第3章 2020令和二年 勃発 その2 春 怠らず

     ガーレーバギーを待ちながら(神との直通 素晴らしきかな)

2020-02-29 報告


 前回2月22日に、ここにアップして一仕事報告終わり、と思い、18日以来の「肉食用動物屠殺」関係の考えを自分に確認(どうしても無視してはいられない)。


 しかし、根本問題も気になり、雑誌「量子物理学の最奥の質問」でも読もうかと開いたのだけれども、残念ながら室内の明かりが少なすぎ目の能力も全く不足なので、取りやめにして、読みかけの文字の大きな本を開いた。


 2018年からのウクライナ難民ナディアとの交流における指針は、結局「霊気」という方法を指し示した。すぐにネットで見つけていた本を今年手に入れることができて、ぼつぼつ読んでいた。ドーラが霊気経験があるけれども体調が悪いのであたしに見せてくれることができないままだったのが幸いして、アルツラーという、霊気ヒーラーから転身して、「神と直通の交友」を見つけたというこの人物の本を自分で読み始めていたのである。


 そして2月23日、いよいよ、この下りに来た。


「聖書にすでに書かれている、人間は神の住む社(やしろ)であると。イエスや教会や儀礼を通さなくても、神は私の隣に、いつでも何でも相談できる親友のようにいてくれる。私に目を向けてもらえるようにとあれこれ思い煩う必要もない、彼と私のみだから。ただお願いすればいい、本心から」

 こう読んで、ありがたくて号泣してしまう人がいるだろうか、いますともあたしです。2月23日新月の夜でした。これは物理学とも心理学とも一致する真理であるので、受け入れざるを得ない。この寄ってきたるところには、遠くはNHK人体の不思議シリーズの山中博士の知見からの波及がある。


 お願いする前に、アルツラーさんのうまい導入方法があった:質問してみる、のである。何しろこの心身の中に存在する、俗によく呼ばれている名「ハイヤーセルフ」なので、質問者の内外のことは熟知しているわけで、例えばアルツラーさんの簡単な質問、「霊気の道具立てをまだ使うべきでしょうか?」については質問するうちにもう答えがわかっていると言う具合であった。


 あたしが思いついたのは、かなり重要な質問だった。質問はわからないからするので、それはすぐに直接に教えてくださいと言うお願いになるのだろう、と思っていた。

 それで試してみた、と言えばまずいだろう、本当は完璧に信仰してなす行為なのだから、何しろ、人間って変なもので例えば本心から健康になりたいとは必ずしも思っていないこともある、それにはいろいろ理由はあるが。


*だから本心から尋ねたり相談、お願いできることをまず自分の中に見つけねば!

 ありますとも、あたしにだって、幸いにも。


相談事1 今日はとりわけあたしの左まぶたが垂れ下がっていて、視界を邪魔してます。鏡を見ながら、ほらこんな風にもう少しヒダをとって目をパッチリさせたいんです。

相談事2 この難聴というもの、困ったことばかり。このままでは引きこもり、鬱になり、どこに行っても孤独、笑うこともないし、第一家畜を無残な死から救うという最新の野望に身を挺することもできないではありませんか、どうぞこれを軽減してください、お願いします。人との理解と和合と微笑のためにも!

相談事3 あなたのシステムの法則は定運なのですか? 人間が努力したり偶然で変えたかのように見えてもそれは定まっていたことなのでしょうか? 

相談事4 あたしのいわゆる共依存の心理とはどれほど人間のリアルであるのでしょうか。あの時の夫を捨てることへの恐怖は、実は事故死を避けるためのものだとはわかっていますが。


 なかなかどうして、立派なお願い事項である。

 23日に神ないしはハイヤーセルフとしての親友の存在に感涙。

 24日あれこれ考える、夜には二重瞼で神と遊んだ、クスクス笑いが止まらなかった。これまではまぶたを持ちあげて眼面を露出させるとヒリヒリして仕方なかったのが、1時間もパッチリの目のままでも大丈夫だった。まさに笑い話。


(当日の日記より;今日から本格的に神への甘えとおねだり作戦開始?

