炉狐奇譚

田島はる

古びたお社を掃除してたらお狐ロリババア巫女が現れたので、なんやかんやお世話になった話

 足を進め「ふぅ」と息を洩らした。


 土が剥き出しになった山道を踏み、前へ前へと足を動かす。これでも整備された登山道だが、舗装されてない分、体力を奪われる。


 疲労が蓄積していくのに比例して、心に空いた穴が広がっていくような気がした。


「…………なにやってんだろうな、俺は」


 それまで志摩誠一という男の人生は順調そのものだった。一流企業に就職し、最愛の彼女と結婚の約束をして、人生の絶頂にあった。


 しかし、半年前にすべてが一変した。彼女には振られ、周囲からは厄介者のように扱われ会社に自分の居場所はなくなった。次々と不幸が押し寄せ、真綿で首を締められているようだった。


 目の前の現実から逃げ出したい。そんな一心で、昔趣味にしていた登山をしてみたものの、想像していたような清々しさはなかった。


 気力より疲労が勝り足を止める。一度休憩をするべく、誠一はその場に腰を降ろした。


「…………ん?」


 森の奥に、小さな建物のような物が見えた。


「なんだあれ……?」


 よく見ると、神社なんかに見られる特徴的な屋根をしていた。


 好奇心に突き動かされ、草木を掻き分け近づいてみる。よく見ると。古びた社のようだ。辺りには雑草が野放図に生え、クモの巣が張っている。あちこちにコケが自生しており、長らく放置されてきたものらしい。


 放っておけば、このまま朽ち果てていく定めなのだろう。


「…………」


 なんとなく、放ってはおけなかった。ただの興味本位か。善行を積んで、何らかのご利益を期待していたのか。あるいはその両方か。


 近くまで来ると、ボロボロになった箒を発見した。これを使わせてもらおう。


 屋根に積もった葉を落とし、クモの巣をはらう。片っ端から雑草を抜き、床下に箒を突っ込んで社を住処にしてていたであろう動物を追い払った。


 ひと仕事を終え、「ふぅ」と息をつく。可能な限り綺麗にした。今度こそ一休みしようとしたところで、違和感に気がついた。


「────は?」


 気がつくと、小さな神社の前にいた。自分は先程まで社の前にいたはずで、さっきまでこんな物はなかったはずだ。


 周りの木々も、先程とはどことなく違うような気がする。明晰夢の中にいるようで、この世ならざる物を前にしたような、現世から隔絶した気分。


「俺は……死んだ、のか?」


 小さな鳥居と社殿を前に、山中で掃除をした社のことが頭をよぎった。あれが何かに関係している?


 そこまで考えて、誠一は頭を振った。まさか。おとぎ話じゃあるまいし。


 まばたきをした、次の瞬間──


 ──目の前に、こつ然と少女が現れた。

 歳は10代前半だろうか。巫女装束を身に纏った、凹凸の少ない平坦な身体。頭には狐の耳のようなものが生えており、作り物ではないことを証明するようにピクリと動いた。


 あまりに現実離れした光景に、理解が追いつかない。


「キミは、いったい……」


 黄金色の瞳が誠一を射抜き、桜色の唇が開いた。


「妾の名は香夜。この地を治めておる神じゃ。長らく朽ち果てておった社を掃除したお主に、ひとつ礼がしたくてな。ここまで招いたわけじゃ」


 まるで昔話のようだと思った。人知れず良いことをした人間が神から褒美を賜る、極めてありふれた、非現実的で突拍子もない展開。


 思わず間の抜けた声を出しそうになるも、なんとか踏み留まる。


「…………私は志摩誠一と申します。本日はお招きに預り……」


「よい。堅苦しいあいさつは抜きじゃ。お主にはここまで足を運ばせたり、社の掃除をさせたりと、礼を言いたいのはこっちの方じゃ。あんまりへりくだらせては、妾の立つ瀬がない」


 招かれるままに鳥居を潜り、「あっ」と声を洩らした。


「どうかしたかの?」


「いえ、鳥居を潜る前に礼をするのを忘れてしまって……」


「構わぬよ。それは昔の人間が勝手に決めたことにすぎぬ。要は神々を敬い、敬意を払う気持ちさえあればよいのじゃ。社の周りを綺麗にしたお主は、既にこの上ない敬意を払っておる」


