君たちはもっと他人の文章を罵りなさい

矢田川怪狸

第1話

 君たちはもっと他人の作品を罵りなさい



 最初にお断りをしておこう。

 私は『他人の文章に悪意的な感想をつけること』を推奨する目的でこれを書いたのではない。


 WEB小説の世界にいると、まったく顔も見知らぬ他人から思いもよらぬ言葉をかけていただけることがあって面白い。

 たいがいは好意的に作品を読んだうえで、優しい気持ちで丁寧に書いてくださった好意的な感想であるが。

 こうした感想は時に励みにもなるし、また、誰かと心つながった気がしてうれしいものである。


 さて、時に……こちらが赤面して身もだえするほどの大絶賛を受けることがある。

 私はこれが嫌いだ。

 どのぐらい嫌いかというと、歯医者に行く一時間前に感じるとてつもなく憂鬱な気分、あれに似た鬱気を感じるくらいには嫌いだ。

 むしろ悪意むき出しでダメを出してくる感想を愛する。

 なぜ大げさに美辞麗句を並べた感想を嫌うか……それは書いた者の鈍感っぷりが透け見えるからである。


 WEB小説界隈というのは『作者』が多く集まる場所であり、感想をつけてくれた『読者』も何らかの作品を書く作者である場合が多い。

 つまり感想をつけると同時に自分も感想を『つけられる』側の立場であると誰もが無意識のうちに自覚しているわけである。

 美辞麗句ばかりを並べる感想の作者というのは、無意識のうちに『感想をつけられる側の立場』という感覚ばかりが大きくのさばっている。


 ここまで読んで「なんのこっちゃ」と思ったあなたは手遅れだ。

 おそらく自分の無意識下に何があるのか、そういった内省が苦手なのだろう。

 美辞麗句感想を書く作者の多くがこれだ。

 こういった者は「『私に』とって面白い、と書いたのだから嘘ではない」と本気で思いこんでいるという特徴がある。

 だから臆面もなく薄っぺらい美辞麗句ばかりを並べることができる。

 つまり作者として心得ておかねばならぬのは、どんなに大げさな嘘くさい感想であっても『ウソを並べたわけではない』ということだ。

 それは『この私から褒め言葉を与えてくれよう』という超上から目線ではあっても善意の現れである。


 そこまで心得ていながら、なぜ美辞麗句が並ぶ感想を嫌うのか。

 これを私個人の好みの問題として片づけてしまうのは、ちょっと違うような気もする。

 というのも、実際に『きれいな言葉や大げさな言葉は嘘くさい』と思う心理が、ほぼすべての人間の中にあるからである。


 例えば、電車の中でおばあちゃんに席を譲ったとしよう。

 お礼の言葉など一つも期待していない、ただ目の前に足の悪そうなおばあちゃんがいたから席を譲った、ただそれだけのことだ。

 ところが、おばあちゃんは(たいていの老人というのはそういう生き物であるが)とてつもなく大げさにあなたの善意を褒めたたえる。


「あら~、いいの? ありがとうね」と、ここまでは当たり前の会話の範疇だ。

 親切にされてお礼の一つも言わないというのは礼儀にも反する。

 ところが次に「若いのによくできた人ね、本当に心根が優しくて、仏さまみたいだわ」とか、大げさなことを言った上に拝まれたりしたとする。

 このあたりから、少しおしりがむずがゆくなってくるんじゃあないだろうか。

 君は愛想笑いなんかでこれを躱そうとするかもしれない。

 さらには「本当に、今どきの若い人とは思えないわ、親切だし、そうやって物静かなのも紳士的だわ。もしかして、どこかいいお家のお坊ちゃんなんじゃないの、なんか、すごく上品な雰囲気があるものねえ」……

 これを「うん、その通り!」と言って胸を張って聞けるならば、少し自分の無意識下にある人格を疑った方がいい。

 つまりあなたは『褒められたいがために他人に親切を施す』ことができる嫌なやつなのだ。


 自分が思った以上に大きな見返りがあると、人は少し臆するものである。

 言葉は金がかからないので褒める側は遠慮なく大盛りてんこ盛り盛り盛りに盛って感謝を伝えようとするが、受け取る側はたとえ言葉であっても『もらうもの』なのだから、対価として大きすぎると感じるわけだ。


