憤怒 wrath_05

 砂を噛むような感触。

 どれくらい気絶していたのか……

 気が付くと砂利の上に横たわっており、目の前に誰かの靴が見えた。量産品のありふれた黒い布製のスニーカーだ。靴底は薄く、いかにも安っぽい。

 呻きながら首を回して視線を上げると逆光で影になった犯人の顔が目に入った。

「枩葉……龍之介……か……?」

 男は、こくり、と頷いた。

 薄暗くてはっきりとは見えないが、陰鬱そうだが繊細に整った顔立ちで、清潔な石鹸の香りがする普通の男だった。もっと血腥い男だと思っていた。残虐さや冷酷さは少しも無い。妙に透き通った純真そうな真っ黒な瞳をしていて、とても四人も殺したようには見えない。目を伏せて顔を逸らす仕草は、穢れのない少年のようだった。

 弱々しい、優しげな男だ。犬でも撫でているのが似合う。

 まだ朦朧とした意識で、この男のした事と、された事、寂しい境遇を思い起こす。

 唐突に、可哀想だと思った――

 酷い運命だ。

 親に捨てられ、心から誰かに甘える事もなく、孤独に過ごしていたのだろう。やっと園部峰子という拠り所を見付けたら、三嶋和臣のような男に付け込まれて凌辱されて、しかも、どういう経緯でかは知らないが兵藤静香のような悪魔にも魅入られている。

 手首に違和感があり、顔の前に持ってくると銀色の金属が見えた。

「すいません、手錠、使わせてもらいました」

 驚いて跳ね起きたら、ズキン、と激しい頭痛に襲われた。

「痛ぅ……」

 意識にかかった靄がなかなか晴れない。状況が分からない。

「逃げようとしないでくださいね。もし、あなたが逃げたら中の女性を殺します」

 その言葉で思い出した。そうだ、兵藤静香と山名絵未が囚われているはずだ。殺すと言ったという事は、まだ生きている。ホッとすると同時に冷や汗が噴き出した。

 自分も囚われてしまったではないか――

「糞ッ、俺はなんて間抜けなんだ……」

 枩葉は二階堂から少し距離を取り、右手にスタンガンを構えて警戒していた。怯えの混じった声で命令される。

「立って。自分で歩いてください。二人の居る部屋に行ってもらいます」

 またアレを当てられては堪らない。

 ふらつく体を叱咤して立ち上がる。バランスを崩して膝を突きそうになったが、なんとか堪えた。前を歩けと言われ、仕方なく従う。玄関で靴を脱ぎ、スリッパを投げられ、それを履いて廊下を進んだ。枩葉もきちんとスリッパを履いている。

「行儀が良いんだな?」

「余計な事は言わないでください」

 広くて長い廊下を一度右に曲がり、枩葉に連れて行かれたのは本邸の北側にある部屋だった。さっき、窓から中の様子を覗いたあの部屋だ。二十畳ほどの広さがあり、床はフローリングに改装されており、赤いペルシャ絨毯の上に革張りのソファと黒檀のローテーブルが置かれている。部屋の端に執筆に使用しているのだろうか、やけに立派な書机があり、懐古的な部屋に似つかわしくないデスクトップPCとプリンターが乗っていた。小説の資料だろう、洋の東西を問わず数多の専門書も山積みにされている。椅子は特注品なのか、ソファと同じ色の革張りだった。マントルピースの上には豪華な置時計がある。習い性で時刻を確認すると、午後六時を少し回ったところで、二階堂が気絶していたのは三十分に満たない間だったと分かる。

「刑事さん?」

 縋るようなか細い声を出した山名は、窓から見た時と同じく手足を縛られた状態で床に転がされていた。その横に、同じような姿の兵藤もいる。

「やあ、刑事さんも捕まってしまったようですね?」

 兵藤は縛られた手をひらひらと振った。どういう神経をしているのか、正気を疑う。

「座ってください」

 枩葉は、なぜか二階堂にはソファを勧めた。

「くれぐれも逃げようなんて思わないでくださいね。さっきも言いましたが、あなたが逃げたら彼女を殺します」

 ひっ、と山名は短い悲鳴を上げた。

「困ってたんです。先生を傷付けるわけにはいかないし、そっちの人は女性ですし」

 意図が分からず、二階堂はじっと枩葉の目を覗き込んだ。不躾に見詰められて、枩葉は居心地悪そうに視線を逸らす。印象がちぐはぐだ。四人を猟奇的に惨殺し、ストーキングを行っていた相手の家に侵入し、憧れの対象である兵藤と、おそらく一緒に居ただけの山名を縛り上げ、今や刑事をも拘束している。そんな男の仕草とは思えない。いや、そうじゃない。峰子、米原、須貝が語った繊細で優しい枩葉の姿に、今の行動がそぐわない。

