喪服を着た芸妓

紫 李鳥

第1話


 


 松枝まつえ善蔵ぜんぞう後添のちぞえになったのは十九歳の時で、先妻の加代かよ千代ちよを産んですぐに逝去せいきょして間もなくのことだった。産後の肥立ひだちが悪かった加代は、若い身空みそらでこの世を去った。


 善蔵の家は先代の暖簾のれんを継ぐ、老舗しにせの酒店で、主の亀吉かめきちを亡くした今も続いていた。


 亀吉の未亡人、キヨは気丈な女で、亀吉亡き後も如才じょさいなく老舗の気品と風格を守り続けていた。


 松枝は祇園ぎおん芸妓げいぎで、一目で見初みそめた善蔵が水揚みずあげして後妻に迎えた。松枝と入籍し、一緒に暮らすようになって間もなく、善蔵は体調を崩して床に臥せてしまった。


「あないに元気にしとったのに、難儀なんぎなこっとすなぁ」


 近所の者は、口々に松枝を疫病神やくびょうがみ呼ばわりした。


 善蔵が床に臥してからは、松枝は寝室を別にして、善蔵に付き添うこともしなかった。千代の面倒もおこたっていたため、キヨは乳母うばを雇うしかなかった。


 わけありの子を産んで間もなく里子に出したと言う乳母の佐江さえは、まりのように張った乳房を千代に含ませながら、我が子のように接していた。


 五坪ほどの中庭には、可憐かれん秋桜コスモス清楚せいそな小菊が咲き乱れていた。


「あんたに来てもろうてほんまに助かってます。おおきに」


 庭の花を眺めながら千代に乳を与えている佐江に、キヨが礼を言った。


「奥様、とんでもあらしまへん。うちこそこないな可愛い子のお世話させてもろうて、ほんまに感謝してます」


 キヨは、佐江のその言葉に、苦労した人間の配慮を垣間見た思いだった。


 善蔵の病は一向いっこう本復ほんぷくの気配を見せなかった。主治医の菅井すがいは、不治ふじの病とだけ告げるに留めていた。完治の見込みのない善蔵を、キヨは不憫ふびんに思いながらも、ただ見守るしかすべがなかった。


 一方、キヨの人の良いのをいいことに、程度を逸脱いつだつした松枝は、傍若無人ぼうじゃくぶじんに振る舞っていた。日が沈む頃には酒をあおり、時には芸妓時代の友達を招き入れることもあった。


 そんなある夜。松枝の部屋のどんちゃん騒ぎでキヨは目を覚ました。キヨがいくらお人好しでも、限度がある。到頭とうとう堪忍袋かんにんぶくろの緒が切れた。


 渡り廊下を大きな音を立てて歩くと、松枝の部屋の前に来た。


「松枝はん、うちには病人がおりますんえ。もう少し静かにしてくれまへんか」


 障子越しに言った。


「へぇ。お義母かあはん、すんまへん。気ぃ付けますよってに」


 松枝がしおらしい声を出した。ところが、キヨが背を向けた途端とたん、人を莫迦ばかにしたような、松枝と女の下品な笑い声が聞こえた。キヨは足を止めると、大きくため息をき、松枝の部屋に振り返ると、悔しそうな顔でにらみ付けた。



 善蔵は日に日にせ細り、かつての溌剌はつらつさはどこにもなかった。


「……お母はん。千代はどないしてます?」


 目を閉じたままでいた。


「へぇ。元気にしてますで。連れてきまひょか」


「あかん。病気移るかもしれへん。……お母はん。俺、まだ二十五やのに、死ぬのんか?」


「何言うてんねん。あんたが死ぬわけあらへん。阿呆あほなこと言わんとき」


 キヨは精一杯に平常心を保った。そして、自分の部屋に入ると、声を殺して泣いた。


 一方、松枝はキヨにとがめられてからは、外出するようになった。その口実は、華道だった。


「ほな、お義母はん、行ってくるさかい」


 しおらしい口調で三つ指をついた。


「……行っといでやす」


 キヨは裁縫さいほうの手をめず、一瞥いちべつした。


 外に男が居るのは、年の功で感付いていた。しかし、善蔵がれて後妻に迎えた以上、簡単に追い出す訳にもいかなかった。



 ――それは、キヨが寝付いて間もなくだった。善蔵の部屋から呼び鈴が鳴った。キヨは急いで身を起こすと廊下を走った。


 障子を開けたそこには、善蔵の白い顔に黒々とするものが、月明かりにあった。急いで灯りを点けると、それは、口から噴き出した真っ赤な血だった。


「ぜ、ぜ、善蔵!」


 魂消たまげたキヨは、大慌てで菅井に電話をした。松枝は帰宅していなかった。


 善蔵の顔や手に付いた血を、キヨは綺麗に拭いた。


「……お母はん。松枝なんか貰うてすまへんかった」


「もうなんも喋りなさんな」


 キヨは悔しさを噛み締めた。



 菅井が駆け付けた時には、善蔵はすで息絶いきたえていた。キヨは慟哭どうこくという渦の中で身悶みもだえた。滅多に夜泣きをしない千代が、キヨの部屋で声を上げていた。


 善蔵の死を機に、キヨの気持ちは決まった。――松枝が帰ってきたのは明け方だった。抜き足差し足で廊下を歩く松枝に声を掛けた。


「松枝はん、ちょい来てくれまへんか」


 その言葉に、ピクッと肩をすぼめた松枝は、ゆっくりとキヨに振り向き、しくじったようなたわけた表情をした。


 すやすやと寝ている千代を横目に、松枝はキヨの前に正座した。


「お義母はん、遅なってすんまへん。友達にうてもうて」


「そんなことどうでもよろしい。……善蔵が死にました」


「えっ……」


 目を見開いた。


「単刀直入に言わせてもらいます。善蔵亡き今、あんたはもううちとこの嫁やあらしまへん。そやさかい、出ていってもらいますよってに」


 キヨは冷淡れいたんに言い放った。


「待っとぉくれやす。うちは善蔵はんが亡くなっても、この家の嫁どす。善蔵はんの忘れ形見もおいではるのに、出ていくなんてできまへん」


 悪びれもせず、松枝は平然とうそぶいた。


(何と図々しい。この女は一体どないな了見りょうけんなんや? ……金か?)


「出ていってもらうからには、それ相当の金をあげるさかい」


「お金やおへん。ここに居たいんどす。お義母はんや千代のそばに居て、お世話したいんどす」


(何が世話や! いっぺんとして、千代を抱いたこともなければ、善蔵をたこともあらへんやんか)


「あんたはんはまだ若いんやさかい、なんぼでもええ縁がおますがな――」


「お義母はん、お願いどす。千代の面倒もちゃんと見るさかい、どうか、ここに置いとぉくれやす」


 松枝は三つ指をつくと、深々と頭を下げた。

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