 美辞麗句の並ぶ感想を嫌う作者の多くは、読者に『面白い』と言わせることが目的だ。

 だから『面白い』という感想には特に敏感である。


《とても面白かったです。夢中で読みました》


 たったこれだけの感想で狂喜し、乱舞する。

 作者とはそういう生き物だ、私だって心得ている。

 だからこそ逆に、自分が想定した『面白かった』の大きさをこえた大絶賛にも過敏に反応するのだ。


《素晴らしい作品をありがとうございます! 私の家にも三歳の子供がおり、とても共感できるところが多く、私の言いたかったことを代弁してもらっているかのような感覚がありました。うちの子はお宅のお子さんとは違い賢くはないのですが……》


 こんなのを見たら、私は顔をしかめる。

 隙あらば自分語りじゃないか。

 つまり『自分の読んだ作品』を足掛かりに自分の家の子の話をしようという……話題のきっかけとしての読書を自慢気に『作者本人』に語りに行くなよと。

 もっとも、こういった感想を書く人は自分の作品も『誰かとの会話の始点にするために書いている』ことが多い。

 それは本人にとっては賛辞であるだろうし、本心でもあるだろう。

 だから会話のきっかけを投げた作者は感想者を否定するようなことがあってはいけない。

 ただ、『鈍感だな』とは思っても構わないだろう。


《読みだしたら最後までとまらない! このセンス! この文章力! とにかくバツグンすぎて私のつたない文章力では賞讃が追い付かないレベル! 次の書籍化作家は君だ!》


 なんて感想を見たら、たとえそれが他人につけられたものであっても激怒する(私はそういう男なのです)。

 なんの内容もない、ただ賞讃の言葉を適当に組み合わせただけの、これが感想ですといわれて、果たしてどれほどの人が喜ぶのか……。


 いや、WEB作家なら、本当はこういった大絶賛の感想をこそ信じ、お礼に相手の作品を読みに行くくらいの礼儀を払うべきなのだろう。

 そして自分も相手がしてくれたように大絶賛の美辞麗句ばかりを並べ、相手が望む『素晴らしい感想』を書くべきなのだろう。

 そういったオツキアイも悪くない。

 作者同士なのだから、感想欄を見た人が「お、これならば読んでも面白そう」と思う言葉を残すことは悪手ではない。

 宣伝戦略ならば。


 しかし、ただ『面白い』を望む作者がこれを受け取ったらどう思うだろうか。

 少しばかり大きすぎる上に中身が全くないことを一目で見抜くことだろう。

 ゆえに感想というものは、送り手と受け手のスタンスの違いによっては誤解を生む。

 これはとても悲しいことだ。


 美辞麗句感想を送る人も、読むときのスタンスが『自分が素敵な感想を書いてもらえるように自分も素敵な感想を書いてやろう』という無意識下にある心に踊らされているからであり、けっしてウソを書いているわけではない。

 ただ、受け取る側がそれを期待していなかった場合、『嘘くさい』と思われて『本心』を否定されてしまうわけだ。

 さらに、こうした大仰な感想に期待して本編を読みに行くと、まずこれが期待外れで腹が立つことはなはだしい。


 こうした悲劇を避けるために、私は『他人の作品は罵りながら読むこと』を推奨する。

 ただし、罵りの内容を作者に直接伝えに行くことはタブーだ。

 誰だって自分が時間と努力を注いで書いたかわいい作品に否定的な意見など言われたくないと思うだろう。

 私だってそうだ。

 だいたい、リアルの世界で見知らぬ相手にいきなり「あんた、バカだね」と言ったらケンカになるだろう。

 ネットでも同じ、ケンカをするつもりがないなら人付き合いは礼儀正しく。


 さて、そうすると『罵りながら読む』というのは陰口にあたるんじゃないかと心配になるかもしれない。

 その通り、もちろん陰口だ。

 だからこそ作者本人の人格の全てを否定するようなことがあってはいけない。

 ただし、一部否定はありだと私は考えている。

「あいつ、性格悪い癖に善人みたいなもの書きやがる」とか「普段は御大層なご高説をツイートしてるくせに本音はこれかよ」などは使用禁止にすると文章の本質というものを見失う。

