Track2

 神さまと契約してから、5日が経った。

 不幸を食べ、1日の命を得る生活は、想像していたよりも難しくはなかった。つぐみちゃんは毎朝決まった時間に出勤するのだが、玄関を出る前にかならず、私の住まいであるケージを開けて、身体を撫でてくれる。私はしばらくその手の感触に身を委ねる。

 そのお返しに、私はつぐみちゃんの指先を舐めてあげる。この一連のふれあいが、つぐみちゃんが出かけるときのお見送りとして、昔から習慣づいていた。


 神さまとの契約は、そこに『青い滴』をつけ足しただけのものだ。そのせいで、つい小指ばかり入念に舐めてしまう。そんな私を見てつぐみちゃんは、不審そうながら、どこか気が緩んだような表情を浮かべるのだった。

 たったこれだけで、翌日の日暮れまでの命を得ることができるのだ。これならいくらでも神さまの言うことろの『CDの空白部分』など、延ばし放題ではないか。


 ……と、簡単に言ってのけられるなら、どれだけよかったか。


 たしかに、延命は難しくはない。滴を1日1滴舐めることなど、逆立ちをするより簡単だ。

 問題なのは、青い滴の味だ。

 青い滴……不幸というものは、途轍もなくまずいのだ。はじめて滴を舐めたとき、その比類なきまずさに衝撃を受けた。たった1滴だというのに、腹がずっしりと重くなり、まだ朝ごはんを食べていないにも関わらず、つぐみちゃんが用意してくれた牧草を、ひと口も食べることができなかった。


 つぐみちゃんが出勤したあと、面倒を見てくれるのは彼女のお母さんなのだが、食事も喉を通らず、身動きも取れないほどにへばっている私を心配していた。

 つぐみちゃんにはすでに連絡が行っていたのか、帰ってくるなり悲愴な表情でケージをのぞきこんできた。鼻先にそっと差し出された指のにおいを嗅ぐ。指先に少し鼻水をつけてしまう。いつもは「もーやめてよー」と冗談っぽく私の背中に濡れた指をこすりつけてくるのだが、その日ばかりはつぐみちゃんの表情が晴れることはなかった。


 空の胃がもたれる日々が5日つづき、つぐみちゃんが笑顔を封じこめてからも、同じ日数が経っている。

 つぐみちゃんは、近ごろ食欲不振の私を心配して、今朝は大好物のりんごを一切れ用意してくれた。以前なら飛びつくほど嬉しいごちそうだったというのに、今ではにおいが漂ってくるだけで、空っぽのはずの胃から何かが喉までせり上がってくるような不快感に襲われる。

 私は決して広くないケージの中、りんごからなるべく離れた場所でうずくまり、時が経つのをただじっと待っていた。


 正直に言うと、うさぎである私には人間の不幸がどんなものかよくわからない。毎日舐めているとはいえ、わかったのは他の追随を許さぬまずさであることだけで、その滴の元である『不幸』がどういう現象、あるいは感情が関係しているものなのかは、理解が及んでいなかった。


 疑問を抱える私の前に現れたのは、うさぎ仕様の神さまだ。きらきらと光を振りまきながら玄関の三和土に降り立ち、「元気にしとるか?」と死に際のうさぎに対して相応しくないあいさつをしてくる。

 ちょうど近くに来ていたところ、私の困った声が聞こえたから、駆けつけてくれたらしい。神さまは不幸について教えてくれた。


「人間の不幸というのは、人それぞれ、いろんなかたちがある。悲しい、苦しい、痛い、憎い、疎ましい……。そういう、心に抱いていると身体が重くなるような気持ちのことを、不幸というのだよ」


 神さまが例に挙げた不幸のかたちは、やっぱり私には理解が難しい。もう少し、うさぎ向けに噛み砕いて説明してほしい。


「そうだね、うさぎにもわかるように……。おなかが減っているのに食べるものがない。目の前に好きなものがあるのに、柵が邪魔で食べられない。そんなとき、あんたはきっとモヤモヤしたり、イライラしたりするだろう。その状態を、不幸であると言うのだよ」


 なるほど。それならば、おなかが減っているのに、目の前にある大好物のりんごが食べられない私の現状も「不幸」と呼べるものなのだろうか。

 たしかに、イライラするしモヤモヤするし、この身体の重たさがその気持ちのせいなのだと言われれば、うむそうかもしれない、と納得してしまう。そのくらい、実体を持っているかのような強い負のエネルギーが感じられる。


 そんな青い滴の元になる不幸が、つぐみちゃんの身体の中では、泉のようにこんこんと湧いているのだろうか。底が見えないような青色の沼を身体に秘めたまま、どうしてつぐみちゃんは平気そうな顔で日々過ごすことができるのだろうか。


 人間はやっぱり強いのだな、と改めて感じる。私なんてたった1滴……不幸のほんのひと欠片を引き受けただけで、動けないほどの辛苦を味わっているというのに、つぐみちゃんは早起きをして、仕事に行き、日が暮れるころようやく帰ってきて、家に戻ってからもこまごまと手仕事をしたり、その合間に私を構ったりもしてくれる。


 彼女はどこに不幸を隠し持っているのだろう。どんなかたちの不幸が胸に沈んでいるのだろう。

 滴を舐め、そのまずさを味わうしかない私にはわからないことだ。


 そういえば、不思議なことに、つぐみちゃんのお母さんの小指が青い滴で濡れているのを見たことは、未だにない。神さまはエコーのかかった声で教えてくれた。


「不幸の滴は、塩で浄化されてしまうことがあるのさ。塩には強力な浄化作用があるからな。お母さんは料理をするときに使う塩で、知らず知らず滴を消滅させているのだろう。あんたみたいなのに食ってもらうより効果は薄いが、不幸が減っているのは本能でわかっているのだろうな。お母さんは塩を使うとき、計量スプーンを使わず、素手で摘んで振りかけるからな」


 肌に塩が触れると、青い滴は消えてしまうらしい。つぐみちゃんが料理好きの女の子だったら、私が生き延びる術はなかったかもしれない。

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