に寒いと布団までかけた状態で乳繰り合った結果がこの有り様である。


『っていうか、これ、冷静にならなくても付き合ってる人たちのやることだよね』


 恥ずかしさを揉み消すように目の前の二つの果実に十指を沈ませる度、代わりに怪訝な思いが募っていく。

 ……ゲノム照合率99.9%のはずなのに、いったいどうしてここまでの差が……?


『あら、このまま行くとこまで行っちゃう?』


『寝言は寝て言ってください。っていうかもう寝ないとじゃん!』


 時計を見ればもうコフィンに入らなければならない時間だった。


『ほら入った入った。もう閉めるよ』


『待って。まだ質問に答えてないわ』


『うえぇ、答えなきゃダメ……?』


 彼女をコフィンに入れてから私もじゃぶじゃぶと溶液の中に入って閉扉のスイッチを押そうとしたところで待ったをかけられた。

 

『やりたいことじゃなくて、いつもやってた好きなことでもいいの。何かない?』


『あー……VRのオープンマップで綺麗な街とか景色を見て回るの好きだったよ。あ、あと温泉巡りしてみたくてそれもVRでなら行ったことある』


 なんだ、案外やりたいことあるじゃないか。

 自分がそこまで悲しい人間じゃないことに気づいて私はホッと息をついた。


『そう。できるといいわね』

 

『ん……』

 

 その時、隣でキュッと手を繋いできた彼女の顔を見て、私は目を見開いた。


『今、笑ってたよ』


『……私?』


『うん。施術の効果かな』

 

 施術前、あるいは施術開始直後の彼女はてんで無表情だったから精緻な顔つきはいよいよ人形めいていた。形が外れて良かった良かったとうなずいていると、彼女はゆるゆると首を振ってはにかんで見せる。


『私が笑えてるとしたら、貴女のおかげよ。ありがとね』


『う、うん……それは良かった』


 彼女の目がまだ見えなくて良かったと思った。

 見えていたらきっと、私の頬が熱くなっているのが丸わかりだったから。


 ◇


 十一月十一日 : 施術四回目 : 六十五日 : 照合率 66.7%


 施術も残すところあと二回となった。


『前々から疑問に思ってたんだけど、これってただ味が無いだけ? それとも私の味覚が壊れてるの?』


 もしやまだ味覚障害が続いているのかと思い、簡素に【完全栄養食CND】とだけ書かれているパウチの中身ゼリーを吸い出しながら私はそんなことを胸中で呟く。

 食事中にも会話ができるのは私たちの利点であり特権だった。


『味が無いだけよ。なんなら交換してみる?』


『ん……』


 パウチを差し出され、返事を詰まらせた私に彼女が首をかしげる。


『なに、どうかした?』


『んーん、別に。はいこうかーん』

 

 間接キス、なんて言葉が脳裏を過ったけれどそんなの今さら過ぎるくらいには色々飛び越えた関係性だったので何か言われる前にさっさとパウチを取り替えた。別に、私だってしたくないわけじゃないし。


 今だってベッドで仲良く一つの布団にくるまりながらゼリーをちゅうちゅう吸っているわけでいつも通り何も着ていないし履いていないし、彼女はゼリーを口だけで器用に吸いながら空いた手で私のお尻を揉みしだいている。三大欲求達成RTAがあれば優勝待ったなしだ。これが一番早いと思います。


『そういえばそっちはやりたいことないの』


『突然なんの話?』


『この前私に施術が終わったらやりたいことは、って聞いてきたじゃん』


『そんなこともあったわね』


 彼女はパウチの口部分をガジガジと齧りながら目をつむって考え込む。なんだ、自分もないんじゃないか。そう言おうとしたら答えが返ってきた。


『私、貴女になりたいわ』


 まさかの返答に思わず彼女の目を見てしまった。紅の瞳は相変わらずどこを見ているかわからない。


『それも冗談じゃなくて?』


『もちろん』


 彼女は柔らかな微笑を浮かべながら飲み干したパウチを捻ってゴミ箱へと放る。結果、壁に跳ね返って床に転がった。遠視もテレキネシスもすでに使えなくなっていた。


 私もやってみたけれど同じ末路を辿ったのでおとなしくベッドから抜け出て二つ分のパウチを拾い上げる。そして手のひらに収まるそれを見下ろしながら言う。


『それ、もうすぐ叶えられるよ』

 

