第十三話 閉められなかった扉




「キャス、シャワーを浴びてから君の部屋に行くからな。部屋の間のドアが開いたままだったらだが。それとも君がこっちに来てくれてもいい」


 ホテルでそれぞれの部屋に入るとき、マテオが思い出したように私の方を向いてそう言います。


 未だに無表情の彼は怒りを持て余しているようでした。アンジェラの態度に対して腹を立てているのでしょうか。それとも今晩の私のお芝居が不十分だったのかもしれません。


 人妻となったアンジェラにマテオが横恋慕しているとはとても考えにくいです。むしろその逆でしょう。それでも仕事相手の奥さんである彼女と顔を合わせることは避けられないと言った感じでした。


 むしゃくしゃした気持ちを晴らすならホテルのジムやバーに行って発散して欲しいところです。


 マテオが後で私の部屋に侵入してくるとして、ただ一緒にお酒を飲んでお喋りをするだけではないことは分かります。私は心の準備がまだ完全に出来てはいないものの、とりあえず急いでシャワーを浴びることにしました。


 出会って数日の人とすぐに関係を持つなんてことは私の方針ではありません。そもそも学業ばかりに専念している私ですから、他には子守りかカフェのバイトをしているだけで、そんな機会もまずないのです。


 正直なところ、お金のためにマテオに抱かれることに未だに抵抗がありました。けれど、ここまで来てしまったらもう逃げるわけにはいきません。マテオの部屋へのドアはそのまま開けていたので、私は浴室からなら聞こえないだろうと、シャワーを浴びながらブツブツと独り言を呟いていました。


「マテオってかなりの物好きよね……確かに既婚者のアンジェラはまずいけれど、同伴する女性にも夜の相手にも不自由していなさそうなのに」


 シャワーから出て、私は何を着たらいいのか迷いました。


「備え付けのバスローブだとあまりにも期待しているように見えるかもしれないし、それでも私が持って来た寝間着は色気がなさすぎるし……」


 結局自分の寝間着にしました。要するに古びた大きめのTシャツとトレパンです。元々色気も女性としての魅力にも欠けている私ですから、何を着ても同じことでしょう。部屋の鏡の前で髪の毛を乾かしていると、バスローブ姿のマテオがドアのところからこちらを覗いているのに気付きました。


「やあ、君ももう風呂を済ませたのか。早いな」


「はい。もう少しで髪が乾きますから」


 私はドライヤーを一旦止めて彼の方を振り向きました。


「君が髪の毛を下ろしているところを見るのは初めてだ。うなじが見えるのもいいが、そうしているのも可愛いな」


 私は彼のその言葉に目を丸くして首を傾げました。アンジェラのような見事な艶々つやつやのストレートでもなく、私は平凡なくすんだ茶色の癖毛です。軽くウェーブがかかった、と言えば聞こえはいいですが、湿度によってはボサボサになるので子守りの仕事中でなくても常にポニーテールか三つ編みにしています。


 とにかく、先ほどまで硬かったマテオの表情が和らいでいるので安心しました。


「俺の部屋の方が港まで見えて夜景が見事だからこっちに来ないか?」


「夜景が見えなくても行きますよ」


 私には逃れる術はないと意図しているような、思わず皮肉に聞こえるような、自棄やけになっているような口調になってしまいました。


 私はドライヤーを再びつけ、もうしばらく髪を乾かした後、マテオの部屋に初めて足を踏み入れました。枕元の小さな明かりだけの薄暗い部屋で、彼はソファーに座ってお酒を飲んでいました。


 夜景が美しい高級ホテルの最上階スイートにバスローブ姿のハイスペックな男性という、多くの女性が憧れる要素が全て揃っています。だというのに私は着古したTシャツ姿で全然ムードに気を配らない女だとマテオには思われているに違いありませんが、今更着替えるわけにもいかないような気がします。


 私は窓際に寄りました。彼が言った通り、こちらの部屋の方が方角的に良く、窓から美しい夜のボードゥローを愛でることができました。私の部屋からは見えなかった旧港方面まで見えました。