さっき左のまぶたを可愛い二重にして欲しいと頼んだところたちまち、1時間くらいぱっちりの目になって一人でゲラゲラ笑った、そうすると今度は右目が小さく見えてしまうのだ。


 それはそれとして、それほどおねだりと実現に気を取られる必要もなく(アルツラーさんによると)当たり前の現象として日常になるのらしい、と言うことはこの関係が原理的システムそのものなのかもしれない、そう言う可能性が見えてきた。すごいな。

 ところで昨夜の読書では、疑問をぶつけよう、と言う提案だった、親友のような神に、へつらうでも卑下するでもなく自分にとってベストは人類にとってもベストであると言う確信を持って。


 それであたしの質問、システムは定運なのですか、偶然はありうるのですか。

 答、微細なところから定まっている、最初の一歩が異なれば全てが異なるだろう、法則に従っているわけであるが(可変的でもあるはずだ、神がおねだりを聞き入れて変えているのだから)、ある領域では偶然を計算に入れている、意外な答であった。


 つまり、この世のもつれたつながりそのものがシステムそのもの、しかしそれをどんなものと表現すればいいのか、それはまだ問題だ、その質問をしてみようか、あ、大問題がある!

 誰もが、お願いしている、スポーツの一騎打ちでもサッカーの観戦でも、お願いの津波だ。そして叶えられた側と叶えられなかった側が両方ある、世界全体の運命の打撃は個人ごとに異なるではないか? 叶って喜ぶ人物はそんな世界に生きている、反対派は失望の世界に。そうすると、世界は各自のためにその数だけ存在することになる?各自は自分の世界の中にだけ生きている、多くの事象がそこで起こっていようとも。これは多重宇宙の考えなのだろうか。面白いが厄介だ、手に余る。


 難聴を治してほしいとも頼んだ、必死に。美しい音楽を聞かせてくださいと、言葉を理解して世のためになれるように、このままでは引込もりになるだろうから。お願いの効果はまだ感じてないが。昨夜はひどい騒音がした。)




*翌日2月25日火曜日 ガーレーバギー(脳神経科医の名前、出身地は不明 感じの良いおじいさん)を待ちながら、自ずと真理的システムは定運なのかという問題を自問自答し続けていた。

 癒しとても物理の法則医療の法則にかないつつ行われる訳だから即決とはいかないかも、治る方向への一押しは与えてくれるのだろう、ということは、システムの具体化は運命的ではなく、友情の展開によっていくらでも可変だ!!!


 こういう慈愛中心主義 準備万端 人類からの手を待っているという可変システムがあり、その進行方向はプラスマイナスの波の中で進み、その具体的展開は偶然による縦横無尽のように見えるけれども、どの具体を使うとしても全て有効に使えるのだが、その時の人類の心持ちが決定している、つまり自由選択に任せてある。「慈愛中心主義 準備万端 人類からのボールを待っている可変」という「そんな方針が、定まっている実態」そのものらしい。

 という答えをもらった次第であります。


 さてここからがまたあたしの相談事を神は忘れないでくれている証拠のような成り行きが始まる。

 ガーレーバギーへあたしが申し出た症状は、美容院で洗髪されると起こる目眩であった。頭の中がぐらぐら動く感じで、それだけで不安を招く。

 そして彼の診察、とてつもない雰囲気となった。


 ガーレーバギーは診察ベッドの上に座るように言い、それからあたしの体を右へ、頭をゴンと打ち付けさせるように倒した、数秒後に激しい目眩(眼振)を観察して彼はクリスタルクリスタルと叫んだ。あたしも目の前がとんでもなく揺れるのに仰天して叫んだ。眼球が動き回っていた。

 それから左へ倒させるとまたもや両者の叫び、三半規管の中の水分が逆に動きやがて目眩を収める。そういえば子供の頃そんな遊びをしたっけ。


「耳鳴りと関係するかもね」

「え、難聴もでしょうか」「ありうる」「何年も耳鼻科に行ってましたが、こんなことは全く言われなかったのです」

「彼らは知らないのでしょう、実は自分の義母の親友のクミコさんが同じ三半規管水分不足による結晶化による目眩現象(脳に間違った位置情報が送られバランスが崩れる)だったことを思い出しだんですよ。クミコさんもアメリカで長年無駄に病院通いしてたのです、ドイツに遊びにくるまでね、可哀想なクミコ、あなたを見て彼女のことを思い出したんですよ」


 そして、もう慢性になっているので治らないだろうが、と試しに薬を出してくれた。1週間しか飲んだらいけないと。


*すぐに処方箋薬局へ。

 親切な薬剤師から、過剰なほど副作用について説明され、自動的にたくさん買わされた中にマグネシウムがあった。筋肉や血管の緊張を解き、血流を促し難聴などの軽減に効くとの情報をもらう。ちょうど前日、マグネシウムの働きを疑問に思っていたのが、すでに神により手を回されていた。