 そう言うと、香夜は再び歩みを進めた。


「はぁ……」


 そう言われたものの、やはり神を前にして礼を欠いた行いはできない。一礼をして、注意深く歩みを進める。目の前で揺れる尻尾に視線を吸い寄せられそうになり、慌てて視界から外した。


 香夜に促されるまま社殿に足を踏み入れる。神の領域に踏み込むなど畏れ多い気がしないでもないが、当の本人が招いているのだから、遠慮する方が無粋というものだろう。


「お、おじゃまします……」


 部屋の中を見回す。豪華絢爛に彩られているわけでもなく、巧みな細工が施されているわけでもない。時代劇のセットのようで、田舎の建物のようでもある。これだけ人の来ない山奥にあるのだから、優美な姿を期待する方が悪いのだろうが、想像より地味だった。


 誠一の落胆に気づいていないのか、香夜が座布団を敷き座るよう促した。


「それで、ここはいったいどこなんですか? 俺はさっきまで、社の前にいたと思ったんですが……」


「正確には、お主はまだ社の前におるぞ。ここには、お主の魂だけ招いたにすぎぬからな。身体の方は、今頃のんきに寝ておることじゃろう」


 つまり、死んだわけではなさそうだ。一人納得する。


「そして、お主のおるこの場所は、現世と神の世界の狭間のようなところで、さしずめ今のお主は夢の中におるようなものじゃ」


 まぁ、難しいことは妾もよくわからぬが。と香夜がつぶやく。


 誠一は「はぁ」と息を漏らした。流石は神。何でもありだ。


 誠一が感心していると、香夜がずいっと前のめりになった。


「礼と言っても、大したもてなしはできぬがな。時に誠一。お主嫌いな食べ物はあるか?」


「いえ、とくには」


「それなら良かった」


 喜色満面の笑みを浮かべ、いそいそと奥へ行った。


 しばらくして、香夜が膳を持って現れた。


 膳の上には、山菜の混ぜご飯や山菜の味噌汁、鮎の塩焼きが並んでいた。山の幸で作られたごちそうを前に、ふと自分の腹が減っていたことを思い出した。


「心ばかりの礼じゃ。遠慮なく食べるが良いぞ」


「でも……」


 ちらりと香夜の顔を伺う。口の端からよだれが垂れ、物欲しそうに料理に視線が吸い寄せられているのを、誠一は見逃さなかった。


「遠慮することはない。妾はお礼をするために、お主をここまで招いたのじゃ。それを受け取って貰えぬとは、それこそ妾の顔が立たぬではないか」


 口の端から垂れたよだれを着物の裾で拭う。溢れるつばを飲み込んだのか、香夜の喉が動いた。


「や、やっぱり頂けませんよ。その……」


 そんなに食べたそうにしているのに。という言葉をぐっと飲み込む。


「なにを遠慮しておるか。妾が丹精込めて作ったごちそうじゃ。ほれ、たんと食べるがよい……」


 その時、香夜のお腹から、かわいらしい鳴き声が聞こえてきた。


「…………い、今のは違うぞ。この辺りの虫の鳴き声じゃ。ちょうど外で虫が湧いてる時間じゃからな、うん」


 顔を赤らめ、苦しい言い訳を言う香夜。


 出会ったときの神秘性は鳴りを潜め、なんとまぬけなことか。いや、あるいはこちらが本性なのか。


「それじゃあ、一緒に食べませんか? こういうのは、誰かと食べた方が美味しいといいますし」


 香夜の言い訳をスルーしつつ、妥協案を提案する。


「…………うむ、一理あるな」


 そそくさと奥へ引っ込むと、香夜が自分の分の膳を運んできた。おかわりをされることを想定していたのか、余分に作っておいていていたらしい。


 手を合わせ、「いただきます」と呟き、混ぜご飯の盛られた茶碗を手に取る。山菜の香りが食欲を誘う。溢れそうになるよだれを飲み込み口元へ運んだ。


 山菜の旨味が染み込んだ白米。食感の違うたけのこがいいアクセントになっている。


「すごく美味しいです」