「まあ、素敵! 私、ボードゥローには何度も来たことがありますが、こんなに高い所からの夜景は初めて見ます。なんて美しいの!」


「アンケ トゥ」


 窓に顔をつけるようにして外を眺めていた私は、マテオに後ろから抱きしめられました。うなじや肩に唇が押し付けられているのを感じます。


 そして彼の方を向かされて唇を奪われました。唇だけでなく、私の背中を撫でる彼の手や、押し付けられた胸板など、体の触れている部分が熱くとろけそうな感覚です。


 彼の唇が少し離れ、耳元で囁かれました。


「夜景は後でまたしっかり見ればいい」


「あぁん……」


 それがくすぐったくて思わず声をあげてしまいました。まるでそれが合図のように、マテオの手がお尻や胸をまさぐり始めました。そしてあれよあれよという間にボロTシャツも下も脱がされ、ベッドに横たわらされていました。


「綺麗だ、キャス」


 そう言ったマテオもいつの間にかバスローブも何も纏っていませんでした。綺麗なのは貴方の鍛えられた体の方だわ、という言葉は彼の唇で塞がれている私の口からは出てきませんでした。


 プールでマテオの筋肉質な体を見た時、彼はベッドで激しいのだろうな、などと不謹慎なことを考えていた私でした。けれど情熱的に奪われたのは唇だけで、彼の抱き方は終始優しくゆっくりとらすようでした。


 最後には私の方が余裕をなくしていました。何とも表現できない感覚がマテオと繋がっている部分から押し寄せて来るのです。私はたまらず彼の背中に腕を回し、はしたない声をあげていました。自分が自分でないような気分でした。


 親友のリサとアン=ソレイユから、性行為は病みつきになるくらい気持ち良いものだと聞かされ続けていました。今までそんな経験をしたことがなかった私は二人に気の毒がられていたくらいです。今晩やっと彼女たちの言っていた意味が分かりました。


 その後はマテオの温もりに包まれて寝入ってしまったようでした。元々眠りが浅い私が目覚めた時はまだ明け方前で、窓の外は真っ暗でした。


 一瞬自分がどこに居るのか分かりませんでした。ここはボードゥローのホテルで、マテオと一夜を共にしたと自覚するのにしばらくかかりました。


 ベッドの隣にマテオは居ませんでした。部屋の中を見回すとなんと彼は薄暗い部屋の中でノートパソコンを開いて書類とにらめっこしているのです。


「起こしてしまったか、すまない」


 私はゆっくりと体を起こしたつもりでしたが、ごそごそとシーツの音がきこえたのでしょう。マテオは立ち上がってベッドに居る私の隣に来ました。


「いいえ、ただ目が覚めただけです。マテオ、どうぞ灯りをつけてお仕事をしてください。私、部屋に戻りますから」


「そうだな、自分の部屋でゆっくりしたらいい。俺も午前中の予定はないからひと段落したらまた眠る。一緒に遅めの朝食を取ろう」


 マテオは私の髪の毛をそっと撫でて唇に軽く口付けました。


「はい、お休みなさい」


 それからの数日はとても楽しいものでした。


 マテオの仕事中は、私はホテルの部屋で勉強をし、時にはボードゥローの街を散策していました。そして毎晩のように彼との甘い一時を過ごしました。寝不足をおしてあくせくと子守をしていたのがつい先週のことだなんて、信じられませんでした。


 それでも、私は借金のかたにマテオと一緒に居るのだということは決して忘れてはいません。今の私はマテオのために働いているとは到底言えませんでした。ただ彼のお金で贅沢をさせてもらっているお返しに夜の相手をしているだけなのです。


 マテオが私との行為によって、私にかかる費用以上の満足を得られているかは大いに疑問でした。この不毛な関係により、よほど私の方が利益を得ているようなのです。


 それでも嫌悪感さえ抱いていなければ誰とでも同じことができるか、と聞かれると答えは否でした。




***今話の一言***

アンケ トゥ

君もだ。


キャー、おめでとうございます!? 二人の距離は少し縮まりましたでしょうか……

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