 つまり、いきなり難しい情報が頭の中で生じるわけではなく、専門家が現れて喋るわけだ、なるほど全てはプレゼントだなあ。


 ガーレーバギー治療からの興奮覚めやらず戻った。


*今度は何と、マックを起動させると、共依存解説のビデオが要求もしないのに、向こうからやってきた。そこでの心理学的解釈によると、あたしは強制(DV)されて保護の逆転スキーマを身に付けた、というパターンであるようだった。その仕組みは、基本的には人生初期における保護必要の初期スキーマが、諸事情によりひっくり返されて、親を保護する行動に移るのが多いのだ。そしてそのまま他人を保護するという強制的行動を続けるようになる。それを止めることは生存に関わると感じる。共依存の仕組みはこうであるとか。

 が、しかし、あたしはこれではない、絶対に。人の世話は好きじゃないし。あたしは共依存ではない、これこそ、絶対そうではないという確信を与えるための措置であった。

 しかしこれまた驚いた、素晴らしいありがたいが神から直接ホイホイと渡された。


 確かにJBがいなくなったらどうしようと思うだろうとは思うことあった、普通の心理学でも説明がつく事態だ。しかも、そこにも、うまいこと正しい行動へ(動物惨殺反対運動)と示唆されている。

ともかく、アルツラー、ガーレーバギー、そして自らイイネしにきてくれた鈴木清和さん、ひたすらに、素晴らしい ありがたい。


        *******


耳奥の小さき乾き 通信の狂ひの招く目眩と生きる

閏年の如月尽の土曜日は 大切なるかに思へてをかし

そうかわが片耳なりと麗しき音を楽しむ エンヤの多重音

弥生とてまづ想ほへる小薔薇の葉 梔子つぼむ 仔犬の視線

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   ひよことくまの仔、ブリキの猫 カエルの王子様

2020-03-14 報告


 神がここにいてくれる、と安心して、あたし、ちょっと頭の様子がおかしくなったと思う。外側じゃなくて(外側は自慢の?美しい立派なグレーヘアー、艶々してるのは栄養が足りてるからでしょうねー)。


 先日のリハビリがすんた時、やっと支度を終えてバイバイとドアを開けたところで、ふと、あれカーディガンを着てないと気付いた。そうだ、最後の器械のところに置き忘れた、と思いバックして見回すがない、みんな忙しくしていて、あたしを気に掛ける暇がない、いや、実はその方が良かったのだ、恥をかかなくてすんだ、無視されてたおかげで。

 あたしはいつの間にかちゃんとそれを着ていたのだ、コートの下に隠れていたので見えなかった。それに気付いてこそこそと姿を消した。なんたるこっちゃ。


 リハビリセンターのあたりは工場地帯と呼ばれていて、何のことはない日本の郊外風景だ。安物屋が並んでいる。目をつけていたブリキの猫の置き物を買う、7、5ユーロだ。

 この前は、セラピーのついでにセコハン店でぬいぐるみをほとんどタダであつらえた。あたし、どうしてしまったのだろう。こんなことをする余裕のない生活だったのは確かだ。だからこんな子供じみたことをする? 嬉しくて楽しくて可愛い。


 乗り換えのバス停で、歯無し夫人とあだ名しているほとんど坊主頭の同年齢の女性に会う。彼女は、月末になるとお金をせびりにくる。それであたしが捻挫で困っていた時、うちに転がっているコーラのボトルを頼んだ。スーパーに持って行くと一本25セントで引き取ってくれるのだ。数ユーロになる。

 それ以来、時々ピンポンとベルを鳴らして彼女がやってくる。卑屈になるでもなく無礼でもなく、ただし歯がないこともありさっぱり話が理解できない、話らしい内容は喋ってないと思うが。JBのことは気にしていて体調など尋ねてくる。ちなみに息子が一人いて、ガールフレンドもなかなかできないと母親らしい心配をしている。旦那さんは数年前に亡くなり、恐らく年金が少ないのだろう。あたしはちょっときつくなったセーターなど寄付したいのだが、彼女は頑なに固辞する。そんなところも頑固な、少し押し付けがましい性格だ。そういえばナディアによると彼女には盗癖がありこの辺りのレストランからは立ち入り禁止を食らっているらしい。

 でも総じて、彼女と会うのは好きである。どうしてだろう。誕生日が同じだった。同じ底辺だから?肩肘張らなくて済む?