 だが、そこから話を膨らませて「だからあいつはダメなんだ」とか「言ってることと書いてることが違うってのは嘘つきだ」などはやってはいけない。

 あくまでも罵る対象は文章から読み取れるまたは推測される範囲のことであり、作者本人を罵るのはタブーだ。

 これは感想を書いてくれた人に対しても同じ。

 感想文から読み取れる浅ましさや悪意などいくらでも罵ってやればよい。

 だがそれを広げて「こんな感想をつけるなんて人としてどうかしてる!」などやってはいけない。

 文章というものはそれがどんな性質のものであっても書いた人の全人格を表すものではなく、人格のほんの一部をうっかり吐露してしまう性質のものなのだから。


 さて私はもともと口が悪く、性格も悪いので、誰も聞く人がいないところでは悪口のオンパレードだ。

「てにをはがなっていない」「カッコばっかりで中身スカスカ」「読者を迷路に誘い込むような意味不明な文章」などなど。


 だが、それをネット上の感想欄に書き込むことはしない。

 私は対外的な部分ではネガティブな感想を表には出さない。

 それは『人がいる往来では淫語を叫ばない』といった当然の配慮に似ている。

 WEB小説では感想は作者に与えるものであると同時に誰でもが眺めることのできるオープンなスペースであり、ここをネガティブな言葉で汚せば不快になる人間が多くいることを、私はよく理解している。


 ならば、こういった悪口をどこに吐き出すか――もっぱら同好の友であったり家人であったり、オフラインもしくはそれに近しい環境で会話をする相手にのみ話す。

 悪い感情というものはドロリと腹に溜まるものであって、吐き出さずにはいられない。

 だが無用なトラブルを避けるつもりがあるのならば、吐き出す相手と場所は選ぶべきだ。


 ここまで読んで、『罵りながら読む』と感想がつけられないという方もいるのではないだろうか。

 こういった方は『感想とはポジティブなものである』という思い込みを捨てたほうが良い。

 それと同時に『他人の作品を罵ることはネガティブな行為である』という思い込みも捨てられたら最高。


 WEB小説ではときどき眉を顰めたくなるような『酷評』が感想欄にぶら下がっていることがある。

 作者の無知をあざ笑って自分の知識をひけらかし、文章の記述ルールにばかり手厳しく、作者の全人格を否定しようと悪意ある言葉を使う。

 時には偽悪的にふるまうことこそ『酷評』の極意であると思い込んでいるのか、わざとらしく汚い言葉を並べる輩もいる。

 これは『他人の作品を罵ることはネガティブな行為である』――内在的に『感想とはポジティブなものである』と思い込んでいるからではないだろうか。

 つまり『ポジティブではない感想』をつけることは悪であると無意識で思っているからこそ、わざわざ『酷評』というものをネガティブなものにまで貶めねば気が済まないのだろう。


 個人が外界からの刺激を受けて快と感じるも、不快と感じるも、それ自体に罪はない。

 自分の感情が動くがままに良いところは良い、悪いところは悪いという『感想』を持つことは、これ少しも悪いことではないはず。

 その感情を時と場合も考えずに、誰彼構わずまき散らすことだけが罪なのだ。


 だから身内しかいない場所で存分に自分の気持ちを吐き出すことは、これは誰にも責められることではない。

 ましてや身内にすら明かさぬ自分の心の内でなら、どれほど素直な本音を吐いたとて罪にはならないのだ。

 だからこそ、他人の作品など存分に罵りながら読みなさい。


 だいたいがこの世に傷一つない完璧な文章などあるだろうか。

 たとえどんな大文豪の作でも、文章に精通したベテラン作家の筆によるものだろうと、傷のない作品など存在しないと断言できる。絶対に。

 どこかに文章のほころびがあったり、心理の揺らぎが現れたりするのは当たり前なのだ。

 だって、書いている作者は神ではなく人間なのだから。


 それと同じように作品を読むあなたも人間なのだ。

 例えば体調であったり、心の疲れ具合であったり、傷一つない状態で物語を読むことはできない。

 完全ではない文章を完全ではない心が読んでいるのだから読み間違いや解釈違いが起きるのは当たり前だ。

 時に腹が立ったり、自分の方が賢いとマウントをとりたくなることもあるだろう。

 それを恥じることはない。

 そうして心が動くのは、あなたが人間である証拠だ。


 こうしたネガティブな心の動きを隠すのに「面白かった」と自分にまで嘘をつくのはやめよう。

 あまつさえその嘘を感想などという形でネットの片隅に書き込んで悦に入るのは作者に対する非礼だと気づいた方が良い。

 自分の心の思うがままに、存分に罵ればいい。

 ただし、これをあたりかまわずまき散らすのは八つ当たりだと心得よ。

 あなたの心の動きはあなただけのものであり、他人には全く無関係なものなのだから。


 さて、ここまで読んでお気づきになられただろうか。

 私は「ネガティブな気持ちを隠すな、罵れ」とは書いたが「心からの称賛を与えてはいけない」とは一言も書いていないはずだ。

 罵りと称賛というのは対極の存在でありながら実に近しい性質のものである。

 人の感情とは表裏一体、実際の対人関係で「こいつの○○は嫌いだけど○○は好き」という感情が存在するのと同じように、どんな作品も「○○はつまらなかったが○○は面白い」というフォーマットで分解することができる。


