トウコさんのお人形 🍭

上月くるを

トウコさんのお人形 🍭




 

 自宅を処分したトウコが同じ町の「憩いの郷」に入所したとき、タクシーに大切に乗せて来た(大方の入所者には付き添いがいるのだが)品はごくわずかだった。

 

 「長く長く働き続け、わたしたちを育ててくれてありがとう」と書かれた色紙。

 精緻なガラス細工が際立つ、美しい江戸切子のグラス。

 電子レンジ仕様のハーブ入りのウォーマー2本。

 いずれもやわらかな色合いのスカーフ10数本。

 10余冊のスケッチブックの絵日記。

 自分でDTP編集した家族アルバム。

 ノートパソコン&スマホ&kindle。

 犬の骨が入っているという黄色いバッグ。

 ほかに、四季の衣類が数枚ずつと日用品。


 それが終の棲家と定めた施設に持ちこんだトウコの全財産で、「人間、無一物で生まれて来たんだから、死ぬときも無一物なのが自然でしょう?」と笑っていた。

 

 人好きな性質らしく、入所したその日からスタッフや利用者仲間と仲よくなり、ロビーや食堂、トウコがいるところ笑い声が堪えない状況がすぐにできあがった。


 おかげで担当の介護士・ユリエの株も上がり、「近ごろの当所内にはいい雰囲気が形成されつつあります」施設長から珍しくお褒めの言葉をいただいたりした。


 

 トウコには離れて暮らす娘さんがふたりいて、折々に、それぞれの家族を連れて面会に来ていたが、そのことをトウコは(子どもが親に会いに来るのは当たり前と思っている大方の入所者のなかでは)異常と位置づけたいほど済まながっていた。


「これからの時代の人たちは、自分が生きて行くだけで精いっぱいなんですもの、こんな世の中になるとは思いもせず、若気の至りで、勝手に産んだ親のことにまで神経をつかわせては申し訳ないでしょう?」というのがトウコ一流の考え方で、「それにね、もしも、わたしなんかのことで夫婦仲にヒビが入りでもしたら、安心して天国へ行かれないでしょう?」お茶目っぽく付け加えることも忘れなかった。

 

 娘さんたちと同年輩のユリエが、「そんなことはないと思いますよ。自分たちを育ててくれた親にはどうか穏やかで幸せな老後を送ってほしいと、みなさん心から願っていると思いますよ」と慰めても、人との交流には極めつきの柔軟性を見せるトウコが、自分の芯を通すところではコツンと頑なで、意固地とも言えそうな面を見せることを承知しているので、それ以上のアドバイスは控えるようにしていた。

 

 

      🌠

 

 

 万全なセキュリティで外部からシャットアウトされ、一見、別世界のように思われがちな施設にも、歳月は雪のようにしんしんと降り積り、入所当初は自由に動きまわっていたトウコも足腰が衰え、昨今では車いすが中心の生活に変容していた。


 視力もずいぶんダウンして来ていて、パソコンやスマホ、本、kindleとも少しずつ距離を取り始めている。遠からずベッドに横たわって過ごす日がやって来ることが予想される。多くの利用者さんを見送って来たユリエの体験的な勘が囁いていた。


 

 そんなある日。

 ユリエを自室に招いたトウコは「お願いしておきたいことがあるの」と告げた。

 

 ――加齢に伴う身体の衰えは、自分が一番よくわかっているわ。人はいつか死ぬのだから、その時期が早いか遅いかは大した問題じゃない。大事なのは肉体という有機物の消滅とともに、その身体に宿していた念をひとつ残さず持って行くこと。最後まで気にかかるものを、なにひとつ置いていかないことだと思うから、ユリエさん、あなたの人柄を見込んで、どうしてもお願いしておきたいことがあるの。

 

 スタッフや利用者仲間といわず、出入りの業者や施設付きの医師といわず、だれかれとなくジョークを仕掛ける口をいつになく真剣に引き締めたトウコは、施設が貸与している小箪笥の一番上の引き出しを開けてみてほしい、とユリエを促した。

 

 利用者さんの私物にはいっさい手を触れないことが、この施設で働くスタッフの大原則になっているので、そこになにが入っているのか、まったく知らなかった。

 

 少し動悸を覚えながら、ユリエがそっと引き出しを開けてみると……果たして、真新しいタオルのうえに体長30センチほどの人形が4体、行儀よく並んでいる。


 編みぐるみ。ボディも服も髪も靴も色とりどりの毛糸で編まれていて、やさしい顔立ちの男の子と女の子がふたりずつ、色白の頬を淡い紅で染めて微笑んでいる。

 

 ――これは?

