第6話

 


 松枝の容態ようだい日毎ひごとに悪化していた。髪を乱し、着崩れしただらりの帯で、家の中を徘徊はいかいしていた。その日も、裸足で庭に入ると、菊に鼻先を近付け、匂いを嗅いでいた。


「桃色の花はめんこいーな。うーん、ええ匂いやわ」


 そう言って薄桃色の小菊を手折たおると、髪にした。


「お義母はん、どや? 似合うてます?」


 障子を開けた部屋で裁縫をしているキヨに話し掛けた。


「……へぇ。よう似合うてます」


 キヨはそう答えながら、踊り子のように舞っている松枝を哀れに思った。


(そろそろ、入院させたほうがええ。……その前に、菅井のこと訊いてみよう。こないな状態では、まともな回答は得られへんやろうが)


「……松枝はん。菅井先生を知ってはるか?」


「……すがい? ……ああ、お医者はんな。うちが芸子のころ、よう遊びに来てくれはったわ」


(! ……繋がった。松枝と菅井が繋がった)


「善蔵のことは?」


「ぜんぞう? ……」


「亡くなった、あんたの夫や」


「! うちやないっ! 殺したんはうちやないっ!」


 松江は取り乱すと、汚れた足で廊下を走って行った。その度に揺れるだらりの帯を見ながら、キヨはこう推測した。松枝にぞっこんだった菅井は、松枝の言いなりになり、善蔵に毒を盛った。医者なら、薬を使って生かすも殺すも自由にできる。……何のために。――遺産を手に入れるためだ。だが、それは推測に過ぎない。ましてや、善蔵がこの世を去ってから長い年月を経た今、それを証明することはできない。キヨはため息と共に肩を落とすと、項垂うなだれた。



 その夜、愛の巣に予期せぬ来客があった。それは、土産みやげを提げた浩一郎だった。


「……お父さん」


 聡が驚いた顔をした。


「入らしてもらうで」


 浩一郎は勝手に入った。


「……社長はん、おいでやす」


 千代が三つ指をついた。


「千代菊、元気どしたか? 上がらしてもらうで」


 革靴を脱いだ。


「へぇ、どうぞ。散らかしてますけど。今、お茶をれますよって」


「茶はいらん。酒にしてくれ。人肌のかんや。寒うなったさかいな。ガッハッハ」


 浩一郎は豪快に笑った。


「へぇ。つまみも作るさかい、座っておくれやす」


 押入れから座布団を出した。


「寿司もうてきたで」


 ちゃぶ台に置いた。


「おおきに」


 千代は礼を言いながら、割烹着をまとった。


 聡は諦めたようにため息をくと、浩一郎の前に腰を下ろした。秘密にしていた愛の巣を教えたのが誰なのかは、言わずと知れた。浩一郎を見ると、悠然ゆうぜんと煙草をんでいた。


「なんの用だよ、突然に」


 聡は無愛想に言った。


「親が子供のとこに来たらあかんのんか?」


「親子の縁を切ったんじゃなかったのか?」


「わてはなんも言うてへん。あんたが勝手にほざいた台詞せりふやあらへんか」


「……それで、なんの用だよ」


 聡は苛立っていた。


「そないに慌てな。酒呑みながら話すさかい」


「……」


 聡は横を向いた。


「社長はん、おまちどおさまどす」


 千代が徳利と猪口を運んできた。


「おお、白い割烹着がよう似合うてますなぁ」


 浩一郎がめた。


「えっ、ほんまどすか? おおきに。うれしいわ」


 千代も調子に乗っていた。聡は一人、愉快ではなかった。


「ほな、どうぞ」


 千代が酌をした。


「おう、こらあ、うれしいな。聡、あんたも呑みなはれ。いつまでもそないな仏頂面ぶっちょうづらしてへんで」


 これ以上の口論を避けたかった聡は、仕方なく猪口を手にした。


「千代菊も呑みなはれ」


 浩一郎が勧めた。


「社長はん。うち、まだ未成年どす」


「……そやったな。すまんすまん。ガッハッハ」


 浩一郎は高笑いしながら、責めるような目を聡に向けた。「お前が嫁にしたいという女はまだ未成年なんだぞ」そんなふうに言われているようだった。「じゃ、そう言うあんたはどうなんだ? 芸子は妾にしろとうそぶいたじゃないか。あんたに俺を責める権利はない」と、聡は腹の中で反論した。