 帰り着くと、買ってきた鳥の丸焼きをガツガツ、とサラダをバリバリ、と食べた。その時も悲しいことはじっくり頭に思い浮かべていた。


 翌朝、アオガエル(実は緑色)の王子様が、やっと窓際に置かれて、やっと反射してきた日光を浴び、楽しげに両手をひらひらさせて踊っている。そう思われて、そんなことがとても嬉しい。

(去年の秋に孫のために購入しておいたのだが、10歳の男の子にはもう幼稚すぎ、安物すぎたので、プレゼントしなかったもの)


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上弦の月の下なるオリオン座 木星金星左右に煌く

命はも己が輝き知らぬもの 蔦の葉ゆらす俊敏なるリス

火の如き愛恋ありぬ 一度きり記憶も及ばぬ魔法の味は

点火されて生粋の慾叶はずば心身死ぬべし 無償にあらず


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3月14日:13日の金曜日をうまくクリアしたと、真剣に思ったわけでなく冗談で思っていたら、翌日の土曜日、ガックリ。


 春めいた朝、調子良く全て行われ、さ、靴下を履こう、といつも動きの悪い左脚にエイヤッと力を入れた途端、左右の背中が音を立てた、いかにも壊れたという感じで。

 背中の左右の筋肉断裂、筋膜の傷、すじの被害、らしく、しまったとすぐに椅子に座った、座るより他なかった。その椅子があったのはよかった。


 さーて、次の瞬間のどんな動き、どんな内面によってどうなるか? 一寸先は闇という手探りの痛みとの対峙状態。胴体に巻き付けたドイツ製の湿布の暖かさが嬉しい、痛み止めも飲んだせいか、恐怖からは解放される。

 2014年のあの痛みが思い出される。

 筋肉の老化、硬くなっているのはずっと感じ続けていた。柔軟運動欠如だ、ラジオ体操しなくては。筋肉に偏りすぎていた。反省。


 そんなわけで、動けないのでキッチンのテーブルに拠り、雑誌を拾い読み。


 妄想開始==


 聖霊次元への量子的物理次元からの転換が、学問的に、(ただし人間の意識や理性に必ずしも制限されなくてもいいので)、できるだけ学問らしく発見解析説明可能になる瞬間、それはどんなものになるだろう。想像もつかないけど夢見てしまう。


 物質の特徴は意識でもってそれが認識されることにある(補助手段を用いるにせよ)。

 光が当たってそこで何らか反射する、という現象が物質の及ぼす影響である。

 光をこうして止めるもの、それのみならず物理の力が働くこと可能であるもの、その最小のものは何であり、どのようにして生じたのか、無から。


 無から有になったかのように思われるのが意識の技か。意識とは、無を有と思いなす、変換する誤解する仕組みである。


 無の中に極くわずか物質(原子という組成)がある、その構成要素である雑多で気ままな粒子(とは言えこの世界のことは全くわかっていないわけで、ダーク云々と呼ばれている部分だろう、人類の意識が「存在すると想定している全宇宙?」の95%をも成すらしい)がある法則に適った姿をとったのである。この物理法則は(我田引水で言えば)生命と人類の存在を可能にするためのものである(発想を逆転させてみた)。


 これ以前の下地となる量子世界の未だ不可知の法則を用いて、物理法則にまで積み上がってきたのであろう。

 このシステムがシステム自身の姿を鏡像として認識するために。(仮説)


 同じ視線で人類も自分を認識設定する、法則そのものをも。つまり人類が見つけて認識したものはシステムが見たかったものである、ただ多分鏡像としてのみ可能らしい。

 この世の鏡が左右逆ということは存在の有無という違いを示唆する。人類に見えない世界と見える世界の差、単にそんな意味だろう。


 物理のシステムは整然としているが、ただ人類がそれの現す現実世界を認識する時に限ってのみ、混沌と非条理の世界、不平等にして納得不能の世界と見える。それが鏡像の二重性を示唆する。


 人類は責任と債務を負う、世代を重ね、システムの真理を解明し納得する能力があるはずだ、たとえサイボーグ、AI存在となろうとも。


 その道の途中で、弱肉強食(人類の肉食という弊害)というどう見ても野蛮な生命方式を改めることはできるはずだし、そもそもその気さえあれば、技術的な問題に帰着する。

 社会的存在様式も、必要なものは好きなだけ配給する、貨幣を無くする、自由な労働活動を楽しむ、などそんな理想達成もいくつかの人類改造手法で可能になるだろう。


妄想終わり、さて明日はこのぎっくり腰で3件の用事を片付ける予定だけれど、どうなるやら。


     **********


聖霊と親しむ幸になほ足して 量子学の果て追ふ論に遇ふ

「さっちゃんはね、さち」おと名付けられし息(こ)に安易さ詰らる 弁解はせぬ

けふ生きて微笑まるることありたるか ペンをくるくるさせつつ笑まふ

バス停へ坂道ゆかむ 一本の大木ありて春鳥つどふ

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     シンクロニシティが新時代のキーワードに?

