第16話 崩壊する世界

 チオマ・オグノデは、リュックを背負い、子どもを抱えて、倒壊した建物の間を走っていた。


 身を寄せ合っていた場所が襲撃を受けたからだ。一緒にいた伯母おばが、食料と水の入ったリュックをチオマに押し付け、押し入られた入口とは反対側から逃がしてくれた。


 どちらに逃げるのが正しいのはわからなかった。ただ、とにかく離れなければならない。でなければ、あいつらはチオマを目ざとく見つけるだろう。


 ナイジェリアには地震がない。だから建物はもろかった。ドローンが落とした爆弾で少し揺らされただけで、高い建物は砂の楼閣ろうかくのように崩れ落ちてしまった。


 チオマの家も被害にった。だが、住んでいたのは、アフリカ第二の都市ラゴスの中でも特に貧困にあえぐ地域だ。家と言っても掘っ立て小屋のような簡素なもので、だからこそ逆に被害は少なかった。


 爆弾の直撃を受けなかった者たちで協力して建て直し、狭い中、隣家と共同で使った。


 停電も断水も関係なかった。なくても生活はさして変わらなかった。


 何が起こったのはわからなかった。どうやら宇宙人がやってきたらしいという話だったが、その時のチオマは信じなかった。内戦が始まったのだろうと思った。その方がよっぽど信憑しんぴょう性があったからだ。


 ナイジェリアが、そしてラゴスが、近隣から流れ込む難民を抱えきれなくなってからずいぶん経つ。チオマがまだ都市部で働いていた頃にはもうそんな状態だった。


 アフリカ大陸の砂漠化は進み、食糧難と水不足が年々深刻になっていった。植物工場やミドリムシユーグレナ、海水の真水まみず化など、科学の力で何とかしようという動きはもちろんあった。だが、発展よりも荒廃の方が速かった。科学は自然に敗北したのだ。


 人々は食い扶持ぶちを求めて近隣の大都市に群がった。


 その結果、チオマは職を失った。


 富裕層とそれ以外は明確に分かたれた。その間には高い壁と銃があった。中流階級と貧困層の間には物理的な壁こそなかったが、生活水準も職業も住む地区も明らかな差ができた。


 世界の中でも最悪の部類に入る治安はさらに悪くなっていき、いつか爆発するのは必然だった。


 実際には内戦ではなかったわけだが、どちらでも大差はない。


 チオマには、生まれたばかりの息子の命を守ることが全てだった。レイプの結果生まれた子だったが、かけがえのない宝物だった。


 チオマの仕事は、荒廃した畑で育てたイモを細々と売ることだったので、収穫したばかりで売りに行っていないイモがまだ家に残っていた。それを分け合って食べて数日生きながらえた。


 そして、あいつらがやってきた。


 銃を構えたあいつらは、住人を蹂躙じゅうりんした。抵抗など無意味だった。武器も持たないチオマたちは、ただ隠れて震えているのが精いっぱいだった。


 一方的な虐殺が終わったあと、チオマたちは全てを失った。手元には何も残らなかった。


 それでも、なんとかここまで生きてきた。こぼれた穀物をかき集め、草の根を食べ、 何もなくなった後は、危険を承知で食料を取りに貧民街の外に出た。


 息子の粉ミルクが手に入ったのはありがたかった。チオマはもうろくな乳も出なかったから。綺麗な水は全て息子に与えた。


 戦いは終わることなく続き、外に出たまま帰らなかった者も多い。


 そして、あいつらは再びやってきた。何も持たない自分たちからさらに奪おうとして。


 叔母は無事だろうか。チオマたちを逃がしたため、隠れる暇はなかった。どうか命だけは助けてもらえますように。


 チオマは無事に残っている建物の一つに入った。チオマたち最底辺の人間を助けてくれていた、外国の非政府組織N G Oの建物だったが、真っ先にあいつらに狙われて職員は全員死体になり、蓄えられていた食料はチオマたちが取り尽くしたため、もう何も残っていない。


