憤怒 wrath_04

 園部峰子の邸から兵藤静香の邸まで、歩いても十五分とかからない。

 邸の門が見えて来た時、おや、と晴翔は辺りを見回した。

 二階堂も異変に気付く。

 ハイエナの群れのようだった取材クルーの姿が見えない。停車している車も無い。

「どうしたんだろう? 今日はマスコミの張り込みが一人もいませんね? ちょっと津谷さんの息子さんに電話してみます」

 すぐに応答があったようで、晴翔は簡単に会話を交わし手短に通話を終える。

「こぞって新宿の現場の方に行ってしまったみたいですね。今日に限ってはマスコミの皆さんが張り込みを続けてくれてたら都合が良かったんですけど……」

「四件目の殺人が発覚した直後だからな」

「人の出入りを見張るにしても、この邸、広すぎるんですよね。表門と裏門、かなり距離がありますし、もうすぐ日が暮れます。夜は死角が増えますし、条件が悪いですね」

 訪問するのは二度目だが、兵藤邸は相変わらずの豪邸だった。白い漆喰壁に黒の塀瓦が乗った武家屋敷風の堅固な塀が敷地の周りを囲っていて、威容を誇る鎧門が外部の人間を拒絶している。時代劇のセットかと錯覚するが、鎧門の端には普段使用の物と見られる通用口があり、近代的な銀色のインターフォンパネルが埋め込まれていた。改装して付け加えたのだろうが、意外にもしっくりハマっている。不思議なものだ。

「何度来ても威圧感が凄まじいな……」

「二階堂さんだって金持ちの坊ちゃんなんでしょ?」

「レベルが違うよ」

「情けない事を言わないでください」

 どうやって尋問しようか迷ったが、相手があの作家では少々の小細工では通用しないだろう。ともかく無策で行ってみる事にする。

 意を決して呼び出しボタンを押してみたが、応答が無かった。

「誰もいないのか?」

「今、兵藤先生の自宅電話にかけてますが、こっちも誰も出ません」

 晴翔は携帯端末を耳に当てながら手早く言った。

「どう思います? あの女編集者さんと仲良く外出しているのか、それとも、中で拙い事になっているのか?」

「山名さんの携帯にもかけてみろ」

 はい、と頷き晴翔は山名絵未の名刺を取り出し、書かれていた番号に架電した。

「……出ません」

「どういうことだ?」

「デート中なら羨ましい限りですけど、後者なら、ビンゴですね」

「バカ、枩葉が兵藤静香と山名さんを人質に立て籠もってるかもしれないって事だろ。下手したら連続猟奇殺人の被害者が二人増えるぞ」

「あの先生が、そんな下手を打ちますかね? それに、枩葉龍之介は兵藤静香だけは傷付けないと思います。当てつけで自害とかはしそうですけど」

「あの先生の前で自殺するつもりだってことか?」

「そんな気はするんですけど……」

 何か言おうと口を開いた瞬間、ほんの微かな悲鳴が聞こえた気がした。

「今、悲鳴が聞こえなかったか?」

「え? 別に、何も聞こえませんでしたけど。二階堂さん、歳のせいで疲れてるんじゃないですか?」

「おまえ……」

「とにかく、セオリー通り行きましょう。まず新宿署から応援を呼んで、周辺に捜査員と警察車輛を配備して、逃亡を防ぐ体制を整えてから声掛けと突入ですね……って、ちょっと、二階堂さん聞いてます?」

「あ、ああ……」

 また、か細い音が聞こえたような気がする。気のせいなのだろうか。

 晴翔は端末を取り出して新宿署の捜査本部に電話を掛け始めた。今朝、四人目の被害者が出て捜査本部は混乱している。通話も混み合っているようでなかなか応答が無く、やっと繋がったと思ったら、渋られているようだ。

「埒が明きません。兵藤邸の状況が確認できないのに、捜査員を割けないと」

「新宿で緊急配備を敷いてローラー作戦の真っ最中だからな」

 晴翔は珍しく感情を剥き出しにして舌打ちをした。

「一旦署に戻って直接説得するしか……」

「俺はここに残る」

「え? 二階堂さん、何言ってるんですか?」

 一般にはあまり知られていないが、刑事は通常、銃を携帯しない。予想通り枩葉が邸内に居て何らかの理由で逃亡を図り尚且つナイフなどの武器を所持していた場合、丸腰で応戦する事になる。そもそも、不測の事態に備える為、刑事は常に二人一組で行動しなければならない。晴翔はそれを言っている。

「あの邸から駅に向かうならこの道を通らないわけにはいかない。俺は少し離れてここを見張る。万が一、枩葉が中に居たとして、逃げ出すような事があれば――」

 なんとしてでも俺が確保する、とは言わなかった。だが、晴翔には伝わった。

「分かりました。二階堂さんは、万が一の場合に備えて、ここで待機してください。ですが、くれぐれも応援が到着して捜査員の配備が整ってから突入って事で」

「ああ、分かってる」

「まだ枩葉が居るかどうかも分かりません。それに、もし居たとして、最悪のケースは人質を取られて立て籠もられる事ではなく、人質を殺害されて逃亡される事ですから、刺激しないよう慎重に行きましょう」

