お題【夜勤】をテーマにした小説

――夜勤スタッフ用マニュアル


その1:夜勤スタッフはこのマニュアルを常に携帯してください。トイレやその他外出の場合も可能な限り携帯してください。マニュアルを紛失しても罰則はありませんが、その場合は事務所に置いてある予備のマニュアルを携帯した上で紛失届に所定の事項を記入の上で退勤前に必ず提出してください。紛失届を提出せず、後から紛失が発覚した際は減給、停職などの処分が下される場合があります。

このマニュアルを覚える必要はありません。マニュアルの携帯及びどのような場合でも必ずマニュアルを元に行動することだけは留意してください。





「君が、今日の担当?見ない顔だけど新人かな?」


 温和そうな男性の問いかけに首肯で回答する。


「そっか、僕は日勤の滝口たきぐちです。引継ぎ用の資料は机の上に全部置いてるから確認してください。細かいことは全部マニュアルに書いてあるからそれを見ながらやってもらえれば大丈夫だけど……今日は君ひとりなの?」


「ええ。普段はもっといるんですか?」


 ほとんど反射に近い疑問に、滝口さんは手を振って否定のジェスチャーをしながら答えてくれた。


「普段もひとりなんですけどね?新人の子がいる日はだれかしらの先輩とふたりになることがあるんですよ。必ずってわけじゃないんですが……まあ、それだけです。大したことじゃありませんよ」


 少なくとも、滝口に何か後ろ暗いような態度は感じない。本当になんとなく聞いてみただけなのだろう。二言、三言交わした後タイムカードを推してから普通に帰っていき、それを見送った私はそのまま事務所の中をぐるっと見回す。幾つかの書類とノートパソコンが置かれた小さな事務机、本棚、意味のわかるものからわからないものまで様々なグラフや連絡事項が貼り付けられたホワイトボード、それにお菓子の入った箱と電気ケトルが置いてあるテーブル、部屋の隅に小さな冷蔵庫と電子レンジ。おそらく事務机の上に置いてあるのが滝口の言っていた資料だろう。

 自分が入ってきたドアに鍵をかけ、事務机前の椅子に腰をおろしてからゆっくりと資料を捲る。


「————あ」


 そうしようと思ったところで手が止まり、壁掛け時計を確認する。時刻は夜の11時、今日は昼寝をしてきたがそれでも普通ならば寝ていておかしくない時間帯だ。鞄からインスタントコーヒーとマグカップを取り出してケトルを確認する。どうやら十分な量のお湯が入っていたようで、そのままコーヒーを淹れる。まだ夜は長い、ひとまずコーヒーを飲んで落ち着くことにしよう。





――夜勤スタッフ用マニュアル


その5:事務所内では飲食自由ですが常識の範囲内でお願いします。例えば室内を汚したり、強いにおいが残るような食事や備え付けの電子レンジ以外を使用した調理は禁止です※。万が一汚してしまった場合は退勤前に清掃を済ませてください。

室内の設備はすべて自由に使用可能ですが、冷蔵庫の中に入れたものに関してはトラブル防止のため自分の物に名前を記入してください。名前の書いていないものに関しては自由に消費して構わないものとします。


※過去、事務所内にカセットコンロを持ち込みすき焼きを作ったスタッフがいました。そのスタッフの処分について記載することはありませんが、当然ですが真似をしないようにしてください。





 滝口さんの残した資料に目を通した後はノートパソコンの液晶に表示されている映像をじっと見続けている。監視カメラから送られてくる映像はどれもこれも異常なし、それがずっと続くものだから「覚えなくてもいい」と言われているはずのマニュアルに目を通している。もっとも、ほとんど流し見なのであまり頭に入っていないのだが。

 夜勤というとなんとなくキツいイメージがあったが、少なくともこの仕事はかなり気楽だった。夜遅くに出勤することそのものは確かに大変なのだが、仕事内容自体は今のところそこまでハードでもないしなによりずっと一人でコーヒーを飲んでいる時間は想像以上に快適だ。人と会話できなくても不都合を感じないという自分の性格も影響しているだろうが。