 

 目顔で問うと、「子どもたちなの」半身を起こしたトウコは誇らしげに答えた。


 子どもたちって……娘さんふたりはわかるけど、息子さんの話は聞いていない。

 一度も面会に来たことがないし、手紙や荷物類が届いた記憶もない。まだ認知症は入っていないはずだけど、どういうことなのかしら? ユリエの頭は混乱した。

 


 トウコが打ち明けたのは、長年、ひとりで抱えて来た大きな煩悶の一塊だった。

 

 ――若くて貧しかったころ、東京下町の古アパート住まいだったわたしは、二度の流産を経験した……いえ、そうじゃない、正直に言わなきゃね、中絶したのよ、二度ともね。当時、定職のなかった夫も妊娠を歓迎してくれなかったし、わたしが休んだら生活していかれないことは明らかだったから、まあ、仕方がなかったの。


 ――夫は中絶費用の工面だけで不機嫌だったから、アパートの近くの産婦人科にはひとりで行ったわ。排気ガスと土埃で汚れたガラスの玄関の横に貧弱な向日葵が数本、真夏の太陽に照らされて咲いていたことを妙に鮮明に覚えているわ。男の子だったって聞かされたとき、わたし、初めて自分の罪を突きつけられたような気がしたわ。でも、懲りずにまた同じことをして……。つぎの子も男の子だったのよ。

 

 加齢で皺ばんだトウコの頬を、おびただしい透明な雫がしたたり落ちてゆく。

 

 ――だからね、あの娘たちには、本当は兄がふたりいるの。けれど、そんなことは絶対に言えないから、二度にわたる自分のあやまちは胸の奥底にしまいこんで、素知らぬ顔で清廉潔白な母親を演じて来たの。なんとも図々しい話でしょう?


 ――その娘たちが相次いで巣立ってそれぞれの家庭を持ち、夫のつぎに犬も亡くなってひとり暮らしになったら、急に半世紀も前のことがよみがえって来て……。それでね、せめてもの罪滅ぼしにと、兄妹4人の人形づくりを思い立ったのよ。


 ――それからはいつも4人と一緒にいるのよ。あ、バッグの中にいる末子の犬も加えれば、大切な5人の子どもたちと、いつも一緒に暮らせるようになったのよ。


 

 すべてを打ち明け終えたトウコは、ほっと安堵したような、それでいてさびしいような、懐かしいような、怖いような、なんとも表現しがたい表情で、ぼんやりとベッドに座っている。まるで、縋りつけるものを探している少女みたいに……。

 

 ひとり暮らしが長かった家ではもちろん、この施設に入所してからも、だれにも気づかれないよう、朝に晩に、こっそりと人形の子どもたちに話しかけて来た。


 それはそれで小さな幸せではあったが、自分の命が終わるとき、残されたこの子たちはどうなるのだろう。若気の至りで、闇から闇に葬ってしまったあの子たちと同様な運命をふたたび負わせることにならないだろうか。ふっと芽生えた心配が、いつも陽気なトウコをして居ても立ってもいられない気持ちにさせていたのだ。


 ユリエはこの一風変わった老女の健気が、堪らなく愛しくなった。小柄な身体をそうっと壊れもののように掻き抱くと、尖った背骨がゴツゴツ指先に触れて来る。


 トウコの悲哀と同化したユリエは「大丈夫、わたしが4人のお人形とワンちゃんの骨をトウコさんと一緒に旅立たせてさしあげます。トウコさんはなにひとつ案じることはないのよ」幼子を安心させるように、ゆっくり言い聞かせていた。【完】

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