「口に合ったようで、なによりじゃ」


 嬉しそうに顔を綻ばせ、香夜もご飯を口へ運んだ。その背後では、忙しなく尻尾が揺れている。


 山の幸に夢中になっているうちに、招かれていることも忘れて、すっかり完食してしまった。


「ごちそうさまでした」


「お粗末様じゃ」


 食べ終えた膳を持って奥へ引っ込もうとして、


「時に誠一よ。お主、酒は飲めるか?」


「はい、結構イケる口ですよ」


「それは重畳」


 満足そうに頷くと、しばらくして奥から一升瓶を持ってきた。


「少し前に人間から貢物として差し出されたものでな。これが殊の外美味なのじゃ。……まぁ、せっかくの酒に肴がないというのはいささか物足りぬとは思うが」


「あ、それなら……」


 誠一が自分のリュックサックを漁ると、それを差し出した。


 パッケージにはじゃがいもの擬人化されたキャラクターが印刷されており、「オイシイヨ」などと呑気にのたまっていた。


 しばらく、そのじゃがいものキャラクターと目が合うと、柔らかそうな尻尾がゆらりと揺れた。


「……なんじゃ、これは?」


「後で食べようと思って、お菓子を持ってきたんですよ。良かったらどうぞ」


「ふむ……」


 おずおずと一枚摘み、口へ運ぶ。パリッという音と共に割れると、小さな欠片が巫女装束に落ちた。


「うまいっ!」


 目を輝かせ、紅色の舌が唇を舐めた。


「程よい塩味と油が口の中で溶け出して、パリパリとした小気味の良い歯ごたえもクセになる。口へ運ぶ手が止まらぬではないかっ!」


 贅沢に二枚三枚と一度に手に取ると、小さな口に運ぶ。小さな頬を膨らませて、恍惚とした表情で頬張った。


 小動物を眺めているような気分になり、思わず笑みが溢れた。


「誠一よ、これは何という菓子じゃ?」


「ポテトチップスです」


 ぽてとちっぷすか……。と香夜が口の中で反芻した。


「こんなにうまいものは、生まれて初めてじゃ……」


 あっという間に一袋平らげると、指についた油をペロペロと舐めた。


「まったく、人間の作る物は侮れぬな……」


 唾液でべたべたになった指を裾で拭う。


「昔からそうなのじゃ。米をドロドロにしたかと思えば、香ばしい酒を作ったり、大豆を腐らせたかと思えば味噌を作る」


 袋に口をつけると、最後のカスひと粒に至るまで腹に収めんと、袋を逆さまにする。


「ぽてとちっぷすもそうじゃ。イモを薄く切って油で揚げて、塩で味を付けただけじゃというのに、なんとうまいことか……。人間という生き物は、まことに器用なものよ……」


 大真面目に驚く姿がおかしくて、ついつい笑みが溢れた。


 荷物に手を伸ばし、更にポテトチップスを並べた。一つ出すごとに、香夜が声を上げた。


「そんなに気に入ったのなら、全部あげましょうか?」


「ほっ、本当か!? このお菓子を全部妾にくれるのか!?」


 香夜の目が輝いた。広げられたお菓子に手を伸ばそうとして、何を思ったのか固まった。慌てて手を引っ込める。


「い、いやいや。これは受け取れぬ。これほどうまい菓子じゃ。きっと値の張るものに違いあるまい。そんなものをおいそれとは受け取れぬ」


 妙なところでしっかりしてると思いつつ首を振る。


「いえ、コンビニで買えるような安物ですから、大丈夫です」


 では……。と、一瞬手を伸ばしかけたところで、また引っ込めた。


「や、やっぱり受け取れぬ。第一、妾はお主に礼をするべくここまで招いたのじゃ。これではあべこべではないか」


 そういう香夜の視線は、ポテトチップスから離れようとしなった。


 香夜の気持ちがポテトチップスに吸い寄せられているのがわかる。あとひと押しといったところか。


「では、こうしましょう。これは貢物ということで」


