第二十九話 彼の誕生日




 七月末のマテオの誕生日が近付いています。私にとって初めての彼の誕生日をどう祝えば良いのか悩んでいました。何でも持っていて贅沢に慣れているマテオに対し、私が贈り物に使える予算はほんの僅かな額なのです。


 年明けの私の誕生日には豪華な夕食にプレゼントと、これ以上になくマテオに甘やかされました。後で聞くと彼は私へのプレゼントを選ぶのにリサとアン=ソレイユだけでなく、叔母にも相談したそうです。


「フォルリーニさんはどうしても貴女に宝石か貴金属を贈りたいって言うのよ。だからネックレスかピアス、ブレスレットあたりを薦めたのよ」


 後日リサがそう教えてくれました。


「え、貴女たちに相談していたの?」


「私たちだけじゃないわ。実はオバさまコンビの方が張り切ってアドバイスしていたみたいよ」


 マテオからは上品な真珠のネックレスとピアスのセットを贈られたのです。いくらするものなのかは怖くて聞けませんでした。


 ナンシーと叔母のスザンヌの助言を借りてマテオが選んでくれたそれらは、私の耳元と首に可憐でささやかな華を添えてくれます。普段は大事にしまっていて、マテオと出掛ける時だけつけるようにしています。


 結局、マテオの誕生日には彼の好きな料理を作ることにしました。手料理で祝うなら予算もそんなにかかりません。


 それにはラモナさんの協力が必要不可欠でした。メニューは子羊の肉のローストと野菜のスープに決めました。良いお肉を買うため、誕生日の前日にラモナさんにイタリア系の市場に連れて行ってもらいました。


「私の料理の腕がどの程度か知っているから、大失敗でもしない限りマテオは文句も言わずに食べてくれると願いたいわ」


「マテオさまはカサンドラさんが作ったものなら大感激で何でも喜んでお召し上がりになりますよ」


「それでも特別な機会ですもの、頑張って美味しいものを作らないとね……」


 ラモナさんが市場でイタリア語で不自由なくお店の人とやり取りをしているのに驚きました。


「私もフォルリーニ家に勤めて長いですから、少しイタリア語ができるのです。市場での買い物の語彙しかありませんけれどもね。消費税分をまけてもらったり、多めに盛ってくれたり、時々そんな特典がついて来ることもありますからお得です」


 それは中華街でもほぼ同じことが言えると中国系のリサから聞いていました。


「まあ、すごいわ」


「上等のお肉を如何に選んで値切るか、私の腕の見せ所ですわね。会話について行けなくなったら、イタリア訛りの仏語を真似て対応です」


 我が国は移民の多い国ですから多言語を話す人は珍しくありません。ラモナさんは母国語のスペイン語に英語も少し、四か国語も話せるのです。私は外国語と言えば英語だけ、しかも日常会話レベルです。


「ラモナさん、頼りにしています」


 ラモナさん行きつけのお肉屋さんで、彼女は店員さんと長いことああでもない、こうでもないと話し込んでいました。娘がイタリア人の婚約者のために彼の好物を作りたいから、という即興の作り話をラモナさんは語っていたのでしょう。イタリア語を話せない私でも、語彙はフランス語と良く似ているのでそのくらいは分かるのです。


「今日は良い買い物ができましたね」


「はい。ありがとうございました。明日頑張って料理します」


 誕生日ケーキまでは手が回らないし、そこまで手作りもできないのでお店で買うことにしました。フォルリーニ家がよく使っているというケーキ屋さんをラモナさんに教えてもらっていました。


 それからプレゼントには青色のシャツを買いました。先日兄が来た時に一緒に選んでもらったのです。マテオの洋服箪笥には黒と濃い灰色の服しかありません。あとは白のシャツが数枚あるだけでした。私は青も絶対良く似合うと思うのです。


