零章 供物のひとなき

負一年目 祭神と供物


 底冷えのする寒さのが屋敷の内側まで染み込んでいる、外ではもう雪が降りているだろうか。山々が白化粧を纏い、人は火のくべられた家屋に閉じ籠もる。音が死んでいる、人が死んでいる、太陽が降りている、誰も救われない、誰もが膿んでいる。其れに気付かない振りをして、其れこそが正しいものだ等と詐術を用いている。

――救われるものなど、ありはしないというのに。


 年号が昭和に移り変わったのも今は昔、世は変遷すると云えども土は残る。時間に取り残されたかのように起立する古屋敷の一つで、家族が食事を取っている。否、それは食事というよりは狂宴に近いのではないだろうか。誰もが狂しているというのに、其れを隠すもの、顕わにするもの、其れ等の入り乱れる空間は確かに狂の一文字だろう。


 けきゃきゃと笑いながら膳に箸を突っ込んで掻き混ぜる兄。其れ何とか押し留めようと介助役の女が腕を掴む。二度、三度と殴られているからだろうか、彼女の頬は赤くなっている。男はそんな女のことなぞ意に介さず、両腕で自身の身体を抱きしめた儘箸で何かを突き刺し、殆ど原型の無いそれを口に運ぶ。彼から薫る悪臭は恐らく尿か糞のどちらかだろう。しかし其れを覆い隠す様に撒かれているのは脳を犯す甘い香で、食事の匂いと入り混じってむせ返るほどの臭気となっている。


 一つ隣を見る。虚空を見つめながらぶつぶつと呟いている女の姿が見える。時折何事か思い立ったように掌を前へ翳すが、掴み取れるものなど何もなくその儘彼女の下へ引き戻される。その様相は少々乱れており、頬の頬の痩けた顔は病的に白い。尋常の様子ではなく、恐らく心の問題があるのだろう。荒れた髪がざらりと前へ流れている。彼女は常に片手を身体の前に置いて、腹を庇うような仕草を見せている。近頃それが膨れてきているのは間違いないだろう。


 もう一つ隣を見る。仲の良さそうな弟妹が、抱き合いながら互いに食事を口に運んでいる。彼等はうっとりとした顔で互いを見つめながら笑い合っているが、それは此の場では空寒くも見える。二人は抱き合っているのではなく、そもそもが身体ごと癒着している。二人の身体は胸のあたりから腰に掛けて物理的に結合している。背に回った二人の腕は慰め合うように互いを撫で擦りながらも、一切の邪心なく互いの事しか見えていない。


 誰もが己自身であり、誰もが此の通り。それでも此れがこの場所での常であり、其の通りの形。上座に座る父母は能面の様に感情の映らない顔で此方を見ている。喜んでいるのか、怒っているのか……そもそも感情と言うものが分からない顔で只我々を見下ろしている、観察されている。


 兄が箸を振り回す、飛び散った汁気が腹を抱える姉の方へと飛び散るが、彼女は何を気にするでもなく胡乱な眼の儘で何か呟いている。弟妹は互いの唇を指で拭ってやりながらも食事を続けている。父母は張り付いた顔の儘じっと見ている。


 箸を置き、席を立つ。障子戸を開こうとして、「又、彼方に?」と父に問い掛けられる。此方を諌めるでもなく、さりとて喜ぶでもなく、観測物を確認するためだけの言葉。其れに応答するでもなく小さく頷いて扉を閉める。冬の寒さが床を冷やしているのか、頭の裏側まで響く寒気を感じながらもぐるりと屋敷を廻る。先程よりも一層の臭気のする方へ……離れへと足を進める。