 感想を書くため『だけ』に、この面白かった部分のみを抽出するのが『美辞麗句感想』である。

 これの良くないところは人間関係でいうと「あなたはいい人なのよ」という思想の押し付けをして相手の嫌な部分を封じてしまうのと同じ、ネガティブな裏の部分を受け入れることができていないのに相手の全てを知ったような気になってしまうということだ。

 つまり自分の中に生まれたポジティブな感情の上澄みだけを掬って勝手に他人の作品像というものを作り上げ、それをただ垂れ流しているに過ぎない。

 だからイラっとくる。


 他人の作品を愛するということは他人を愛するのと同じ、ネガティブや傷も受け入れてなお愛しいと思うことを指す。

 だから丁寧に書かれた感想は『完ぺきではないけれど私は好き』ということを強く訴えてくる。

 大仰な感想のように『この作品が面白いのは真理であり人類共通の認識である!』みたいな論調をとるのではなく、『私は個人的にですが』というスタンスを枠外にとる。

 欠点があることを知っていながらも相手を傷つけないように慎重に言葉を選び、自分がどれほど面白いと感じたかを切々と語る、そんな感想文にあたったときは心底からの感動にうちふるえて止まない。

 それは感想を書く者が、欠点まで含めた作品の全てを受け止てくれた証であるからだ。

 さらには、それでもなおあふれる好きをつづった一種のラブレターであるからだ。


 だからこそ他人の作品は罵れ。

 自分の中に生まれたネガティブな感情をまずは言語化しろと言っているのである。

 時には一つも罵るところがないと思える作品に出合うかもしれない。

 もちろん、それが心の底からの感情であれば恥じらうことなく誉めそやせばいい。

 要するには『感想とはポジティブでなければいけない』という思い込みを捨て、さらに『どんな作品にも必ず傷がある』という前提条件を置いたうえで、それでも褒め言葉しか出てこないものに出会ったなら遠慮なく褒めちぎればいい。

 それは単なる美辞麗句を並べた上っ面だけの『本心』ではなく、心の底から湧き上がってくる『真心』というやつなのだから、恥じたり疑ったりすることなく言語化すればいい。


 意外に思うかもしれないが、『どんな作品にも傷がある』はずなのに、褒め言葉しか出てこないような作品はいくらでもある。

 むしろそういった作品の方が多いのではないだろうか。

 そのヒントは『恋は盲目』。

 実に簡単、細かな粗に構っていられないほど、あなたがその作品を好きだというだけのこと。

 その気持ちは何もおかしなものではなく、誰からも否定されるべきではない。


 それと同じように、あなたが褒めちぎる作品を罵る人の気持ちも否定されるべきではない。

 あなたがどれほど好きな恋人でもそれが全ての人にとって『恋人』とはなり得ないのと同様、この世の全ての人に愛される作品などないのだ。


 ところが『感想はポジティブなモノでなくてはいけない』と思いこんでいる人は、えてして他人の『酷評』を否定しがちである。

「私が涙を流すほど感動した作品を理解できないなんて、あの人は人の心がないに違いない」というやつだ。

 もちろん思うだけなら勝手だが、他人との距離感が近しいネットでは、『ポジティブな感想こそが正義』を刃のように振りかざして相手に斬りかかってゆくような、そんな無法者もよく見かける。


 罵りながら読むことを覚えると、この他人に対する非許容がどれほど恥ずかしいことかに気づくことができるはず。

 所詮あなたの中にある評価基準はあなただけのものであり、それが絶対的なのはあなたの心の中でだけなのだ。

 同様、他人の評価基準はその人個人の中でのみ絶対的なのであり、この世の万人に共通する『絶対的な評価基準』などありはしない。

 あなたの感情が誰からも否定されるべきではないのと同様、あなたは他の誰の感情をも否定してはならない。


 この心構えが身につくと、作者として書いた何かに『酷評』がついた時も慌てふためく必要がなくなる。

 自分の作品を『酷評』されたときに慌てふためき、悩み、ネット上に「ひどいことを言われた」と書き込んで同情を引こうとする作者の、なんと多いことか。

 せっかく自分の作品に対しての評をくれた、つまりは大事な読者の一人である者を罵り倒して否定する作者の不許容は、それはときにおごりとも見える。


 まあ、わからなくはない。

 感想欄に書き込まれた否定的な言葉を『絶対的な否定』だと思っているのならば、世界の全てから自分の作品を否定されたのと同じこと、自分の腕に自信をなくし取り乱すのも当然かと思う。

