第2話

 


 結局、松枝を追い出すことができなかった。そして、それからも、松枝の外出が止むことはなかった。


 そんなある日。松枝に抱かれた千代がけたたましい泣き声を上げた。


「やかましい! なんなのこの子。おつむがおかしいんちゃうん」


 途端、放り投げるがごとく、千代を布団に置いた。


 買い物から帰ったキヨは、残酷までの松枝のその様子をのぞいて、愕然がくぜんとした。


 ……千代が殺されかねない。



 そのことがあってから、キヨは臥薪嘗胆がしんしょうたんの策を練った。そして、松枝を呼ぶと、キヨは作り話を聞かせた。


「千代はおつむに異常があるらしいので、専門の病院に預けることにしたさかい」


 キヨのその話に、松枝は残念そうに伏し目がちになると、憂える表情を演出していた。そして、キヨに背を向けた途端、我慢していた含み笑いをすると、噴き出しそうになるのを懸命に抑えて部屋に戻った。



 ――十八年の月日が流れた。田所聡たどころさとしは、友人に誘われて行った華道の発表会で松枝と出会い、恋仲になって七年を経ていた。


 松枝より五つ六つ若い聡は、主導権を握る松枝に手綱たづなを握られている格好だった。料亭の離れで逢瀬おうせを重ねながらも、“大人同士の関係”を前提に、不即不離ふそくふりを貫いていた。


 そんなおり、父親の浩一郎こういちろうに誘われて、久し振りに祇園の料亭に呑みに行った。


 料亭〈月路つきじ〉は、浩一郎の馴染なじみの店で、女将おかみ秋乃あきのとは長い付き合いだった。


「社長はん、ご無沙汰どした。本日はおいでくださって、ほんまにおおきに」


 紺地に白と黄の糸菊模様の付け下げを着付けた秋乃は、丁重ていちょうに礼を述べた。


「久し振りやったな。野暮用やぼよう重なってな、会いとうても会いに来られへんかった。堪忍かんにんしてや」


 恰幅かっぷくのいい浩一郎が小さくなった。


「へぇ、許したる。聡はんも、ようおいでくださった。本日は新人の芸子はんが居るさかい、すぐ連れてきますよって」


 秋乃は、聡が来るのを予知していたかのように、そう言って出ていった。



 間もなく、雪見障子が開いた。そこには、雛菊ひなぎくのように清楚で、初々ういういしい芸妓の姿があった。聡はハッとして、目を見開いた。


千代菊ちよぎく言います。どうぞよろしゅうお願い申します」


 千代菊は三つ指をついて深く頭を下げた。


「おう、こら可愛い。さあさあ、こっちに来なはれ」


 上機嫌の浩一郎が手招きした。


 千代菊は、長いすそをぎこちなく引きずると、聡の横にちょこんと座った。


「よろしゅうお願い申します」


 大きな黒い瞳を聡に向けると、銚子ちょうしを持った。


「ああ。よろしく」


 猪口ちょこを手にした聡が千代菊と目を合わせた。



 ――千代菊に出会ってから、聡は頻繁に〈月路〉に通うようになった。


「千代菊はいくつになる」


「十八どす」


「……十八か。一回り以上も違うな」


 聡が憂えを帯びた表情をした。


「やけど、聡はんはまだ二十代にしか見えまへん」


「ハハハ……。千代菊はおだてるのが上手じょうずだな」


 聡は満更でもなかった。


「おだててなんかいてはらへん。ほんまに二十代にしか見えへんもの」


 千代菊はムキになって、上目で見た。


 聡は面食らった。千代菊のその目は、若さ特有の一途いちずさのようなものを思い起こさせた。


「……分かったよ。ありがとう」


 聡は照れ臭そうに鼻で笑うと、子供をなだめるかのような目を向けた。すると、千代菊が白い歯をこぼした。


「……ところで、千代菊はどうして芸子なんかに?」


 酌を受けながら訊いてみた。すると、突然、注いでいた千代菊の手が止まった。


「……両親早うに亡くなって、遠い親戚に育てられました。……やけど、あんたにかかったお金は、働いて返してもらうさかいって。……あの家から一日も早う出ていくには芸子になるしかなかった……」


 千代菊はつらそうな顔でうつむいた。


「……苦労したんだな」


 聡は、我が事のように憂える表情をした。


「……聡はんは京なまりがあらへんどすなぁ」


 ふと気付いて、千代菊が訊いた。


「ああ、大学は東京だ。少し働いていたし。そのせいだろ」


「ほな、うちにも東京弁、教えとぉくれやす」


「ああ。けど、僕の東京弁が正しいかどうかは保証できないよ。それでも良ければ」


「うん。それでええ」


 千代菊が目を輝かせた。

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