 扉を開けると幾つも敷かれた布団の上に、兄弟姉妹が其々横たわっていた。一つ目の女、腹から脚の生えた男、両足の接合した女、顔の中に顔のある人間、人間、人間、人間…………共に食事を取ることも出来ない程に弊害の出た彼等。ああ、うう、と唸り声を上げる彼等の傍らに順番について、その口に粥を運ぶ。介添えの怠慢なのだろうか、傍らに置かれた尿瓶等がその儘になっている。其れ等を部屋の外に出すと、少しずつ時間を掛けて彼等に食事を摂らせる。

 泡のようになった唾液と共に吐き出される飯粒を顔に浴びるが、手拭いで処理しながら苦しそうに咽返るそれの背を擦る。恐らく上手く飲み込めなかったのだろうと、傍らの水差しを取って少し飲ませる。音にならない声を発しながら、彼等は私を見て涙を流す。何を思っているのかなど私には分からない。理解出来る筈もない、私は彼等ではないのだから。

 不意に死臭を感じる。傍らを見ると、一人が眼を剥いて止まっていた。首元に手を差し出して確かめるが、既に脈はない。私はそっと彼の瞼を閉じると、父母へ報告する。両親はさして残念そうな顔をするでもなく、そうか、とだけ呟いた。


■■■


 彼等に許可を得て、山間に穴を掘る。私の矮躯には困難な作業で、凍りついた土は固く、充分に掘り進めた頃には両の手が真っ赤になっていた。

 私は感覚の曖昧になった掌を擦り合わせながら彼の亡骸を引き摺る。許可を得て付けた使用人は亡骸を運ぶなり、眼に入れたくもないと言った風に何処かへ消えてしまった。喉に何かを感じて一つ咳払いをすると、半ば塊と成った血が掌にじんわりと赤く広がっていた。それを着物の端で拭う。


 ずりずりと穴の中へ引き込んで納めた時に彼を包んでいた布がはらりと開く。瞼は閉じているにも関わらず、彼が何かを言いたげに見えたのは何故だろうか。私は最後に時間をかけて彼を抱擁すると、痛くないように少しずつ土を掛けて彼を覆った。


 彼等は一族の墓で眠る事は出来ない、けれども、其の方が良いような気がする。小高い丘で、彼等が眼にすることの出来なかった世界を少しでも眺められる様に、春になれば木漏れ日の差す暖かな場所へ。春を目指して、せめて、今だけは静かに、静かに……死した彼等を縛るものなどないのだから。……もし、もしもまた産まれて来る事が出来るのならば……

「――――――――」

 ふと、物音に気付いて口元に手を遣ると、何やら声を出していたのは己らしい。気付かぬほどに、無意識の音を出している。

「――――――、――――」

 止めようとしても上手くいかないものがあるのだと、他人事の様に思いながらも私は唄い上げる。其れが何なのかすら分からないというのに、自分の発するものだとすら思えないというのに。

 ――きっとそれは原始的なものだ、私だから有るのではなく、人に元々備わっているものだ。誰も彼も当たり前に持っているもので、だからこそこんなにも、こんなにも……


 ふぅ、と、風が啼いた。


 凍える寒さが一息に払われて、まるで春のような穏やかな熱が満ちる。虫の音も鳥の声も、草木の囀りすら遠くに薄く消え静謐が訪ねてくる。振り返ると曖昧な姿の何者かが立っていた。其れは童女の様でもあり、老婆の様でもある。人間の様でもあり、獣の様でもある。或いは月輪、日輪か……何れにせよ輪郭の定まらぬものを人とは呼ぶまい。しかしその貌に宿る諦観のような色のみは隠しようもなく顕わになっている。


 じっと見つめ合った儘幾許か過ぎ、何処ぞで枝に凭れ掛かった雪の崩れ落ちる音を聴いて、たっぷりと時を掛けてそれは口を開いた。


「――坊、儂に何ぞ望みはあるか?」


 私は彼女に答える。


「――何も、ありません」


 彼女を見ないようにして、私は荷を纏めて背を向ける。後方でその定まらぬ何かが息を飲む音が聴こえる。ああ――、そうだ。


「神に望むことなど、何も」

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