 一番奥の部屋に入り、チオマは隠れた。腕の中の息子は大人しくしてくれている。


 ばんっ、と表のドアが乱暴に開けられた音がした。その後にも大きな音がしたから、衝撃でドアが外れたのかもしれない。


 入った所を見られただろうか。それとも、何かありそうだと検討をつけただけだろうか。


 チオマはこの建物に逃げ込んだことを後悔した。頑丈さが自分たちを守ってくれると感じて、とっさに選んでしまった。狙われやすい場所だとわかっていたはずなのに。


 どたどたと複数の足音がする。


 息子を抱き締めて願った。どうかここには来ませんように、と。


 しかし、その祈りむなしく、チオマたちは見つかってしまった。銃口が向けられる。


「殺さないで! 食べ物ならここに」


 チオマは床に置いたリュックを手で押し出した。


 だが銃口は下げられないままで、一人の手が伸びてきて、息子の頭をつかんだ。赤子は火がついたように泣き出した。


「やめて!」


 チオマは抵抗したが、息子を取り上げられてしまう。


「やめて、お願い! やめて!」


 足にすがりつき、泣いて懇願した。息子はチオマの全てだ。いなくなったら生きていけない。


 その願いも叶えられなかった。


 持ち上げられた息子の体に銃口が当てられ、ぱんぱんっ、と銃声がしたのと同時に、赤子の泣き声が止んだ。


 チオマは茫然ぼうぜんとした。両腕をだらりと落とし、見開いた目で血に濡れた息子を見ていた。


「ひどい」


 その額に銃口が突きつけられる。


「ひどいわ……」


 チオマはをにらみつけた。


 浅黒い肌をしたひげ面の男の目には、何の感情も浮かんでいない。


 静かに目を閉じる。


 侵略者がどれだけ残虐なのかは知らない。


 だけど――。


 チオマの頭に乱暴した男の顔が浮かんだ。祖母を、叔父を、姪を撃ち殺した男の顔と、部屋を漁り、食料を奪っていった女の顔も。


 ――人間の方がはるかに残酷だ。


 ぱんっ、と銃声が響いた。




 * * * * *


 

 

 アリシャ・セーワグは、薄暗い食堂で、脚を折りたたんで低くしたテーブルの上に力なく体を横たわらせていた。昨日は一食しか食べていないし、今日はまだ水しか口にしていない。


 体がじっとりと汗ばんでいく。電気が止まり冷房が動かないここは、ここ十年で猛威を増した夏の熱波には無防備だった。だが三日も拭いていない体はすでにべたべたで、今さらなんとも思わなった。


 隣には、同級生の男の子が同様に寝そべり、ヒビだらけの天井を空虚な目で見つめている。


 そのずっと向こうにある、料理を受け渡しするカウンターの上では、座り込んだ男たちが笑い声を上げながら何かを食べていた。


 二人の母親たちは、さらにその奥に行ったきりまだ出てこない。早く食べ物をもらってきて欲しい。


 奥に行くたびに母親は泣いて戻ってきていたが、今や表情を崩すこともなくなった。淡々と行き、淡々と帰って来る。


 この前、アリシャは八歳になった。お祝いに、と同級生が食事を一口くれた。母親たちは全てくれた。ケーキも何もなかったけれど、アリシャは久しぶりにお腹いっぱいに食べられて嬉しかった。


 ここに閉じ込められてからもう一年になる。


 あの日、アリシャは学校の授業の一環で、母親とIT企業の見学に来ていた。


 かつてインドのシリコンバレーと呼ばれたムンバイの郊外にあるそのキャンパスは広大で、クラブ活動のためのクリケット場や、プールなどもあり、アリシャは見て回るのを楽しみにしていた。


