二十八年目 乾笑

 さらら、さざざぁと風が鳴く。遠く船場の波間からは潮の香りが届き、後背に座する山並からは負けじと万緑の芳しい生命の香りが漂っている。触れなばぱしゃりと崩れてしまう波の山――それを遠ざけるでもなく、かと言って成すが儘にするでもなく、優しい砂粒は彼等の道行を積上げる。幾度も繰り返されてきた摂理の一幕。海と山の狭間にて隠れる様に、怯える様に……そして畏怖し、崇めながらも身を寄せ合い生きてきた人々の、ほんの小さな世界。


 細かく磨かれた砂粒を踏み固めてきた人々の姿を夢想する。誰も彼もが正しき路を歩んだ、などという事はないだろう。己に無いものを憎悪し、憤怒し、嫉妬し……いざ満たされなば己が驕慢、その末路に更なる憎悪を産み、命を撒き散らした事も一度や二度ではないだろう、――ありふれた話だ、嘗て争いがあったことなど。……けれど、今も。

 今もこの場所に人が住んでいるという事は、誰かが此処を愛した結果なのだろう。人も化生も、何もかも。


 少々舗装の荒い石造りの道をぐぃと押し登り、着きましたるは小高き丘の上。人の子が押す化生の車椅子は見た目に反して軽やかで、化生自身は一層軽い。傍らに立つ蝙蝠の少女も不器用ながら云々と化生と言葉を交わしつつ、ゆらゆらと辺りを動き回っている。……畢竟話の内容など、彼女にとっては何でも構わないのだろう。車椅子の周りを嬉しそうに動き回りながら、あれはこういう謂れのものだ、此方はあの頃に立てられたものだ、などと、知る限りの事を熱心に化生に伝えている。化生は両手を膝掛けの上において、うん、うん、と頷きながらも時に眼で語り、時に二、三言発して少女を喜ばせながら静かに佇んでいる。――本当に、親子のような二人だ。なんて事を言ってしまえば、彼等の愛し子は臍を曲げてしまうかもしれないな、などと益体も無いことを考える。情の深い、聡い子だ、表立って何、という事はないだろうが……、ああ、彼女の悪戯癖が感染ってしまったかもしれないな、などと人の子は思考を巡らせた。


「あの高台ならば、丁度街全体が見渡せるのです」


 くりくりと大きな眼を輝かせながら、是非見て欲しいと訴え掛ける彼女に従って来たが……成程確かに良き景色だ。彼方に見えるは大海の、千波万波と潮騒が。此方にあるは大山の、山精木魅も出づる偉容だ。それら二つを時に切り開き、時に畏れ、そうして懸命に生きる人々の里が姿を表す。――屋敷に縛られていた化生では見ることの叶わなかった風景。それを一瞥するや、化生は愛おしそうに眼を細めて、ほぅ、と口元を綻ばせる。……蝙蝠の少女に従って正解だったな、と人の子はまた心の中で呟いた。


「――――」 


 化生は想う。自然と恐れ、時に憎み――されど共に在らんとして営々生きて、生き抜いてきた人々のかたちを思い起こす。星辰を読み、地脈を識り、森羅万象の流れに身を任せ……それでも定めある時に抗い生きてきた人々。

 あるものは人々を導き森を征服した、あるものは海に出て新天地を求めた。時に嵐に見舞われ、想像を絶する苦難に直面しようとも、決して諦めたものばかりではない。なればこそ彼等は今も続いている。

 化生が人の形を持って、果たしてどれほどの月日が経ったろう。化生として、母として、どれほど命の興亡を看取ってきたのだろう。最早化生自身にも分からないそれは悲しみと共にあった。彼女を置いて総てが失われてゆく。散らぬ桜は桜にあらずと言えど……ああどうか、さよならだけを華としないでおくれと彼女は願っていたのだろう。だからこそ思いを凍らせたというのに、だからこそ、現象として世界に染みて消えてしまおうと思っていたのに……。


「……おば様?」


 化生は形に意味を持たない。真に真たる化生であれば、現象であれば、それは偏在し、けれど存在できない。その筈だったのに……。


 化生は横に立つ人の子を見やる。彼が彼女をおとしたのだ。互いを傷つける傲慢、それは、ああ、なんて――――……



「――ば様、おば様ッ!」


 ふと、薄まっていた意識が浮上してくる。見れば蝙蝠の少女は、彼女の腕をはっしと捕まえて、ひどく不安そうな顔をしている。……ああ、駄目だねえ、子供を心配させてしまうなんて。化生は努めて微笑んで、そっと少女の手を握り返す。


「ああ、すまないねぇ……少々はしゃいでしまったようだ。御免よ、心配をかけて」


「ごめんなさい、私が、」


「お前さんが悪いんじゃないよ、だから軽率な謝罪はおよしなさいな」


 しゅんと俯いた蝙蝠を、ぴしゃりと窘める化生。その姿は努めて強く振舞っている様で、あるいは少しだけ苛立っている様で。人の子から向けられた覗うような視線、化生はそれに気付いて眼を向けるが、それも一時の事。我に返ると気不味さを隠すように、ついと明後日に逸らした。


「お前さんはなんにも悪くないんだよ、だから、なあ、そっと笑っておくれ。幸せな顔でこの世界を満たしておくれ」


「おば様……」


 微笑む化生を見て、人の子は眉を顰める。……また、死の貌が深くなっている。命の衰え死に逝くこと、それをどうして留めることができよう。

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