2020-03-29 報告


 2月末に目眩治療を教わって、

さらに同日、「厄介な共依存」ではないという頼もしい自分が一層わかって、

3月9日、「神と直通」という本に親しんでいた頃、

降って湧いた一言があった。

それはJBによるモラハラの元で長いこと忘れていた事実である。


その日の朝のセラピーでは、あたしは性格的に弱い、

あるいは文化的な刷り込み(女性役割)があるという結論になっていたのだが、

その反動のように、突如真の姿を思い出したのであった。

あたしが何と、

元来、

芯の強い人間だったことを思い出した、確信した。

例により空からの一撃であった。


 あたしって何か男を寄せ付けない性質がある(話がつながっているようで実は全く横に逸れるのだけれど)。つまり、夫であろうと父、弟、舅、息子まで同じで、あたしが近づくとみんなあの世に行ってしまう、少なくとも死んだも同然になる! 孫はすでになるたけ近づけない仕組みになっている! 

 つまり、こうして海外移住したこと、の他に、実は嫁が(ーなんて家制度の言葉を使うのはあたしには似合わないのだけどー)母親の嫁姑体験を幼児から目の前に見て育ったせいで、あたしを毛嫌いしてしまって病気みたいにすらなってしまった。だから寄り付けない。あたしのことを好きだと言ってはくれてるらしいけどね。

 ま、おかげで孫はきっと立派に育つはず。


で、息子は時々親切にもビデオ電話で世間話をしてくれる。

彼は7月14日のうまれ、その時は知らなかったけれども

私の父がのちに7月11日に亡くなった。

あたしはすぐにそんなことに符号を感じてしまう癖、趣味があって、

父の魂を時空を超えて息子が受け継いていると思われた。

案の定この二人の性質がよく似ている。

父親のJBとは違う、幸いにも。

社会的情報的道徳的にも実に実のある話をしてくれて、

我が子ながら尊敬してしまう。

実はもう二人息子がいるあたし、

いつも息子たちを尊敬してしまう。

あたしが人生で成した良いことといえば彼らである、ありがたいことに。


      ********


二十度の春陽の力 カリコリと首ふりカエルの王冠きらめく

人類へ警告来たり春分へ すべてくう(空)なるにと ふともも(思)ふ

懐かしく味はふ悲しみ 誰彼に目尻のごひてごめんねのみいふ

亡き弟(ひと)の弥生の生日 はらりとぞ去られたる者涙し偲ぶ

恐ろしき青空の底 包丁の鈍き刃先に爪削がれてをり

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 ここ1週間ほど、ネットの楽天で瞑想家?渡邊愛子のブログを14年分読んだ。

 いわばシンクロニスト(この言葉をなかなか変換してくれなかった、造語なのでありえないのは確か!)、宇宙システムに配慮されてお世話されて、1年で目的を達成した過程から、見事に詳細に物語っている。

 いやはや、偶然にして必然、ツーカー、魚心あれば水心、以心伝心、パズルがピタッとハマるように、一見思い通りに物事が捗るという、あたしもここ数年シンクロニシティを意識せざるをえない日々だけれど、彼女の場合規模が違う、目標と程度が違う。

 宇宙の摂理を研究探索し、システムの法則を知って生活に実用運用して、みんなで極楽生活をしようよ、というような動きが、個人でもグループとしても高まってきているような気配をあちこちで感じる。

 世の中そんな趨勢になっているのか??宇宙とつながって自他ともに幸せに、という指南家たちが多い。そんなこととは知らずにあたしも動かされていた?!