 もっと最悪なのは、人質を殺害されて逃亡され、更に二階堂も殺害されるケースだが、晴翔はそれには言及しなかった。

 二階堂は晴翔の目を見て力強く頷いた。

 二日前、気の緩みから真犯人ホンボシの枩葉を逃亡させてしまったのは自分だ。もう二度と失態は犯したくない。兵藤邸の中に枩葉がいるなら、今度こそ逮捕する。

「二階堂さん、先走って暴走しないでくださいね」


   ***


 晴翔は携帯端末を耳に当てたまま駅へ向かって走って行った。

 すっかり見慣れてしまった後姿を見送りながら、二階堂は気合いを入れ直した。枩葉が兵藤邸に居なければそれでもいい。とことん捜索するだけだ。だが、もしも、ここに居るなら、何か起こる前に身柄を確保したい。死ぬつもりなのか、あるいは兵藤静香を殺すつもりなのか、それとも、何か別の事を……

 枩葉龍之介は何を考えているのか分からない。

 三嶋和臣を殺害した事情は分かる。あれは、分かる。だが、何故その後も猟奇的な殺人を繰り返したのか、どうしても分からない。

 枩葉は兵藤静香の支配下にあるのではないかと晴翔は言った。本当にそんな事が有り得るのだろうか。枩葉は気弱で優しい思い遣り深い人間だった。何の見返りも求めず、請われるままに孫のふりまでして盲目の老女を見舞い続けた男だ。

 そんな男を猟奇殺人鬼に作り変えてしまうなどという真似が出来るのか?

 ふと、この邸の中で枩葉がしようと思っている事は、もう終わっているのはないかと考える。いや、まだ取り返しの付かない事は起きていないとしても、晴翔が新宿署のデスクを説得して応援を連れてくるのを待っていては間に合わないのではないか。それとも、すべては杞憂で、枩葉はここには居らず、何も起きてはいないのかもしれない。

 だが、状況が分からない場合、刑事なら最悪の事態を想定すべきだ。今現在、枩葉龍之介は邸の中に居て人質を取って立て籠もっており、二階堂がミスを犯して人質を殺害された上逃亡される――それが最悪の事態。そうならないよう行動する。

 完全に陽は落ちて辺りは夜の闇に包まれていた。

 邸の中の状況が分からず焦る。

 その時、鋭い悲鳴が鼓膜を打った。

 今度はハッキリ聞こえた。女性の悲鳴だった。

「何だ、今のは? いったい何が起こっている――?」

 晴翔の端末に架電してみるが、留守番電話サービスに繋がってしまう。まだ新宿署には到着していないはずだ。移動中も談話で説得を続けているのか。

 二階堂は舌打ちしたい気分になった。

 早瀬管理官は頭の固い上司ではない。とすると、難航している原因は、管理官よりも上の立場の誰か――部長クラスか、副総監、あるいは警視総監が、注目を集めている連続猟奇殺人事件の捜査に口を挟んでいるせいだろう。今日の昼間、四人目の被害者が発見されたばかりだ。今、大人数の捜査員を動かせば必ずマスコミに嗅ぎ付けられる。それで何も出なければ大失態だ。保身の為に慎重になるのは分かる。

 だが、悲鳴が聞こえた。

「糞……ッ!」

 何か手は無いかと鎧門に駆け寄ってその辺りを見回し、表門の横の通用口が、ほんの僅か、五ミリほど開いているのに気付いた。

 鍵が開いている――!

 先走って暴走するなと言われたが、もはや猶予は無いと判断する。

「悪いな、晴翔。先に行かせてもらう」

 ほんの少し開いていた通用門を押して、無断で邸の敷地内に侵入する。無駄に広い庭園だ。だが、照明が灯されていない事が幸いした。宵闇に隠れて本邸まで近付ける。

 人の居る様子は無く、どの窓も真っ暗だったが、邸の裏手に回ってみると、一部屋だけ明かりが着いているのが分かった。姿勢を低くして窓辺に駆け寄る。

 中を覗き込んでぎょっとした。

 兵藤静香と山名絵未がロープで手足を縛られて床に転がされていた。

「枩葉龍之介……やっぱりここに居たのか」

 だが、肝心の枩葉の姿は見えない。

「どこだ? どこに行った?」

 もっとよく室内の様子を見ようと首を伸ばした時、背後に人の気配を感じた。

「誰だ──っ?」

 振り向いた瞬間、何かが二階堂の首筋に当てられた。バチッと強烈な閃光が散り、目の前がショートする。スタンガンだ――と気付いた時には手遅れで、スローモーションのように自分が倒れているのが分かり、意識がゆっくりと遠退いて行った。


   ***


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る