「貢物?」


「あんまり手持ちもないので、お賽銭の代わりに物で収めるということでどうでしょうか」


 誠一の提案に、ポンと香夜が手を打った。なるほど、その手があったか。


 佇まいを正すと、改めて誠一と向き合う。


「志摩誠一と申したな。そなたの厚き信仰、妾は終生忘れぬぞ。何か困ったことがあれば、遠慮なく妾を頼るがよい」


 誇らしげに薄い胸を反らせ、並べられたポテトチップスを自分の元へ寄せた。


「大したご利益は出せぬが、これでも昔は豊穣の神などと呼ばれておった。見返りというわけではないが、誠一の畑に豊かな実りをもたらしてみせるぞ」


「すみません。畑は持っていないので」


 無情な宣告に、香夜が固まった。


「ほ、他にもあるぞ。子孫繁栄も司っておる。おなごとまぐわえば、たちまち元気な赤子を産ませてみせようぞ」


「つい最近、彼女と別れたばかりなんです」


「そう、であったか……」


 地雷を踏み抜いてしまい、気まずそうに目を逸らせた。


「で、では、他に何か望むものはあるか? 妾にできることなら、遠慮なく何でも申すがよいぞ」


「チートやハーレムでなくていいので、来世はもっとマシな人生にしてください」


「ちーと? はーれむ? はわからぬが、自暴自棄になるでない。生きていれば、きっと何かいいことがあるぞ?」


 思ったよりも本気で心配されたので、思わず「冗談ですよ」と呟いた。


 それから酒をあおり、時間を忘れて香夜と飲み交わした。


 気がつくと、辺りは暗くなっていた。


「すっかり長居をさせてしまったな」


「ありがとうございました」


「よいよい。こんなに楽しかったのは、久方ぶりじゃ」


「俺も久しぶりに楽しかったです」


「外も暗くなっておることだし、お主さえ良ければここに泊まっていくか?」


「いえ、さすがにそれは悪いですよ」


 一瞬寂しそうに顔を伏せると、すぐに明るい顔になった。


「そうじゃ、これを渡しておこう」


 懐から何かを取り出すと、誠一の手に無理矢理握らせた。これは、鈴、だろうか。


「社の前に立ってこの鈴を鳴らせば、いつでもここへ招いてやろう。何かあれば、また遠慮なく来るが良いぞ。妾は暇しておるゆえ、いつでも相手になろう」


「はい、機会があればまた」


 一抹の名残惜しさを覚えるも、鈴をポケットにしまった。


 …………おそらく、ここに来ることは、もう二度とないだろうと思いながら。


「それでは下界に送るとしようかの」


 酒が残っているのか、ほんのりと赤みがかった顔で誠一の胸に触れると、呆けた顔で固まった。


「────は?」


 何かを確かめるように胸をまさぐると、みるみるうちに青ざめていく。


「お主の身体、脈が動いておらぬ…………。死んでおるではないか!」


 目に見えて動揺する香夜とは対象的に、誠一は落ち着いていた。自分の胸に手をあてると、たしかに鼓動は感じられない。


「…………そうですか。俺、もう死んでたんですね」


「な、何をのんきなことを言っておるんじゃ! 死んでおるのだぞ!? 生まれたところへ帰れないのだぞ!? 家族や友人にも、会えなくなるのだぞ……?」


 香夜の瞳にうっすらと涙が浮かんだ。


「実は俺、死にに来たんです」


「……………………えっ?」


 青ざめていた香夜の顔が、真っ白になった。






 それまで、志摩誠一という男の人生は順調そのものだった。一流企業に就職し、最愛の彼女と結婚の約束をして、人生の絶頂にあった。──将来を誓いあった恋人が結婚詐欺師と判明するまでは。


 ある日、彼女とまったく連絡が取れなくなるった。始めは何か気にさわることをしてしまったのか、怒らせるようなことをしてしまったのかとも思ったが、いつまで経っても連絡が取れない。