 そこで本題。

介護人であるからには、どうしても生活においてJBを顧慮することに今なお重点が置かれているので、

ただでさえ瞑想が二の次になり(それに拍車をかけているのが何と生活に苦悩が少なくなったこと!喉元過ぎればの情けないあたしです)、

いくら何でもこれではダメだと3月23日ブランチの時刻、ちょっと心を向けた、すぐに図を描けそうな気がしてきた。


信仰にはどうも「科学的な理解」が前提となってるのよねー、

あくまでど素人のあたしが理解可能な程度ではあれ、

それなりに納得できないと、確信して信仰できない、

それであーかこーかと思惑は尽きない。今回は下のような図。


お布団のように広がっているのが聖霊、

その目は下を見て、

その思いはハートマークと感激マークでいっぱいという吹き出しがついている。

布団の内部は「鏡面」であり、

聖霊は自らを映しているのだ。


「鏡像の中の世界」はビッグバンから始まっていても良い、

ともかく時間が流れている。

大脳を持つ両眼が当たりを見回している、

その目に入る情報は反射し、屈折している(光が物質に反射して視神経にフィードバックされることを敷衍している)

その思いは吹き出しに、現れている。

モヤモヤした気分と疑問符。

宇宙プラス見えない世界の構造と仕組み、目下のところの。



 翌朝3月24日早朝、「お話ししましょうか、コンコン」みたいな感じで話しかけ、2、3秒般若心経を思い出して、「空(くう)と色(しき)」が重なり合っているのを思い描いた(少なくともそう確信信仰しているので瞬時に集中)。

すぐに考えが湧いてきたので、スマホに録音、

すぐに忘れてしまうんですよね~、かき消したようにころっと。


 こんな風に、前日描いた絵を言葉で捉え直していた。

「人類の意識による定義でいう「存在する」と言う意味で、物質世界は存在している。しかしそれはあくまでも時間軸の中で、人類が五感で感じるフィードバックされた幻である。しかしこの謎だらけの錯綜世界が、システムによって創造されたものであるはずがない。完璧のはずの創造世界の中で人類は立ち往生している、思い描く幻の世界に迷い込んで。覚醒とはこのシステムを理解することであり、ほとんどの人類の存在意義とは、ゆっくりと覚醒の旅をしつつ進化していくこと、そして一方には、そのRPGを手に汗しながら、実は楽しみに、観察している存在がある。そのシステムは手を替え品を替え、人類を極楽へ導こうとしている、それがシンクロニシティとして現れている「偶然の一致」という現象である。」


概念としては頭に思い浮かべてはいても、

それが言葉として表現されないままでいた事柄が、

同じ24日の夜明らかにされた。

その経緯は:試しに覗いた渡邊愛子の瞑想ビデオからYoutubeに迷い込んでしまい、そのうち自然に、お気に入りのテレビドラマ「ルシファー」のビデオ編集を見る羽目になった。

するとそこにはコマーシャルが挟まれていて、誰かが

「我々の存在は魂の中に包まれている、我々の中に魂があるのではなく」と伝えていた。

思いがけない時に聞いたので、こうして日本語にしてはみたが、内容は理解したものの正確にドイツ語ではどんな表現が使われていたか、わからない。しばらくしてどうしても気になり、バックして探してみたが、もう見つからなかった。またそのうち出遭うのだろうけれども。

この1行の言葉が全ての疑問する心を氷解させる。


 今の時点でまとめられることをまとめておこう。

 人間意識(あえて人類の、とは表現しない、あくまでの人間社会で働かせている意識)はおおよそあまり当てにならない。

 潜在意識と人間が呼んでいるものが、あるいは人体を包んでいるシステムなのかもしれない。

 姿はないだろうが、働いている、物質世界を統一している、生命を生かしているシステムがある、これ無くしては生きていないし、宇宙もない。(無神論者のJBもこの存在を否定することはできないだろう。無神論だ、で全てを切り捨て考えるのをやめるのは愚かだ、と今日は彼に曰ったりした。最近あたしの方がモラハラになってるところがある)


 で、この人間意識に対し、ストップ、ちょっと静かにして、と頼み自分の心身と見えない何物かが一体であることを深く思い描く、それだけで、不思議な瞑想感覚になるか、思考に没頭するか、となる。それがいわゆる流行りのアウェアネスの次の一歩でもあろうか。まああたしは瞑想が下手なのだけど。


 元来引きこもり夫婦なので、コロナ騒動にはあまり左右されていないのだけれども、流石に浮かれた気分にはなれない。桜咲いても。




     コロナ禍のなか、空っぽのバスでドーラに遭遇

2020-04-04 報告


 コロナ禍、などと銘打ったが、今のところうちの周囲では実は大したこともない。数日前にはドイツの罹患した人8000人に対し、1割超の死亡者があり、その半分は80歳以上、一つのホームで30人も亡くなったとか言っていた。増加中だ。