『本当に?』


『これってそういう施術モノじゃん』


 彼女の願いは、彼女が死んだ瞬間、自動的に達成される類のものだ。

 それが喜ばしいのか、悲しいのかは私には分からない。

 彼女はゆるゆると首を振った。


『私が言いたいのはそういうことじゃないのだけれど……』


 彼女は難しい話ばかりする。

 けど、彼女と話すのは嫌いじゃないから、この際どういうことかとことん聞いてやることにした。


 ◇


 一月一日 : 施術五回目 : 五十二日 : 照合率82.9%

 

 最終日が来た。

 早かったような、長かったような、なんとも言えないかんじだ。


『明けましておめでとうございます』


『おめでとうございます』


 そして年明けということで今日は二人してベッドの上で正座しあってから一つの毛布に包まった。もちろん裸。すっかりルーティーンになってしまっていた。


 でも施術は今日で最後だ。そして、


『そっちもだね』


 ついに彼女の目に光が宿った。

 耳も聞こえるようになっているという。


『どんな感じ?』


 私は彼女がその目で直接捉えた世界をどう感じるのか、素直に気になった。

 けれど彼女はどこか浮かない表情で小首をかしげる。

 

『不思議な感覚……メアリーの部屋から出たみたい』


『めありぃのへや? 何それ』


『白黒の部屋で生まれ育ち、白黒のテレビや教材を通じて色彩に関する物理的事実を全て知った少女メアリーが部屋の外へ出て実際の色を見たら彼女は想像上の色を超える何かを知るか、っていう思考実験の名称よ』