 サリーを着た女性社員の案内でオフィスを歩いていたら、突然先生が恐い顔で見学は中止だと言った。誰かが悪いことをしたときにするのと同じ顔だ。クラスメイトと行儀よく並んで見学していたはずなのに、なぜ叱られるのだろうと思った。


 働いていた大人たちが廊下に出てきて、階段に向かっていった。その中を、アリシャたちもついていった。


 避難訓練だと思った。好きなアニメに出てきたやつだ。日本の学校では、こうやって火事から逃げる訓練をするらしい。


 一列になって降りていくアリシャたちの横を、大人たちが次々と追い越していく。


 避難訓練では走っちゃいけないのに。


 大人なのにそんなことも知らないのかとアリシャは一人で憤慨していた。あとは……そう、おしゃべりもしてはいけないはずだ。


 なのに、隣のビルに向かう渡り廊下にきたところで、先生が叫んだ。


「走って!」


 そうして周囲の大人に混じって一目散に駆けていく。


「駄目よ!」


 アリシャは走ろうとしたクラスメイトの男の子の腕をつかんで止めた。他のクラスメイトはアリシャたちをよけて走って行った。


「なにすんだよ!」


 男の子に突き飛ばされた時、大きな揺れが起こった。


 床に倒れ込んだアリシャは、誰かに抱き起された。アリシャの名前を呼んでいる。母親だった。親は子どもたちの後方にいたはずだ。


 ぼんやりとした視界がはっきりとすると、自分が開け放たれた窓のすぐそばにいることに気がついた。まぶしい。焦げ臭い風が髪を揺らす。


 しかし、そこは窓際などではなかった。さっきまで渡り廊下があったところだ。ガラス張りの渡り廊下は、継ぎ目の所からきれいに折れて下に落ちていた。


 渡っていた先生や友達がどうなったのかは考えたくない。


「大丈夫? どこも痛くはない?」

「大丈夫」


 本当は倒れたときにぶつけた膝が痛かったが、アリシャは言わなかった。それどころではないということはわかった。


 無事を確かめた母親は、アリシャを抱えて走り始めた。そのすぐ後ろを、同じく母親に抱えられたクラスメイトの男の子が続く。その子は呆然ぼうぜんとしていた。


 外は映画の中に迷い込んだかのようだった。建物が崩れ、火の手が上がり、汚れ怪我をした人が走って逃げていた。


 そうして何とか逃げ込んだのが、この社員食堂だ。


 食堂の中には他にも人間がいた。全部で三十一人だった。子どもはアリシャと同級生の二人だけで、あとは社員と食堂の職員らしき人物だった。


 何の奇跡か、複数あった入口は全て瓦礫がれきふさがった。そのため、黒スーツが入って来ることはなかった。


 スマホを見ていないアリシャはその存在自体を知らなかったが、今外に出るのが危険だということはわかった。


 音と振動が止まったあと、中の大人たちは何とか外に出られないかと手を尽くしたが、瓦礫を取り除くことはできなかった。


 幸い食料も飲み物も大量にある。隙間があって窒息死することもなさそうだし、と助けを待つことにした。


 最初は良かった。備蓄を確認すると言い出した人がリーダーとなり、アリシャたちにも平等に食料を配ってくれた。


 それが一週間、十日、とたつにつれて様相が変わっていった。


 諦めずに外に出ようと瓦礫と格闘していた数人の男女がいたのだが、まず、その行動がとがめられた。制止の声を聞かずに好きにさせてもらう、と言った男を殴った。外はまだ危険かもしれないという理由だった。


 次に、配られる食事の量が減った。この状況がいつまで続くかわからないから、という理由だった。先日殴られた男は、保存食だけでも二、三年分はあると言ったが、殴られて終わった。