 ここ数年テレビで流行のゾンビ化した現代社会、という図がふと浮かぶ。先ほど裏の療養公園に一人で行って、白い花が点々と咲く野原に立った。

 ドイツ中晴れわたっている、気温も風も適当で、ナイチンゲールはいないがその他の鳥が囀っている。人間は二人組でそれぞれの運動をしている。老人は散歩している。木々は早緑の新芽を見せ始め、くる日も来る日も青空、早春の麗しさに満ちているのも念の入った皮肉ではあることよ。ゆっくりと太極拳をした。


 世界中似たような状況になった。生活に密着した事であたしを直撃したのは、例によりバスである。3月初めに、コロナの噂が迫ってきたが、そのころの通院計画では週に3回以上バスを利用するので1万円近い月額乗車券を買うのがお得だった。


 妙に利に聡いようなことをしなかったらよかった。事態は急変し、たちまち通院が中止になり無駄に券が残ってしまった。大損である。ところがどうしてもバスを利用することになったところ、運転手席が完璧にビニールで保護されていて、客は後ろのドアから乗り降りし、かつ料金は払わない!!(バス会社はこの損失を政府から補填してもらうのだろう)あたしは得したのか、損したのか、4月4日でもう使えない月額乗車券が恨めしい。ゴミ箱行きの。


 こんな風に、コロナ禍の埒外で麗しく?暮らしていたところ!!


 4月2日木曜日に、どう言うわけか唯一営業許されている放射線科(そっか、ヴィールスも死ぬのかなビームを浴びせられたら)に出かけ、両手の関節痛緩和治療を5分ほど受けた。バスを待つ10 分を所在なくただ立って過ごし、早めにきた完全に空っぽのバスに乗り、駅で乗り換えようと降りた。

 自動的にベンチの方向へ進み、ベンチに人の気配があるのを認めた。なんの気無しにその人物の顔まで視線をあげると何と、ドーラであった。明らかにあたしは目を疑い、ギョッとした様子をしただろう、彼女の方はもう気づいていたのか、確かに可愛い笑顔を顔に乗せていた。確かに。その笑顔は好きだ。(そう言えば不思議なことに誰の笑顔も可愛いと思う自分がいる、それは思えば変なことだ。母のシワクチャの笑顔もそうだった。昔、柴田錬三郎という時代物の作家がいたが、その人がわらった、ではなく破顔した、と書いた。チンパンジーにも見られるように、歯を剥き出すのは友好の印である)


 勢いで近づこうとしたあたしを、ドーラは手で追い払う仕草をした。

「あ、距離ね」とあたしは言って下がった。メルケル首相ができれば2メートル、と言い残して自宅蟄居したのでみんなそれに従っている。

 困惑、バスでももちろん離れて座った、誰か後ろの席にもう一人乗った以外はゼロ。


 ここでドーラにこうして会うか!!こんなシンクロになるか、と頭を抱えたいような気持ちだった。いつか遭遇するとは思っていたが。彼女のあたしへのネガティヴな感情は、向かいの窓からビンビン伝わってきていた。あたしは彼女にいかっているので連絡を絶った、すると彼女も試みなかったが、彼女の怒りと孤独感を想像せざるを得なかった。あたしは何とかそれに勝る感情で回避、消去、ポジティヴ変換しようと意図していた。

 あたしはくるりと振り返り、斜め後ろのドーラを見た、「最近元気?」「?」「最近元気? 元気そうに見えるけど」「元気、とは言えない、でも少しは回復した」「よかった、元気に見えるわ」とまた前を向き、よかった、と呟いた。


 それはわかっていた。窓辺に黄色のチューリップが並んでいたので。少し前までは枯れ果てたままだった。冬がすぎ、彼女の日光恐怖症が改善したのだ。狂犬病になると水を怖がるとか言うが、ドーラの場合まるでドラキュラだった。

 あたしの人物判断では、もちろん不幸な子供時代の影響が全てを覆っている。怒りと恨み、歯を食いしばって成し遂げた自己への承認欲求は激しい。


 で、最初から、あたしは彼女に宣言していた、今自分が進んでいる「神」探訪の道から問題解決を図る方針でとりあえずは生きて行く、と。それをドーラは受け入れた、その人間主義にあたしは感心したのだった。去年の同じ頃だったろうか。