「マテオが着てくれるといいなぁ。普段着でもいいから」


「カサンドラさんの選んだものなら絶対お召しになりますよ。綺麗な色ですし、マテオさまのハンサム度も倍増でしょう」


 散々悩んで買ったシャツでしたが、やはり当日が近付くにつれて自信がなくなってきたのです。ラモナさんの言葉は私を元気づけてくれました。


「マテオ、来週の貴方の誕生日当日は一緒に過ごしたいから出来れば早く帰宅してね。私にとっては初めての貴方の誕生日で、貴方にとっては二十代最後の年を迎えるという特別な日なのですから」


「オジサン扱いするなよ、キャス」


 私は一週間前からマテオにそうお願いしていました。彼に急な仕事や夕食会が入らないよう切に祈っていました。


 そうしたら当日マテオはなんと五時過ぎに帰ってきたのです。台所はまだ戦場のような状態で、スープはまだ煮こみ中でしたし、私は身繕いもしていませんでした。


「マテオ、お帰りなさい。良かった、早く帰って来てくれて嬉しいわ。でも今ちょっと手が離せなくて……」


 早くても六時くらいになるだろうと思っていたのが間違いでした。


「キャス、君が料理してくれているのか? 俺はてっきり外出するのかと思っていた。手伝おう」


 このマンションではラモナさんが常に作り置きをしてくれているので、私もマテオも普段は料理をする必要がまずないのです。つくづく私は甘やかされているなと実感します。


「今晩の主役をこき使うわけにはいかないわ。着替えてゆっくりしていて下さい」


 マテオはそれでも部屋着のTシャツにに着替えた後、ワインを選んで食卓の準備をしてくれました。その間に私もジーンズをスカートに履き替え、マテオに贈られた真珠のアクセサリーをつけました。


 舌の肥えているマテオですが、私の手料理を本当に美味しそうに沢山食べてくれました。私も手前味噌ながら上々の出来だったと思うのです。


 二人とも食事だけでもうお腹いっぱいになっていましたが、大きな苺の乗った濃厚なチーズケーキも少しだけ食べました。マテオは甘いものも大好きなのです。


 食事の後、私からの初めての誕生日プレゼントを渡す時は今晩一番緊張しました。折角の誕生日ですから消えてなくなるものよりも残るものが良かったのです。


「貴方がモノトーンのものを好んで着るのは重々承知なのだけど、青もきっと似合うと思ったから……」


「君が俺のことを想いながら選んでくれたものなら何でも着るさ。そして君が脱がせてくれるなら」


 マテオはすぐにTシャツの上からそれを羽織ってくれました。


「まあマテオったら。良かった。青色も素敵よ」


「ありがとう。俺は幸せ者だな、キャス」


 マテオと出会って一年弱、より幸せなのは私の方だと言えます。


 その夜、寝室での時間はいつもよりもずっと甘いものでした。飽きなく求めてくるマテオに私はいいように翻弄されました。


 マテオは私の中で遂に果てた後、しばらく体を繋げたまま私を抱き締めています。私は彼の腕の中で愛の行為の余韻に浸りながら心地良い疲労感のため、朦朧もうろうとしてきていました。


「マテオ、私もとても幸せよ……」


 意識を手放す前に私はむにゃむにゃと呟いていました。マテオにはちゃんと聞こえていたのでしょう。彼は荒い息づかいを鎮めながら少し掠れた声で私の耳元に囁きかけました。


「キャス、素晴らしい夜をありがとう……ティ アモ」


「私も貴方を愛しているわ」


 その愛の言葉に私は夢見心地で答えていたような気がします。


 翌朝満ち足りた気分で目覚めたものの、本当にマテオが私を愛していると言ったのかどうか、確信がありませんでした。今まで情愛を示す言葉は何度も囁かれていましたが、直接『愛している』と言われたことはありませんでした。


 昨夜、夢か現実かもう区別がつかなくなっていたのですが、私の口からもごく自然に初めてその言葉が発せられたことだけは覚えていました。




***今話の一言***

ティ アモ

あなたを愛しています。


何だかんだ言ってラブラブじゃないですか。若いって良いですね。

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