 そんなことを考えながら4杯目のコーヒーを飲もうとケトルを持つと中のお湯はもうなくなってしまっているようだった。


「あっちゃあ……しゃーない、水汲んでくるか」


 マニュアルを軽く折ってポケットに突っ込み、空っぽのケトルを持つと私は事務所を後にした。もちろん、鍵をかけるのを忘れてはいない。





――夜勤スタッフ用マニュアル


その9:トイレ、および水道は事務所の外にあります。これらの設備を使用する場合夜勤スタッフが1人の場合は鍵をかけ、2人以上の場合は最低1人を事務所に残した上で事務所から出てください。この時もマニュアルの携帯は必須です。





 夜の施設内は暗く、自分の足音だけが響く空間は不気味であると同時に少しだけ気分を高揚させる。お化け屋敷のような、或いは立ち入り禁止の場所を探索しているような気分だ。実際には立ち入りを許可された場所を、どこにあるのかわかりきっている水道を求めて歩いているだけなのだがこういうのは気分が大事だ。とは言え歩いて5分も経たずに辿り着いてしまった時は流石に高揚しつつあった気持ちも冷めてしまう。あまりにも短い冒険の終わりに小さな溜息を吐きながら、ケトルの中を水で満たす。満タン近くまで水を貯めてそのまま事務所に戻ろうとしたその時


――ざり


 不気味な音が、耳元で響いた。





――夜勤スタッフ用マニュアル


その11:施設内で何があったとしても決して後ろを振り向いてはいけません。万が一振り向いてしまった場合マニュアルの400頁を参照して行動してください。どのような場合でもマニュアルを確認し、その場合に応じた対処を行いましょう。困ったことがあれば現在の状況と132頁に記載されている内容を照らし合わせ、140頁~370頁までの間に書いてある対処法を実行してください。それができない場合安全の保障はできなくなります。





 思い出す。必ず最初はマニュアルを参照すること。ケトルを脇に抱え、あいた手でマニュアルを確認する。おかしな音が聞こえて、それがザリザリとしたものだった場合は足音を抑えながら事務所に戻ること。事務所に戻ったら鍵をかけてそこから1時間以内は決して事務所の外に出ないこと。それを忠実に実行するべく一歩目を踏み出したその時


――がしゃん


 脇から滑り落ちたケトルが、勢いよく音を立てた。


 そこから先は何があったのか、正直に言ってよくわからない。なにか致命的な失敗をしてしまった感覚、耳元の音が頭の中で響き渡り、大きくなる。ざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざり――


「はいごめんよ」


 声が聞こえて、気付けば目の前に滝口さんが立っていた。


「大丈夫?ちょっと忘れ物したから取りに来たんだけど……ああ、ケトル落としちゃったのね。気を付けないと」


「あ……あ、はい、そうですね……」


 精一杯何かを取り繕いながら、あわててケトルを拾う。幸いどこも壊れていなくて、水の一滴も零れていない。


「こういうことがあるから夜勤はかならず2人にしろって課長に言ってるんだけどねぇ……ま、忘れ物してる僕が言えることでもないけど」


 あははと笑う滝口さんを見ているうちにすっかり緊張の糸が切れてしまった。そのまま滝口さんと一緒に事務所に戻る。それからもう一度滝口さんを見送ってからあとは朝になるまでずっと事務所に籠っていた。こうして、僕の夜勤初日は何事も無く終わったのだった。





――夜勤スタッフ用マニュアル


その92:日勤スタッフとの引継ぎの際は必ず、良好な関係を築くようにしてください。


その93(B3以上の権限、もしくはハザードレベル7以上でなければ閲覧不可)

:捌號以上の特例術式は一晩のうちにそれぞれ1度しか承認されません。くれぐれもマニュアルを遵守した上での行動をお願いします。



<了>

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