 事件に巻き込まれた可能性もあると思い、警察に相談しようと思ったある時、一通の手紙が届いた。それは、借金の催促状だった。


 気がついた時には貯めていた結婚資金はそっくりなくなっており、残されたのは自分名義の借金だけとなっていた。


 それからというもの、昼夜を問わず借金取りが押し寄せるようになり、会社にも電話が来るようになった。


 会社の人間から表面上は同情されるも、陰では腫れ物のように扱われていることを知り、次第に距離を取るようになった。


 仕方のないことだと思った。事情はどうあれ、身内が借金をして会社に迷惑をかけているのだから、関係のない人間にとってはいい迷惑でしかないわけで。それはもう会社の恥でしかない。……ただ、それでも釈然としない思いはあった。


 そうしてついに、上司から自主退職を迫られるようになった。


 考える時間が欲しいと休みを取ったが、希望的展望が見えるはずもなく、時間だけが過ぎていく。残された事実だけが重くのしかかった。


 目の前の現実から逃げ出したい。そんな最後の願望から自死を選ぶのに、時間はかからなかった。


「最後はどこか見晴らしのいい、落ち着いたところで死のうって思ってたんですけどね。でも、こういうのも悪くないですね」


 自分のことのはずなのに、どこか他人事のように語る。


「きっと、神様が俺の願いを叶えてくれたんですよ。苦しまずに死ねるようにって」


 誠一の胸ぐらを掴み、誠一の胸にぐりぐりと頭を押しつけた。


「妾はそんな願い叶えてやらぬし、そんなものは認めない」


 肩を震わせ、絞り出すように声を出す。その表情は伺えないが、ほんのりと胸に湿り気が広がっている気がした。


 死んだ本人よりも真剣で、真摯で、その温度差に、思わずたじろいでしまう。


「な、なんで香夜さんが動揺してるんですか。俺は全然、なんともないのに……」


「なんともないはずあるかっ! そんなに辛いことがあったというのに……!」


 まるで自分のことのように、黄金色の瞳に涙を溜めて、


「辛かったろう。悲しかったろう。自ら命を断とうとするほど、苦しかったのじゃろう」


 一瞬、息が止まった。

 息苦しい。鼓動はないはずなのに、呼吸が乱れていた。


「そりゃあ……悔しいですよ。でも、どうしようもないじゃないですか。お金が戻るわけじゃないし、会社に居場所が戻るわけじゃないんですから」


「たとえそうであったとしても……妾はそなたを死なせたくはない」


 香夜が誠一の胸に身体を預けた。微かな重さが、止まった胸にのしかかる。


「大昔、妾が祀られて間もない頃は、毎日のように人が来た。社も綺麗にしてくれたし、貢物も持ってきた。妾も出来るかぎりそれに応えた。畑に豊かな実りをもたらし、子孫繁栄を願って元気な赤子をもたらした。