『へえ、どうだったの?』


『別に答えはないわ。ただの思考実験だし』


『いや、メアリーの部屋の答えが知りたいんじゃなくって。その……きゃっ!』


 私が恥じらいから顔を背けると、彼女は何を言わんとしているのか一瞬で察して、猫のように笑ったかと思えば私を押し倒してきた。


 繊細かつ滑らかで真白な緞帳の中、妖艶な光を真紅の瞳に宿した彼女が私を、確かに私だけを見つめていた。


『想像通り……いえ、想像よりもずっと愛しかったわ』


 緞帳が落ちてくる。

 額同士がコツンとぶつかり、鼻先からその下――唇まで連なるようにして触れ合った。

 それはまるで啄ばむような口づけだった。


『んっ』


 彼女の手が私の胸に触れ、自分でも予期しない声が心中で漏れる。

 以前のような見えない物をまさぐる手つきじゃなく、私を悦ばせるため確固たる目的を持ったそれだった。


『……してくれるの?』


『イヤと言われてもするつもり』


『そっか』


 きっと。

 彼女に聞こえてしまうんじゃないかと思うほど、恐ろしいくらいに動悸が早まっていた。


 こんなに動機が早まったのなんて、手術中に麻酔が切れた時以来だ。


『……っ』


 そう思ったら色んな感情が込み上げてきて、ついには目尻から涙となってこぼれ落ちてしまった。


『ほ、ほんとにイヤなら流石にやめるけれど』


『ううん。そうじゃないの……ただ嬉しくって』


『嬉しい? 私に抱かれるのが?』


『うん』


『そんな喜ばれるようなことをした覚えはないのだけれど』


『沢山してくれたよ、本当に』


 だって、


『――私に触れてくれた』


 ステージIVの悪性腫瘍に身体のありとあらゆる部位を蝕まれ、一眼で誰もが忌避する骨と皮だけの死体同然だった私に優しく接してくれた。


『――私を気遣ってくれた』


 施術が始まったばかりの頃、有棘細胞ガンの名残で皮膚上にいくつも潰瘍の跡があった私に辛いなら服なんて着なくていいと言ってくれた。


『――私を守ってくれた』


 痩せこけているせいで骨が当たってソファに座れない私のため、自分の身体を下敷きにしてくれた。


『――私に笑ってくれた』


 醜い姿と悲惨な境遇によって久しく笑顔を向けられることの無かった私に、彼女は私のおかげで笑えるようになったと言ってくれた。


『――私を愛しいと言ってくれた』


 天涯孤独の身で誰からも愛されることのなかった、あるいは愛の届く場所にいなかった私に愛を囁いてくれた。


『それだけで十分すぎるくらいなのに、望むべくもない幸せをくれようとしてる……こんなに幸せなことはないよ』


 言い出せば、涙が止まらなくなってしまった。

 それでも泣き顔を見られたくなくて顔を覆った私の頬を彼女の人差し指がそっと撫ぜる。


『貴女はもう薬の味覚障害で食べた物を戻すこともないし、髪のない頭を気にかける必要もない。だってほら、こんなに綺麗な髪がある』


 言って、彼女が私の髪を一房手にとってかいでみせる。

 彼女の髪と混じり合って灰色になった私の髪を。


『やっぱりクスリくさいわ』


『それはお互い様でしょ』


『貴女自身はどんな匂いがするのかしら』


『……汗をかいたらわかるかも?』


 私が挑発の意味を込めてそんなことを呟けば、彼女は紅の瞳をすっと眇めた。


『これは全く他意のない戯言なのだけど、古代ギリシャでは双子の性交は最上の快楽をもたらすから禁忌とされていたそうよ。最上の快楽だなんて言われたら確かめたくなるわよね』


『えっ。なんで今それ言うの? ねぇなんで?』


 驚き目を丸くする私に、彼女は何も答えなかった。

 返ってきたのはこれ以上ないほどの愛撫だった。


 ぐちゃぐちゃになって、めちゃくちゃに愛し合って、シャワーを浴びて、私たちはまた眠りについた。


 眠る間際、互いの額にキスをした。


 目が合って、微笑み合って、それから目を瞑った。

 




 

 そして、彼女は死んだ。



 ◇


 八月八日 : 施術終了後 : 五百二十四日 : 照合率100.0%


 日暮れを迎えるホテルの前で、彼女は笑顔と共に私を出迎えてくれた。


『久しぶりっ』


『うん、ひさしぶり』


 どちらともなく、吸い寄せられるように抱きしめ合った。

 彼女の肩に埋もれて彼女の匂いを胸いっぱいに吸い込むと、シャワーを浴びたばかりなのか甘い花の匂いがした。

 

『ねぇ、少し散歩しない?』


『ん、いいね』


 部屋に荷物を置いて、二人でベッドダイブをしてから私たちは砂浜へ出た。

 道中、手を繋いで歩く私たちを見たカップルが「可愛らしい姉妹ね」と言っていて、私たちは顔を見合わせて笑った。


『わぁ……すごい景色』


 夕暮れに染め上げられ、砂浜は何もかもが緋色になっていた。

 彼女の白い髪も、透き通る横顔も、瞳に映る水面の輝きも。


『そういえばライブっていつから?』


『日没と同時。だからホントはここにいちゃいけないんだけど、抜けてきちゃった』


 そう言ってペロリと舌を出す彼女に私は思わず苦笑する。


『悪いことするねえ』


『誰かさんの小狡さが感染うつったのかも』


『私ならもっと上手くやるし』


『確かにそうね。貴女ならきっと、誰にも気づかれない方法で』


 ふいに潮風が吹いた。

 彼女は空いている方の手で髪を押さえながら海に目をやって、唐突に呟いた。

 

『ねぇ、貴女は自分が自分じゃなくなるのを怖いとは思わなかった?』


『急だね』

 

 それと、なんだか哲学的だなと思った。

 

