平凡な伊上くんの早春と蒼旬

江東蘭是

第1話 二人でビートルズ

               プロローグ


 一通の手紙を前にして、困ったことになったな、と僕は少し憂鬱になった。大学に入学して1ヶ月、明日からゴールデンウィークが始まろうかという日の夕方。西日の当たる自分の部屋で、僕はこの手紙を開封するのを躊躇っていた。



             *********


 昭和天皇が崩御し、年号が昭和から平成に変わった年、1年の浪人生活を経て僕は大学に入学した。ちょうど、世の中はバブル経済とかで浮かれている頃だ。まあ、学生の僕らにはあまり関係ない話だと思っていたが、大人たちが景気よくやっているおかげで、その恩恵を学生も存分に享受していた。高級車を乗り回し、高級フレンチでデート、なんて学生カップルが当たり前のように存在したのだ。彼らにとって大学はパラダイスで、適当に単位さえ取っておけば、将来は安泰だという、今では考えられないような超楽観主義が蔓延していた。

 そんな浮かれた学生たちを尻目に、一応、僕は真面目に勉強するつもりだった。僕が入学したのは、国立H大学で、工学部機械工学科。同期生は100人ほどいたが、みな一様に、どこか普通の大学生と違った独特の雰囲気を持っていた。人によっては、それを「ダサい」という言葉で片付けてしまうかもしれないが、それとはちょっと違っていた。これまで勉強に明け暮れていて、垢抜けていないと言った方が正確だった。自覚はないが、自分も他人から見れば、そういう風に思われているかもしれない。そんな雰囲気から一刻も早く抜け出して、洒落っ気のある学生生活を送りたいという気持ちの一方で、バブルでちゃらちゃら浮かれた学生とは一線を画したいという複雑な葛藤を抱えて、僕は大学生活をスタートさせた。

 1回生の前半は、授業は一般教養がほとんどで、工学部としての専門科目は少なかった。語学の授業はともかく、西洋美術史とか東洋文学などといった科目は、どう気持ちを奮い立たせても、真剣に勉強しようという気持ちが起こらなかった。同じような気持ちを抱く学生は僕だけではないらしく、早くも代返を最大限活用して、適当に単位を取ろうとする同期生が出始めたが、僕はそういうことに関しては不器用な方だったので、嫌々ながらも授業には真面目に出席するつもりでいた。

 この年、つまり1989年は5月3日の水曜日から5連休となるが、連休の谷間の5月1日、2日とも、大学の授業は休講が多く、実質休みと同じだった。僕が選択していた授業も1日と2日は全部休講で、結局、4月29日から5月7日まで9連休になった。

 その9連休前の4月28日金曜日。その日の最後の授業は哲学だった。教官は何日も洗髪していないようなギトギトの、鳥の巣のようなヘアスタイルをした変人で、教壇で何かボソボソ喋っては、時々ケケケと笑う気味の悪い人物だった。僕は授業を受けながら、この教官は家に帰ると、どういう夫であり父であるのだろうかと、そのことばかり考えていた。

 その哲学の授業を終え、その日は寄り道して買い物を済ませてから帰宅した。実は来週の5月3日、僕にとって重要な日になりそうだった。だからその日のために、いろいろと買い物をしていたのだ。

 自宅に着いて、玄関の扉を開ける前に何気なく郵便受けを覗くと、和紙でできた、ほんのりとした色づかいの封筒が一通、入っていた。こんな純和風の封筒を使うぐらいだから、母親宛の手紙だろうと思ったが、宛名は僕の名前になっていた。裏を返して「篠崎紀子」という差出人の名前を見たとき、僕はドキリとした。

 今、この日に彼女からの手紙が届くなんて、なんていう微妙なタイミングだろう。手紙の内容によっては、僕はとても困った状況に置かれる。とにかく、読んでみないと始まらない。玄関に入ると、僕は自分の部屋へ直行した。


 篠崎紀子は高校の同級生だ。1年のときに同じクラスになり、格別可愛いというわけではないが、上品でおっとりした女の子らしい雰囲気に、思春期真っ盛りの僕は、ほのかな想いを寄せていた。

 何度目かの席替えのとき、彼女と僕は隣同士の席になり、それを機に、割と親しく言葉を交わすようになった。野外活動では彼女と同じ班で行動することになったり、文化祭の準備で遅くまで学校に残って一緒に作業したりしているうちに、僕は完全に彼女に対して恋心を抱いてしまった。

 今時の子なら、臆せず告白するかもしれない。だけど僕は、恋愛に関しては全く奥手だった。いや、僕だけでなく、彼女も含めて、学校全体が恋愛などといったことが大っぴらにできる雰囲気ではなかった。そう、僕たちが通っていたのは、大阪府下でも有数の進学校だったのだ。付き合っている男女が校内でいないわけではなかったが、彼らは明らかに学校では浮いた存在だった。

 彼女が僕に対してどのように思っていたかわからなかったが、少なくとも、嫌われてはいないと感じた。思い切って告白したらどうなるかと妄想してみたことはあるが、あくまで妄想だけにとどめておいた。僕らの目標は大学受験であって、少なくともそれまでは、恋愛などとんでもないという、僕なりの理性があった。それは彼女も同じだっただろう。


 ある日の放課後、僕は教室でひとり、割れた窓ガラスを掃除していた。廊下で友達とキャッチボールをしていて、キャッチし損なったボールがガラスを突き破ってしまったのだ。友達は、ボールを受け損なった僕に全て責任を押しつけて、逃げるように帰っていった。進学校では、得てしてこういうことをする奴が多い。