 そして、配給の代わりの「奉仕」が始まった。呼ばれるのはいつも女性だけ。何をしているのかはわからない。初めは断った女性も、やがて飢えと渇きに負けて屈していった。


 後に男も呼ばれるようになったが、いつもひどい傷を負って戻ってきた。やがて行ったまま戻らなくなり、フロアは女だけになった。残っているのは、仕切っている五人の男と、クラスメイトの男の子だけだった。


 アリシャは母親が持ってくる配給が一人分であることを知っている。アリシャの分はないのだ。「奉仕」ができない幼い二人は、要らない物として扱われていた。母親が子どもを捨ててしまえとさやかれているのも知っていた。


 どうしてこうなってしまったのだろう、と思った。本来なら今ごろは、冷房の効いた教室でクラスメイトたちと勉強をしていたはずだ。


 子どものアリシャには、一年は途方もない長さだったが、学校に通っていた頃のことははっきりと思い出せた。男の子たちに嫌な思いをさせられたことはたくさんあっても、今思えば些細ささいなことだった。


 もしもアリシャがここに来ていなければ、とっくに黒スーツの餌食えじきになっていたのだが、黒スーツの存在自体知らないアリシャには、ここにさえ来なければという思いが強くあった。


 と、突然、食堂の中央右手の壁、瓦礫がれきで埋まった入口から、大きな音がした。しびれを切らした誰かがまた外に出ようとしているのだろうか。


 どうせあの男たちにをされるだけなのに。


 アリシャは命知らずが誰なのかと視線を向けた。


 だがそこには誰もいない。音だけが聞こえてくる。


 カウンターの上でくつろいでいた男たちが動き始めた。


 それよりも早く、ぼこりと音がして、細く小さく射していた光の筋が大きくなった。


 そしてその光をさえぎって聞こえてきた声。


「誰かいるのか?」


 どんよりとよどんでいた空気がざわりと動いた。


「助けがきた!」


 誰かが叫んだ。


「ここだ! ここにいる!」


 男たちが、駆け寄り、穴の外を見つめた。


 その穴から出て来たのは細長い棒。


 だだっと音がして、一番前にいた男が膝をつき、どさりと倒れた。その後ろも。


「銃だ!」


 もっと後ろにいた男たちは飛びのいた。


 来たのは助けではない、とアリシャは思った。横暴だった男たちを成敗しにヒーローが現れたのではないのだ。これから自分たちも殺される。


 きっと前世の自分のカルマが悪かったのだろう。それなら仕方がない。


 アリシャはようやく自分の運命を受け入れた。




 * * * * *



 アマゾンの奥地のある部族の青年イェクは、引っ越し前の儀式の準備のために、仲間と共に蛇を探していた。


 イェクの部族では、移動の前にその土地の精霊に捧げものをする。移動した先では一番幼い女児を捧げるが、去るときは毒蛇の皮と牙、猿の頭蓋ずがい骨、蜂蜜はちみつだ。


 河の上流に行くという。近くにまださるはいるし、狩の効率も悪くはないというのに、もう移動するのかと思ったが、悪霊がやってくるとおさに精霊が告げたのだ。ならば移動するのが当然だ。


 木の枝の上を探していた青年が、しゅるりと動いた影を見つけた。


 仲間に合図して、するすると木に登っていく。


 手に持った枝で蛇を刺激すると、蛇は牙をむいて威嚇いかくしてきた。なおも挑発すると、怒った蛇が全身のばねを利用して飛び掛かって来る。


 イェクは右腕を出して蛇にみつかせた。牙を食い込ませて動けなくなった蛇の頭を左手でつかみ、引きはがす。


 地面へ飛び降り、仲間が広げた袋の中へと入れる。


 口で毒を腕から吸い出すと、よくやった、と背中を叩かれた。腕は数日れて痛みに眠れないだろうが、捧げものを狩るのは名誉なことだ。


 森の外で人類の存亡が懸かった戦いが繰り広げられていることなどつゆ知らず、イェクたちは、いつも通りの生活をいとなんでいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る