 しかしその否定が『誰かの個人的な判断基準による個人的な否定』だと知っていれば、取り乱すことは何もなかろう。

 どんなに人気のアイドルであっても、どんなに感動的な作品であっても、必ず否定的な人はいる。

 肯定があれば否定がある、それは極々当たり前のこと。


 問題は『作者個人の判断基準』を読者に対する『絶対的判断基準』として押し付けようとするあなたの心にある。

 作者がどれほど面白く書けたと胸を張っても、それは作者個人の判断基準でしかない。

 そして前述したように人間である限り必ず『傷のない作品』を作り上げることはできない。

 自分が書いた作品に対する愛情が、自分自身の作品の傷を見えなくしているのだから、作者自身の判断基準というものはとても甘い。

 例えていうならば付き合いたての恋人に対する盲目的な恋心に似ている。

 だから、その心を絶対的基準として設定してしまえばどんな些細な否定も許されないものとなる。


 付き合いたての可愛らしい彼女のことを「いや、ちょっと鼻の形が変じゃない?」とか言う男がいたら、あなたはその相手に腹を立てるだろう。


 しかし他人の作品を罵る読み方を知っていれば、この世には全肯定がないのと同じように全否定もないのだということが感覚的にわかるはずだ。

 あなたがもらった酷評はあくまでも誰かの個人的な評価基準による個人的な好き嫌いでしかない。


 もちろん、それに腹を立ててはいけないという道理はない。

 自分の大事な恋人をブス扱いされたのだから、当然腹も立つだろう。

 だからといってその人の個人的な評価基準を否定してはいけない。

 特に作者であれば、偉そうに『作者の判断基準こそが絶対!』なんて胸を張ってはいけない。

 腹が立ったなら相手を言い負かすべく舌戦を挑んでもいいし、そっとブロックしてもいい。

 しかし、その根幹に作者の価値観を絶対化する心が透け見えるのだけはいただけない。

 相手の評価基準が個人的なものであり、自分の評価基準もまた、自分だけの個人的なものであるということだけは、常に忘れてはいけないのである。

 特に作者であれば。


 しかし作者がするべきはあくまでも『許容』まで。

 変に下手に出て否定が肯定になるように自分の作品をいじくり回す必要も、またありはしない。


 創作の仲間などができると「読者の言ったとおりに全部を修正しなくてもいいんだよ」と一度くらいは言われることだろう。

 これは手抜きでも慰めでもなく、真理だ。

 なぜならここまで読んだあなたはお分かりだろう、その否定の基準は『個人的なもの』だからだ。

 神でもない限り、この世の全ての『個人』と相対することはできない。


 否定的な意見を『個人的な評価基準』によるものだと一度許容している人ならば、この全てを修正することは数え切れないほどいる『個人』に対して個別対応を行うのと同じだと知っている。

 つまり一人一人にオーダーメードの物語を書くのと同じであると。

 現実的に考えれば土台無理な話である。

 ところが否定されることに慣れていないあなたは、『否定意見さえ修正すれば自分の作品は完全なものになる』と考えるだろう。

 無駄である。


 罵りながら読むことを覚えると、どんなに名作と呼ばれるものであろうとも傷があるのだということに気づく。

 それはもちろんあなただけの個人的な評価基準による罵りだが、『名作』の基準が必ずしも『完全』ではないということを理解するだけでも、これからの心構えが違ってくる。


 私は村上春樹が好きだが、読んでいる最中は「ハルキ涙目になるんじゃないの」ってくらいけちょんけちょんに貶す。

 自分ではイカしてると思ってのことであろう独特のオノマトペを貶し、厨二的な表現を貶し、貶しのオンパレードである。

 しかし行間から滲み出る『真面目さ』をこよなく愛してもいる。

 珍奇なオノマトペも、文学なのかハードボイルドなのかわからない書きまわしも全て作者の真面目さの証拠であり、スッゲーくそ真面目な顔で真剣に書いているんだろうなと思うととてつもなく愛おしい文章なのである。