 携帯端末で晴翔に助けを求めようと、枩葉に気付かれないよう布越しにスーツのポケットを探ってみたが、固い手触りは無かった。気絶している間に端末は取り上げられていたようだ。

 枩葉は、彼の物と見られるカバンから何かの包みを取り出した。見た事がある。二階堂は一度それを買っている。吉祥寺のカフェのロゴがプリントされた包装用ビニールのパッケージング。あのトリュフチョコレートだ。可愛らしいリボンが付いている。

「食べてください」

「誰が、そんなもの――」

 枩葉は一瞬、戸惑った表情を浮かべたが、すぐに察しが付いたようだ。

「ああ、これが何か知ってるんですね。じゃあ、良いですよ。あなたが食べてくれないなら彼女に食べさせます。女性なら、俺でも無理やり口を開けさせられると思うんです」

「やめろっ。分かった、俺が食う」

 合成麻薬MDMAと睡眠薬がたっぷり混ぜ込まれた特級品だ。手錠を嵌められたままの手で苦労してパッケージを開け、覚悟して口に入れる。薬物特有のエグイ味を想像していたのだが、予想に反して、拍子抜けするほど美味かった。ドラッグの効果が出るまで少し時間が掛かる事は知っている。致死量でなければいいが、と考えて、それ以前に、酩酊して意識を失ったら終わりなのだと気付いた。

 ヤバイ……惨殺された被害者と同じ事をされている――

 枩葉は自分を五人目に選んだのか?

「これも飲んで下さい。大切な事なので疎かにしたくないんです」

 枩葉はカバンから緑色の酒瓶を取り出した。

「何だ、これ? アブサン?」

「はい、そうです」

 いよいよ決定的な物が出て来た。薬物入りのチョコレートと違って、獲物の自由を奪う為には何の意味も無い酒だ。儀式という意味しか……

 度数の高い、しかも癖の強い酒を瓶から直接飲まされて、二階堂は激しく噎せた。喉と腹が焼けるように熱くなる。香りがキツイ。自分の体内に独特の芳香が籠って鼻の奥がツンと痛んだ。

 枩葉は、二階堂を最後の犠牲者に決めたらしい。粛々と儀式の準備を進めている。

「黄金の林檎に出てくる殺人鬼が犠牲者を殺す前に飲ませていたリキュールですよ。飲むと審判の幻覚が見えるんだそうです。あなたが善人なら優しい妖精が、悪人なら醜い悪鬼が青い炎の中に現れるはずです。ねえ、そうですよね、先生?」

 枩葉は生真面目な学生のような声で言い、床に転がっている兵藤に顔を向ける。まるで生徒だ。そんな枩葉に、兵藤は困ったような曖昧な笑顔で応じた。

「それは小説の中の作り事だよ」

 やんわりと答えた声は、いっそ穏やかで優しかったが、なぜか背筋が冷えた。

 ふと、視線を向けると、兵藤の書机の端に黄金の林檎が置かれていた。金色に塗られた安物ではない。本物の林檎より一回り小さな金属製のペーパーウェイトだ。表面は金箔で覆われ、とろりとした蜂蜜のような輝きを放っている。

 再び、全身に冷や汗が噴き出した。

 恐怖のせいかと思ったが、それだけではなかった。体がおかしい。

 心臓が早鐘を打っている。寒い。悪寒がする。いや、暑いのか。汗が止まらない。そわそわと落ち着かない気分になり、服を脱いで駆け出したい気分に囚われる。そのくせ、脳の芯には猛烈な眠気が凝り始める。

「なんだ、これ……」

「薬が効いて来たようですね」

「薬……?」

 おかしい。さっきまで何でもなかった照明が眩しい。チカチカとフラッシュでも焚かれているように目の裏で閃光が瞬く。目の前の光景が歪む。赤い絨毯の敷かれた床が、波が揺蕩うようにうねっている。

「バッドトリップしないといいですね」

 クス、と枩葉は礼儀正しく口角を上げた。二階堂は朦朧としていく意識を必死で保ちながら、呻き混じりの声で問い質した。

「どうしてこんな事をするんだ?」

「先生を楽しませる為」

「自分の意思は無いのか?」

「俺は先生の奴隷だよ。先生を楽しませる為なら何でもする」

 誤解だよ、と横合いから兵藤が口を挟む。

「僕はこんな事は望んでいないよ」

 茶番だ。兵藤はこの期に及んで韜晦している。

「先生、もう誤魔化さないでください。俺は分かってます。大丈夫です」

 糞ッ、こいつらは揃って頭がおかしい――っ!

 ダメだ。このまま流されては、本当に殺されてしまう。

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