あいつシリーズ ダンス・破局前・Let It Be

泊瀬光延(はつせ こうえん)

破局前

 俺とあいつが決定的な破局を迎える前のことだ。


 俺はある春の陽気の日、午前中の授業を終えると三浦の下宿に急いだ。

 あいつがサッカー部の合宿から帰る日だ。散らかった部屋を片付けてあいつを迎えてやるつもりだった。

 がたがた言う鉄製の階段を上がって俺の部屋の前に着くと、扉の前でふと聞き耳を立てた。

 俺の部屋からビートルズの「レットイットビー」が聞こえる。高く透き通ったようなポール・マッカートニーの声。

 あいつだ。

 もう帰って俺の部屋に上がり込んでCDを聞いているのだろう。俺はそっとドアを開けた。


 傷ついた人たちが

 みんな言うだろう

 答えがあるとしたら

 そっとしておくことだって


 入り口と繋がっているキッチンの流しを見るとすでに汚れ物はきれいになっている。

 居間の窓も開け放たれ、なんとも言えない気持ちのよい風が部屋に入ってくる。従順な平和が部屋に棲みついて俺が崇める天使の降臨を祝福しているようだ。

 音楽はアルバイト先で貰ってきた、昔は高価だったステレオ装置が置いてある寝室からだ。

 戸が半分開いてあいつの手と足がちらちらと見える。音楽に合わせて踊っているようだ。


 邪魔をしないようにと思い、忍び足で寝室の戸の前に行った。

 驚いた。


 今までポールの声と思っていたのが、あいつの声だったのだ!

 ポールの歌声に、ぴったりと合わせて一つの声に昇華したように聞こえる。

 ポールの声の抑揚や発声の癖を完璧に模倣している!


 英語の勉強を本格的に始めて、教師から英語の歌を覚えろと言われたと言っていたのを思い出した。アイルランド移民の清澄な英語の発音までも完全に体得しているようだ。あいつのスポーツだけではない天性に驚いたが、それが将来、俺に何をもたらすだろうかなど考えもしなかった。


 多分離れ離れになるんだろう

 でもまたいつか一緒になれる

 答えを見つけようとするなら

 そのままにしておくことだ


 腕を緩くギターを抱えるようにして右手を弦を奏でるように揺らす。


 白い大き目のTシャツをすそを出してぴったりとしたジーパンの悩ましい尻を揺らすたびに女のそれのように見える。歌に気を取られているのですぐ後ろの俺に気づかない。


 一心に目を閉じて歌う。肩まで伸びた黒髪が揺れ、前髪が頬にかかる。抱きしめたいという心を抑えて俺はあいつを見続ける。

 この世にはないものをいとおしむ様に。


 ジョージ・ハリソンの間奏が始まった。


 近づく俺にあいつは初めて気づき驚きの表情をする。

 可愛い口を開いて目が大きく見開かれる。俺はあいつの腰に右手を当て左手であいつの右手を取った。

 あいつの体を引き込み腰と腰をぴったり付ける。俺の股間は腫れ上がっている。それに気づかないのか涼やかに、俺の顔半分ほどの背丈のあいつは頭の後ろを俺の頬に付けて体を俺に委ねた。


 俺たちは泣くようなギターの旋律に合わせて踊る。このとき彼らは解散を覚悟していたのだろうか。

 悲しい怒りを畳み掛けるようにジョージは弾く。強く弦を爪弾くメロディは何かを訴えるようだ。


 永遠に続いて欲しかった。だが、無情にギターソロは終わり、あいつが俺に顔を隠したまま最終節を歌いだす。

 

 夜空に雲がかかるとき

 聖母マリアは僕のところに来る

 知恵の言葉を語りながら

 このままにしておきなさい

 何もしなくともいいのです

 誰の思い通りにもならないのだから



 ピアノとギターが荘重な大団円を迎えるとき俺とあいつはお互いの口を深く吸っていた。




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あいつシリーズ ダンス・破局前・Let It Be 泊瀬光延(はつせ こうえん) @hatsusekouen

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