 しかし、その後彼女は過激になり自分の腕をみせようとして、あたしのビザを危険に晒し、ほとんどあたしをドイツから放り出すところだった。あたしに共依存という考えを吹き込んだ。あたしのことを疎ましく馬鹿でずるく軽蔑すべき悪者と思っている、生育上の問題がないあたしを、逆に甘やかされた子供のまま、わがままな欲張り、足るを知らず夫への愛もなく死を待っている空恐ろしい人物、自分のみならず相手をも滅びさせている芸者、上品な妻のふりをして、、と薄ら笑いしながら口にした、スマホで付き纏うJBへのあたしの返事の真似をした。彼の病気は全て詐病であると主張してそれを信じられないあたしをナイーブすぎる、高等教育を受けて、と非難した。なぜなら彼女の良き忠告を聞き入れてJBを捨てないから。


 今年の正月までに、あたしは2段階にわたって、すでに自分の共依存可能性をゼロにした(JB遺棄への恐怖は無視するべきであり、かつその原因は別物だったこと)、同時に(DVによる洗脳である)恐怖も(性格の)弱さも(日本社会からの)刷り込みも消しゴムですっと消した、そして残るは慣れと所有欲のみとなった。

 言葉としては変な取り合わせになったけれど、要するに、この現在のお気に入りの生活を作ったのはあたしであり、ここにあるあたしのお気に入りの所有物を捨てていくのがどうしてあたしでなきゃならない、と居直ったのである。


 しかしながら、ここでさらなる2段階の波状攻撃に出会った。残り物へとピタリと照準が合っている、これもシンクロだな。


 まず第1波は3月末日、

 「心のバランス」と言う切り口から共依存を論じた文を読んでかなりどきりとした。我慢して長くモラハラ夫と暮らしていると、それなりにそれに慣れて(何しろ生きてはいるので、殺されるようなサイコパスではない場合のこと)しまっているので、別れられない心理となると言うのだ。無理に別れても不安定さから、それと同じバランスを求めるのでまた同じ種類の男と出会うとか。もちろんモラハラ妻もいると思う。


 まさにあたしは「DV慣れ」状態にいたし今も似ている、同じように見えるかもしれないがもう内容が違うのだ。ちょっとギョッとしたがそれを上記の如く居直りで通過するのだ、強気の自己主張で持っていこう。心理学に惑わされずに。


 第2波、4月4日、メサイア(救世主)コンプレックスなる厄介な概念に合う、かなりの打撃を受けた、またもや共依存の可能性復活である。

 しかし、落ち着いて考えてみた。もちろん、あたしは共感しやすく他に理解を示しやすいタイプなので、誰であろうと嫌うことが苦手であり、人助けが気になる、が押し付けることはせず、それを人のなすべき正しい行いだと思う。その手のタイプの割合は知らない。かなりありそうだが。どれほど多くの人が実はそう願っていることだろう、普通に育った人なら。

 とは言え、相手を過保護にすることで自分の自尊心を満足させると言う危険性もある。それがメサイアコンプレックス。


 あたしは、惚れたはれたでなく普遍的な人間愛からJBを捨てることを躊躇する。現在の彼なら尚更で、そもそもこれまで、耐えざる苦悩と不自由と恥すらあたしを壊すことはできなかったし、自尊心は失わない、負けない、いくらでも我慢できる、あたしは芯が強いのだ。おまけに今は怖いものなしである。戦いや上下概念を超越している、大きな慈愛を信仰している。いつもこのことを感じると目下の敵であるドーラすら包み込んでしまう。(そうだ、ニール・ウォルシュの本にあった、気に留めると波は高くなる、居座って悪影響を次々に及ぼすからマイナスの波はさらりと交わす、大人が困った子供を相手にするように)



 ドーラとあたしは距離を保ったまま家まで歩き、じゃ頑張って、とでもいうような言葉を投げつけ合って別れた。彼女だって無駄にこれまで努力してきたわけじゃないから自分の問題は解決するだろう、あたしは密かに静かにそれを見守って行くだけだ。


 さらにその翌日の、こんなしょうもない思惑が有難くも湧いた。

 原子は集積し、おそらく量子世界の不思議な連絡方法で情報交換する、その様子はまさに脳の中で行われる情報交換の原型である。それだけの存在がリアルにあればそこから生じた人類の意識は自分と外界とを創造できる、これだけが生命のリアルな存在形式である。

 まあ、そこから具体的にこの宇宙を実際にリアルに作り上げてもいいが、リアルと言っても無いも同然だしねー。


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精霊と物質粒子のつながりの 温き尊き仕組みに依存す

無尽なる隠り身へ我が問ひあまた 一体なれば瞬時の応へ

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