負二年目 人間の時間

 しとしと降り注ぐ雪は止まない、時折みぞれの様になって僅かに蕩け、しかし結局は雪を一層強く固めて閉ざしてしまう。……私はこの場所から出ることは出来ない、決して外へは、外へは……。


 口元を拭う。天命などがあるのだとすれば、私の其れはなんとも残酷だ。……己の望んだままに生きる事のなんと難しい事か。そしてその始まりにすら立てない私の事は、なんと言えばよいのだろう。


 此の家には神が宿る。大戦も果て時を経たというのに、未だに神を信じている様な輩の巣窟など真っ当である筈もない。

 神など不在おらず風も吹きはしない。人は生きる、人は死ぬ。人たらんとする為に神に縋り、人である為に獣のような生を続ける。人の望んだ命とは、こんなものであったのか……。

 火鉢も付けずに部屋の片隅から外を見るでもなく見る。豊穣を齎した神の加護は最早無い。祭り上げていた私の一族は信心功徳が足りぬのだとあの手この手を試みているが、凍りついた太陽を溶かす方法など知る筈もない。歌女を踊らせ、愉しげな声で此方に眼を向けさせる、等と尤もらしい理屈を付けて、ただ姦淫と暴食に耽り、腐敗してゆくだけの狂宴。二度目も赦して貰えるなどと、一体誰が信じているのだろうか……。

 神は居ない、仏も居ない。ただ人が居て、人は生き、人は死ぬ。それを受け入れられない、命は……。

 袖口で口元を隠しながら水場へと向かう。凍える日であっても喉は渇く。穢れを払うためにも水は必要だろう。

 きし、と困ったように鳴る床を踏み締めながら水場へと進む最中に、弟妹の部屋から物音がしているのに気付いて、つい眼を向けてしまう。僅かに開かれた戸の向こう側からは、小さな水音すら聞こえているのだ。その上、常とは比べ物にならない強い薫り。甘く脳を蕩けさせる香の匂いに混じって、生々しいいきものの匂いが鼻孔を支配する。


「んぅ――にぃさま、にいさまあぁっ、」

「もっと、もっと頂戴、ねぁさま。たくさん、たぁくさん、もっと、もっとふたりで……いっぱい……」

 こうかんしよう、と二人は言う。顕になった互いの身体を貪りながらも、けれども繋がれた二人が繋がる事は決してない。彼等は互いの身体を啄むように摘んでは撫で擦り、汗ばむほどに互いの身体に触れ合っている。

「ああ、ねぇさまの指、気持ちいい……また、また……」

「くるのね……いいのよ、きて、きて、ここじゃない場所へいきましょう、幸せな場所へ、幸せだけの場所へ……」


 水音が響く、濡れた肉の音が、ぴちぴちゅ、ちゃくちゅく、と乾いた空気に響かせる。上気した弟の頬はぽぉっと赤らんで、伝染するように妹も潤んだ瞳で彼を見ている。いつの間にかそれが弟なのか妹なのか分からなくなっていく程に、視界が歪んでいる。自分が立っているのか、落ちているのかさえ分からなくなって身動きが取れない。起立するだけの形になってしまって……。


「ああ、ああああぁああ~、もう、もうダメ、だめだよ、ああ、ぁあああ」

「いいのよ……先にいって待っていて、にぃさま。……にぃさまのこども、わたしがうんであげるから」


――ワタシガ■■■■■■■■


 顔を赤らめている弟は目を瞑っていて、妹とだけ眼があった。彼女は一層淫靡な表情に顔を歪めると、見せつけるように弟の身体に指を……、

 私は飛び退るようにしてその場を離れる。未成熟な弟妹が淫蕩に耽っていたのが恐ろしかったのではない、彼女に見られたのが後ろめたかったのではない。


 悲しみなどでは、ない。


 そんな感情を持つほどに、私の心は作られてはいない。この家に居る誰もが狂っている、産まれて来たものも、産まれて来れなかったものも。その事実が追認されただけで、其れ以上の事はない。

 胸を抑える、私はまだ生きいている……けれども其れが何になるのだろう、何の救いになるだろう。吹けば消える私の命など、何の意味があるというのか。

 喉元に指を伸ばす。とくり、とくりと今にも消え入りそうに拍動を響かせる私というかたち。このかたちすら神が作ったものだと言うのなら、なんと酷薄な事だろうか。壊れゆく人間のかたちを見つめながら、正気を持った狂人のまま生きよというのか。人は、人間はそれほど罪深いというのだろうか……。



「―――――、―――――、―――――――、」


 曇天の暗い縁側で、姉が何かを見ている。池に張った氷は砕かれており、誰かが石でも投げ込んだのだろうか。口ずさんでいる音は子守唄のように穏やかで、氷の世界とは不釣り合いだ。


――昔、一度だけ、姉が抱き締めてくれた事があった。膝に抱かれ、陽光を感じながら木々の囁きを聞いて微睡んだかつての思い出。……姉にも正気の時があった。元々食の細い人で、夏が来る度に体調を崩して枯れ木のように痩せ細っていた彼女が、それでも今まで生かされてきた事が慈愛に依るものでない事を悲しく思う。きっと彼女だけではなく、我等の生かされる理由は等しく残酷で悪辣だ。我々は刑台上の曳かれ者、只々項垂れて眼を瞑り、いつか振り下ろされる斧に刈り取られる時まで生かされるだけだ。……誰も死から逃れる事はできない、その死が醜悪であれば尚更。


 姉が狂ったのは何時からだろうか。彼女の拠り所が死んだ時からか、血まみれの袴姿で井戸の傍らに倒れて後か、いずれにせよ、彼女にも彼女自身であった時間があった。狂った血族の末ではなく、只の姉として私に接してくれたが……。

 そんな思い出があったからだろうか、私が声を掛けてしまったのは。


「……姉さん」

「あだxdふぇrsぁぁsっzってぇ」


 ぎょろりと眼を向く姉、意味の分からない叫び声を上げると、両の手で腹を庇うようにして後退る。ふぅふぅと急な動きで過呼吸になりながら、着物が捲れ上がるのも構わずに身を捩る彼女に何か声を掛けようとして……それでも無駄な事を理解してその場を去る。誰もが狂っている、誰もが狂っている……では、私は狂っていないのか? 誰も教えてはくれない。

「ぐがgrおpnいlwだvgぅ」

 水場に近づこうとする気持ちすら萎えてしまって今は只々、一刻も早く部屋に戻りたい。自分の場所へ、唯一安全な場所へ。鍵もなく、簡単に開いてしまう脆い膜でも、他に私を守る殻はない。脚が重い。動くことすら酷く億劫だ。全身に重石が載せられている。何もかもが内向きになって、指先も呼吸も、脈動すら弱くなっているような気がする。死人のように身体を引き摺って、それでも生きている振りをしているだけなのだろう、私は。……ああ、此の儘では凍えてしまう、少し歩くだけで随分に時間が経ってしまった気もする。早く、早く戻ろう、ここには何もない。


 音も聞こえない引き戸を開く。汚濁を隠す強い香が鼻孔に入り込み、私は倒れ込むように畳に身を投げてしまう。おかしい、私の部屋にはこんなものは無かった筈なのに、こんな人間的な醜悪はなかった筈なのに。どうして母のような幻覚など見えるのか。


「さあ、■■■、私と■■■■、■■■■■■■」


――ああ……、逃げる事など、出来ないのか















――それから後の事は、余り思い出したくない。

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