 千代が作った夕飯の余ったおかずをつまみにしながら、味音痴あじおんちの浩一郎は旨そうに酒を呑んでいた。――その時だった。突然、浩一郎が話を変えた。


「千代菊はん。あんた、かの有名な〈戸田酒造〉のお嬢はんやったんどすなぁ?」


「えっ? ……ええ」


 千代は小さく返事をして、俯いた。


「聡、なんで最初に話してくれへんかったんや。それを知っとったら結婚を承諾してましたがな」


 聡を見ながら、白菜の漬物を口に入れた。


「また、あんたの言う、毛並みか? 家柄で結婚する訳じゃないだろ。それに、あんたに話した時は、千代菊のことはまだ何も知らなかった」


「戸田千代はんや」


 浩一郎が即答した。……千代菊の本名を浩一郎の口から聞かされるとは思わなかった聡は、自分が知らない千代のことを知っている浩一郎に腹が立った。傍らの千代が、申し訳ないと言うような目で聡を見るとすぐに視線を落とした。


「で、式はいつにする?」


 浩一郎のその言葉に驚いた聡と千代は、同時に目を合わせた。――その夜、菅井が自殺をした。遺書はなかった。



 翌日、キヨに結婚の報告をするために、千代は聡を伴って実家に赴いた。


「お祖母ばあちゃん!」


 千代の声に、キヨが急いで廊下を来た。


「千代、よう来てくれた。元気にしとったか?早う入りなはれ」


 千代の腕を握った。


「……聡はんも来てはる」


 口ごもった。


「……しゃあない。呼びなはれ」


 キヨは、松枝の男だった聡に好意を持っていなかった。


「聡はん」


 千代の声に、聡が玄関から顔を出すと、深々と頭を下げた。


「挨拶はあとや。さあ、二人とも中に入りやす」


 キヨはせわしく手招きした。そして、居間に行くと、松枝の様子を話して聞かせた。



 三人が松枝の部屋まで行くと、何やら童謡が聞こえてきた。


「松枝はん、開けますえ」


 障子を開けたそこには、髪を乱した松枝があやとりをしていた。


「松枝はん」


 キヨの声に振り向いた松枝を見て、三人は一斉に後ずさりした。真っ白い顔に真っ赤な口紅を塗っていたのだ。それは、千代が精神病院で演じた白痴はくち彷彿ほうふつとさせた。だが、松枝は演じている訳ではなかった。


「あっ、聡はんや。逢いに来てくれはったん? うれしいわ」


 抱きつこうとした松枝を聡は避けた。すると、松枝はよろよろと廊下に倒れた。


「……そないにいじめんといて。殺したんはうちちゃう。……あらっ、千代がおる。なんで千代がここにおるん? 千代はおつむがおかしなって病院におんねん。……そうや、あやとりしまひょ。なあ、あやとりしまひょ」


 松枝はおもむろに立ち上がると、指に赤い毛糸をからめて、千代に歩み寄ってきた。千代は聡の後ろに隠れた。


「アハハハハ……」


 松枝は笑い声を上げると部屋に入り、背を向けて横座りをした。そして、何やら童謡を口ずさむと、一人であやとりを始めた。


 三人は目を合わせると、言葉にできないそれぞれのとがを内に秘めながら、松枝の背中に憐憫れんびん眼差まなざしを向けた。――間もなくして、松枝は精神病院に入院した。






 金太郎のよだれかけをした赤子を抱いた千代が、聡を伴ってキヨに会いに来たのは、庭の山百合やまゆりが芳香を放つ頃だった。――





 完

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喪服を着た芸妓 紫 李鳥 @shiritori

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