『前からずっと聞きたいと思ってたの。でも、こんな時じゃないと聞けなくって』


『そっか』


 私は目を瞑ってさざ波の音を聞きながら、施術について説明を受けた時のことを思い出す。


 ――ゲノム融合化施術には二つの問題点があった。


 一つ目は、施術を受けるため前提の照合率が99.9%を超えていないといけないということ。


 二つ目は、施術後のゲノム照合率は100%になるため、生物学的な観点で見れば私と彼女が同一個体クローンとなること、だ。融合化とはよく言ったものだ。


 けれど、厳密にはクローンとは違うらしく、より正しく言うと後天的に双子になるようなものらしい。

 リスクとしてこれを聞かされた私は死ぬよかマシだろうと二つ返事で了承した。


『別に、怖いとは思わなかったかな。私は別に私じゃなくなったわけじゃないし』


 そう言ってから、私は自分の返答の間違いに気づいた。


 というより、彼女の問いの意味を履き違えていたことに。


 私が己の間違いに気づくのを待っていたのだろう――彼女は私の両手をそっと握り、諭すような目で再度問いかける。


『なら、?』


 私の答えは決まっていたから、笑顔で言ってみせる。


『全く、これっぽっちも』


 だって、私たちは生物学的に同一個体なのだ。

 

 認識阻害で誰にも顔を見せたことのなかった彼女と、紗幕を隔てて誰にも顔を見せなかった私が入れ替わったところで、いったい誰に違いがわかるというのだろう?


 ◇


『私になりたいってどういうこと?』


『貴女に――ミザになってあげたいの。貴女を金の卵を産むガチョウとしか見なさなかった人たちから解放してあげたい』


 彼女の願いは、私を救うことだった。


『でも、それじゃあそっちが……』


 声音が重くなる私を彼女は心配無用とばかりにぎゅっと抱きしめた。クスリくさいのと彼女の甘い匂いが混じった空気が鼻腔を刺激する。


『思い出して。私がこの施術を受ける目的は?』


『……照合基準を100%私にして、生物学的に自分の存在を抹消すること……』


『私も解放されたいの。来る日も来る日も実験三昧のモルモットから、自由に大空へ羽ばたける鳥になりたい。それと貴女を解放するのが同時にできるなら、こんなに良いことはないでしょう?』


 ついでに貴女と暮らすためのお金も稼いでこられるし、と彼女は笑った。


 ◇


 だから、あるいは死ぬために施術を受けたのは私の方だったのかもしれない。


 そんなことを思いながらあの時の笑顔と夕日に照らされる今の彼女の顔を重ねて見る私に彼女が言う。


『それなら良かった。実は活動を続けたかった、とかあったのかもって何度か考えたこともあったの。貴女、歌を歌うことは好きだったのでしょう?』


『うん。ここを取る前は普通に歌手志望で活動してたからね』


 言いながら自分の喉に触れる。流石にゲノム融合化施術でも摘出した声帯を作り出すことはできなかった。


『でも、今の私は世界一幸せなんだよ』


『それはまたどうして?』


 首をかしげる彼女に、私は彼女の手を引っ張ってライブ会場に続く桟橋へと歩き出しながら言う。


『昔、あるミュージシャンが言ったの。「俺は世界一不幸な人間だ」って』


『ふぅん……その答えは?』


 軋む桟橋を跳ねるように歩きながら、私は笑って答える。


『「なぜなら俺は自分の演奏を生で見ることができないんだから」』


 ライブ会場前の階段にたどり着き、天を衝くようなその威容を二人で見上げる。


 その時、風が止んだ。


 凪だった。

 

『いこっか』


『ええ』


 私たちは手を繋いだまま一歩を踏み出した。


 向かう先は同じでも、目的地は違うはずだった。


 けれど、辿り着いた場所は同じだった。


 階段を登り終え、風が吹く。


『いってくる』


『ん、いってらっしゃい』


 大観衆が見守る中、ミザは誰もいないステージに向かって降りていく。


 日が沈む。


 さあ、ライブが始まる。







fin.

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