ワンドロ企画

ぶんぶん

揮発性の記憶


 百年と十一日前、世界で一番大切なものを失った。何を失ったかは忘れたが、きっと全てを失ったのだろう。

 彼岸花の咲く野を、金木犀の木に寄りかかりながら眺める目の前の少女にそう語りかけた。


「……結局、何を失ったのかはわからないの?」


「何も覚えてない。ただ、私の胸に大きな穴が空いた感覚は覚えているがね」


「ふーん、お姉さん忘れっぽいんだね」


「……そうかもな、もう思い出せる顔もずいぶん減った」


 私は煙草に火をつけた、空虚な胸に紫煙が流れ込み微かな毒を残してまた去っていく。少女の頭を撫でる、長い黒髪がさらさらと流れた。何故かわからないが、少しだけ寂しくなった。


「あんなに大事だったことは覚えているのに、何が大事だったのかはもう思い出せない。永く生きていると取りこぼしてばかりだ……」


「誰だってそうだよ、生きているって、何かを忘れたり、落としたり、失くしたり……ままならないことばっかりだね」


 にへらと少しだけ哀しそうに笑う少女を私はひどく恨めしく感じた。


「それが嫌だから、こんな有様になったんだがな」


 彼女の言っていることは正しいのだろう、そしてそれは私が嫌いな正しさだった。失って、喪って、亡って、そうして何も残らないのが嫌だから私は今も生きている。


「……どうして嫌だったんだろうな。もうそれすらわからない」


「ん〜……お姉さん、優しすぎたんだよ。きっとね、だってほら、泣きそうな顔してるもの」


「…………優しくありたかっただけさ」


「あら?そうあれる人を、“優しい”っていうのよ?」


 少女の指が私の頬を撫でる。その手は冷たい風に当てられたのか、酷く冷たかったが、私に暖かみを感じさせた。


「だから貴女はそんな顔をするの、忘れることすら許せないくらい優しいから。本当は、忘れてもいいって言いたいのだけれど……貴女はきっとそれは出来ないから」


「………………」


「だからね、貴女が少しだけ自分を許せるように、ほんの少しのおまじない」


 少女の唇が私のそれに触れる、金木犀の香水と真っ赤な瞳がこちら認識を塗りつぶした。


「記憶は、色んな物と紐付けされるそうですよ?特に匂いが一番だとか」


 唇を離し、自慢げにそう話し出す少女の姿が失われたナニカと重なる。百年と十一日前、死なせた女の姿が脳裏に過ぎる。


「だから、私のことを忘れちゃったら金木犀と……彼岸花のあるところに行ってくださいね、そしたらきっと……お姉さん?」


「…………そうか、私は」


 百年と十一日前、あの憎らしい荒寥とした青空の下で失われた執着が、私の目の前に現れた。

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