 仕方ないので、僕は職員室へ行って担任の教師に成り行きを報告した。怒られると思ったが、意外にもあっさり「破片が残らないよう、綺麗に掃除しておくように」とだけ言って放免してくれた。

割れたガラスを集めていると、篠崎紀子がそうっと覗き込むようにして教室に入ってきた。

「誰かと思ったら、伊上くんやったの。どうしたの?」

「ふざけてて、ガラス、割っちゃってね。篠崎さんこそ、もう帰ったんじゃなかったの?」

「英語のノート、机の中に忘れちゃって。それにしても伊上くん、ひとりでふざけてたん?」

「いや、坂田と藤井と」

「ふたりは?」

「僕に責任押しつけて、帰っちゃったよ。もう、やってられへんなぁ」

そのとき、彼女がクスッと笑って

「伊上くんって、やっぱり関西弁が変。無理につかわなくてもいいのとちがう?」

「そうかな」


 僕は小学校6年のときに、それまで暮らしていた神奈川県鎌倉市から、父親の転勤で大阪に引っ越してきたのだ。だから、関西弁がうまくない。だけど、大阪で関東弁を喋ると一発で嫌われると聞いていたので(実際にはそんなことないかもしれないが)、関西出身の芸能人の喋り方を一生懸命覚えた。でもそんなことをしたぐらいで、すぐにベラベラと関西弁が出てくるわけではない。どうしても、取って付けたような関西弁になってしまうのだ。

「とにかく、私も掃除、手伝うよ。坂田くんも藤井くんも、ひどいねぇ」

「あ、ガラス危ないから、僕一人でやるよ」

「いいからいいから」

 一人でやると強がったが、本心は彼女と一緒に過ごすことができて、嬉しかった。これぐらいのことで幸せな気持ちになれるのだから、単純なものだった。

 片付け終わって、僕と篠崎紀子は一緒に校門を出た。同じ地下鉄で通学しているので、自然と駅まで一緒に帰ることになった。少しでも彼女と一緒に過ごしたい、なんて思っても、いざ二人だけで肩を並べて歩き始めると、息が詰まるような、窮屈な気持ちになった。それは彼女も同じようだ。

 僕らは、お互い黙って歩いた。気まずい沈黙が続く。何か喋らなければ。僕はそう思って必死に話題を探したが、思い浮かばない。無粋だが、やはり勉強の話題がいいかな、と思ったとき、彼女が口を開いた。助かった、と思ったあたりが、なんとも情けない。

「ねぇ、伊上くんって、音楽とか聴く?」

 当時、僕は河合奈保子の大ファンだったのだが、アイドル歌手に熱を上げているなんて、彼女の前で間違っても言えなかった。恋愛に奥手でも、それぐらいの見栄はある。

 幸いというか、中学時代、僕はビートルズに凝っていた。それは高校に入っても変わらなかったのだが、思春期の悲しいところで、そのとき頭の中は河合奈保子で溢れていた。

 ビートルズの歌を何曲か思い出しながら、僕は慎重に答えた。

「うん、聴くよ。今は、ビートルズかな」

 恋愛は、まず見栄を張ることから始まる。このときに覚えたことだ。

「あ、偶然! 私も今、ビートルズ。伊上くんは、どの曲が好き? やっぱりイエスタデイ?」

「うーん、イエスタデイもいいけど、僕はイン・マイ・ライフかな」

「イン・マイ・ライフかぁ。あの間奏のピアノが素敵ね」

「うん、あのピアノもいいけど、やっぱり歌詞がいいな、と思って」

なんてね。偉そうなことを言ってみた。

「ほかはどんな曲が好き?」

「そうだなぁ。アクロス・ザ・ユニバースも好きかな」

「ふーん。ジョンの曲が好きなのね」

「え、そうなの? あまり意識してなかったけど」

「イン・マイ・ライフもアクロス・ザ・ユニバースも、どちらもジョンがメイン・ボーカルで、たぶん、歌詞もメロディもジョンだと思うよ。イエスタディはポール」

「へえ、そうだったんだ」

「実はね、わたし、英語が好きだから、ビートルズの気に入った歌詞を自分なりに訳してるんやけど」

「歌詞カードに訳があるのに?」

「うん。ほら、歌詞カードの訳って、なんか意訳し過ぎてる感じがしない?」

「確かに」

「だから、もう少し英文に忠実に、だけど私なりの解釈を加えて」

「すごいなぁ、それは」

「それがね、きちんと訳せてるかどうか、すごく気になって。ほら、歌詞って変な文法っていうか、習ってないような単語の並び方してるやん?」

「言われてみれば、そうだね」

「今ね、ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロードに取り組んでいるんやけど」

「うん」

「……」

 彼女が黙ってしまった。なんか拙い対応をしてしまったか? また気まずい沈黙が訪れた。何か言わなければ。

「あの、ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード、訳し終わったら、読ませてほしいな」

 思い切って言ってみた。これぐらいのことを言うだけでも、当時の僕にとってはかなりの勇気を必要としたのだ。

「え? ほんとに? 実はそれ、お願いしようかなと思ったんやけど、恥ずかしいし、それに迷惑かな、と思って……」

「いや全然。ぜひ読んでみたいな」

 思いがけず良い方向へと向かっているので、僕はホッとすると同時に、これぐらいのことなら言っても平気なんだなと、少し勉強になった。こういうことは、教科書に書いてないもんな。

「じゃあ、できたら持ってくるね! あともう少しやから、今週中にできると思う」

こうして僕は、篠崎紀子との間に、か細いながらも接点を持つことができた。あとは、この接点をいかに保ちながら、育んでいくことができるか。駅で篠崎紀子と別れて帰宅してから、そんなことばかり考えていた。胸がドキドキしてきて、宿題が手に付かない。

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