 つまり、罵りは完全否定ではない。

 むしろ罵ってさえなお読んでしまう『魅力』を炙り出すテクニックである。

 罵りながら読むことを覚えると、世に名作と呼ばれるものほど『愛されるべき傷』があることに気づくだろう。

 つまり世に愛される作品を書くというのは、『傷があっても愛されるだけの魅力』を作品に込めることなのである。

 それに気づくと、否定意見の全てを虱潰しにすることがいかに徒労であるかに気づくだろう。


 そしてこれを利用して他者の作品に感想をつけることもおすすめである。

 つまり罵りの部分を隠して、なお愛せる部分だけを中心に構築する。

 同じように愛せる部分を書き出す美辞麗句文章と決定的に違うのは、文章の表面上の肯定部分だけをさらって書くのではなく、『否定部分も一度取り込んでなお肯定するべき部分』が炙り出されることだ。

 言葉面は肯定のみでも、そこにはきちんと否定が内包されている。

 それゆえに他人から見たときにも嘘くさくは見えない。

 評価基準はあなた自身の個人的なものであっても、どこを褒めのポイントとしているのかが明確であれば、その基準がどこにあるのかを推察しやすい。

 それゆえに感想を送られた作者も納得するであろうし、共感もされやすい。


 このように罵る、つまり一度否定することはこと読書においてはとても有効な手段なのである。

 ところが『罵る』という字面を見ただけで、世間の『心ある人たち』は眉を顰める。

 これは『罵る』という行為がネガティヴなものであるからだ。

 ここは否定しない。


 しかし他人に迷惑をかけぬネガティがそんなに悪いことだろうか。

 人間とは誰しも表裏一体ネガポジ混在呉越同舟な心理を持つ複雑な生き物であるというのに。


 私たちはすでに世間から『ポジティブは良いこと、ネガティヴは悪いこと』という洗脳を受けてしまっている。

 小さい頃から『明るく、誰とでも仲良く、素直であるのが良い子』だと教えられ、『いじめは悪いもの』『ウジウジ悩むのは心が不健全な証拠』などなど、数え上げればキリがないほどの『ネガティヴとポジティブの理想ケース』を教え込まれる。

 これは深く深く心の無意識領域にまで浸透し、私たちは自分の中にあるネガティヴを否定することこそが『良い子』の証なのだと思い込みすぎているのではないだろうか。


 しかしネガポジは一対のものであり、どちらか片方を否定すればもう片方も否定することになるという難しい関係にある。

 写真のネガに傷をつければポジに焼いたときにもその傷跡が浮かび上がるという、本来的なネガポジの関係そのままの性質を持つのだ。

 故に自分の中にあるネガティヴな感情を否定したままでポジティブな感情だけを肯定することなどできない。

 うらをかえせば、ネガティヴな感情の肯定は、そのままポジティブな感情の肯定でもあるのだ。


 だからこそ誰にも迷惑のかからぬ自分の心の中でくらいは自由に、自分のネガティヴな面を存分に肯定してやればいい。

 その具体的な行動が『罵る』なのであり、その対象が『読んだ文章』であるならば、誰も傷つくことはない。

 ここまで読んでおきながら「作者が傷つくよ」というのはおたんちん、私は作者を罵ることを良しとは一言も言っていない。

 罵る対象はあくまでも文章であり、その文章から読み取れた範囲内のことだけであり、罵るという行為によって自分自身のうちに起きたネガティヴな感情が『自分個人の持ち物』であることを自覚しろと言っているのだ。


 ポジティブこそが正義だと教え込まれた身には、最初はとても難しいことかもしれない。

 しかし腹の底にどろりと溜まったネガティヴ『も』自分の感情の一部なのだと自覚することは、特にものを書く人間には大事な感覚である。

 作者の側に回ったのなら、他人の作品を両手放しで褒めるようなことはやめたがいい。

 また、罵ることにばかり傾倒して偽悪的に振る舞うことも、両手放しと同じぐらい非生産的で恥ずかしい行為だと心得たがいい。

 罵ることによって『自分の中のネガティヴ』を肯定してやる、これが『罵りながら読む』の正しいスタンス。


 誰かに与える感想を、そして自分自身の作品をレベルアップさせるために『罵りながら読むこと』、これを私は強くお勧めするのである。

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