 それがいつの頃か人も来なくなり、社も朽ちていった。妾は何も変わってはいなかった。……ただ、移りゆく人の世に取り残されたのじゃろう」


 香夜が静かに目を伏せた。


 目の前の少女がひどく儚げで。それこそ、まばたきをした瞬間、雪のように溶けてしまいそうで。


 気がつくと、香夜の背中に腕を回していた。


「それから何十年もひとりぼっちじゃった。人々に忘れられ去られてたまま、ひっそりと朽ちていくのだと思った。……そんな時じゃ。お主がやってきたのは」


 回された腕に応えるように、胸にかかる重さが増した。


「お主が来て、妾はひとりぼっちではなくなった。妾の役目を思い出させてくれた。共に食す飯の味を、酌み交わす酒の味を思い出させてくれた」


 見上げた黄金色の瞳がまっすぐに誠一を射抜く。


「お主が妾を救ってくれたのじゃ。今度は妾がお主を救う番じゃ」


 黄金色の中に映った男は、酷い顔をしていた。ぐしゃぐしゃに歪めて。今にも泣きだしてしまいそうで。


 今になって、ようやく気づいた。あの時見かけた社を、なぜ放っておけなかったのか。


 自分と同じように救いを求めるそれを、放ってはおけなかったからだ。


 本当は死にたくなかった。誰かにずっと助けを求めていたのだ。


 そんな心の叫びが、香夜を通して跳ね返ってくるまで気づかなかったとは。自分の愚かさに腹が立つ。


 一度それを認めてしまうと、弱音ばかりが溢れてしまう。


「…………もう何もかも遅いんですよ! 俺、死んじゃってるんですから……」


「そんなことさせぬ! たとえお主が死にたくなっていたとしても、みすみす死なせたりするものか!」


 瞳いっぱいに涙を溜めて、黄金色の瞳がまっすぐに誠一を射抜いた。どこまでもまっすぐで、どこか危なっかしくて。


「お主のこと、絶対に死なせぬからな!」


 香夜が両手で誠一の頬を掴む。触れた手の温度が、肌に染み込んだ気がした。


「絶対に絶対に死なせぬからな!!!!」


 そんな小さな身体のどこから大きな声を出したのだろう。


「今からお主に生命力を注ぎ込む。……動くでないぞ」


 黄金色の瞳が、じっと誠一を見つめた。誠一の頬を引き寄せ、香夜が背伸びをした。

 艷やかな桜色の唇が触れ、口の中に何かが入っていく。


 全身に、温かなものが満ちていき、


 誠一の意識が遠くなった。






 目を開けると、白く無機質な天井があった。辺りを見回すと、枕元に見知らぬ機械と点滴が置いてあった。


 どうやらここは病室らしい。その場から起き上がろうとすると、全身に鈍い痛みが走った。よく見ると身体のあちこちに包帯が巻かれている。


 状況がわからない。自分は先程まで香夜と名乗る神の元に居て、現実に戻ってきたのではなかったか。山の中に居たはずだったが。


 漠然とした自問自答。答えのない思考を巡っていると、病室の扉が開いた。


 やってきたナースが誠一の顔を見るや、すぐに部屋を出て、どこかへ行ってしまった。


 それからしばらくして、医者がやってきた。


 医者の説明によれば、どうやら足を滑らせて斜面を滑落してしまったらしい。後遺症もなくこの程度で済んだのだから、幸運だったと言える。


 数日で退院できるとのことだったので、それまで病院で過ごすことになりそうだ。


 医者が去ると、おもむろに唇に指が伸びた。


 あれは、すべて夢だったのだろうか。謎の神社に招かれたのも。食事を振る舞われたのも。酒を飲んだのも。……唇に触れた、柔らかな感触も。


 夢とは思えないほどリアルで、柔らかくて、いいニオイがして。


 余計なところまで思い出しそうになり、慌てて頭を振る。


 そういえば、荷物があったはずだ。ベッド脇に手を伸ばし、回収された荷物を漁る。


 あの神社であったことは──香夜とのことは、すべて夢だったのだろうか。夢のようで、でも夢とは思いたくなくて。何でもいい。彼女がいた、確かな証が欲しかった。


 だからそれを見つけると、思わず苦笑が漏れた。


「ははっ、ゴミくらい自分で捨てろよ……」


 鞄の中には、空になったお菓子のゴミと、古めかしい鈴が入っていた。






 数日後。誠一が退院すると、元彼女が逮捕されたとの報せが舞い込んだ。お金の大半は使い込んだらしいが、弁護士曰く、「負債分を押しつけた上で慰謝料を請求する」とのことだ。


 示談にすることもできたそうだが、誠一は戦うことを選択した。自分の受けた苦しみの、少しでも報いを受けさせたかったからだ。


 勤めていた会社は、上司の勧告通り退職することにした。友人が興した会社に誘われたので、そちらで雇ってもらうことにしたのだ。規模は大きくないが業績は好調で、今はとにかく人手が足りないらしい。


 いずれも、自死を選んでいたら、掴めていなかった未来だ。


 一段落すると、再びあの山を訪れていた。あの時、自分を助けてくれたのは紛れもなく彼女で、まだお礼さえ言えていない。手土産に山ほどポテトチップスを持ってきた。


 社の前まで来ると、辺りを軽く掃除して、香夜からもらった鈴を鳴らした。


 どこからか、キツネの鳴き声が聞こえてきたような気がした。

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炉狐奇譚 田島はる @ABLE83517V

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