残量12

「メーデー、メーデー、メーデー。こちらはキャプリコン7、キャプリコン7、キャプリコン7。メーデー、メーデー…―」

   

〈何だよ?これはそういう決まりごとがあるんだよ。定期的に呼びかけるっていう。俺だってまだ完全に諦めたってわけじゃあないんだぜ。こんな時は藁でも何でもいいから掴みたくなるもんなんだよ。だからな、しばらく経ったらまたそうやるわけだ〉

   

「もう一〇を切ったか…」

 

 俺は思わず左腕の端末の表示を何度も見つめた。そこに並んだ数字は、まさに命のカウントダウンそれそのものだった。数字が沈黙の内に一つまた一つと小さくその身を落としていく様は恐ろしいようで、時折必ずやって来るその時を受け入れようとしているような、どこかもの寂しい感じがした。その感覚は、以前にもどこかで…、あの青い大気の内側でも感じた記憶がある。そして、まだこうやって自分の運を信じて心折れずに居られるのも、その時の経験がまだ俺に味方しているからなのかもしれない。

 

〈あれは…、確かもう、今から十五年以上も前だったかな。あの時はしっかりトレーニング続けてたし、何より若かった訳だから、それはもう、よく無茶をやったわけだ〉

 

〈決してあれはそんなにヤバい山じゃあなかったんだけどね。きちんと準備さえすれば、ね。さっきも言った通り、そん時の俺は今よりももっと無鉄砲な若者だった訳で、トラブルの原因ってのはね、ちょっとばかしその準備ってやつを怠ったってことなんだ。その前にも中途半端な山に何度も登ったことがあって、その成功体験が、

その自信過剰にさらに拍車をかけたっていうことさ。運が悪いことにね。よくもまあ、そんな馬鹿なことをやったなって、今でもそう思うよ、正直〉

 

〈俺はそこでも、ちょうど今日みたいに一人でクルーから離れて先行しちまったってことで、よくは憶えていないんだけど、その時もなんだか、クルーのペースに合わせるのが退屈に感じたんだろうな、きっと。今日のことから推測してみるとね。そうだろうと思うよ〉

 

〈まあ、とにかく俺はクルーよりも先に頂上の山小屋まで登って、彼らをコーヒーでも飲みながら出迎えてやろうかと思った訳だ。わかってるさ、くだらないことだってことはね。だから、もう十五年以上も前だって、さっき言っておいたんだ〉

 

〈それから俺が犯したミスはまだある。それは、軽装だったことだ。その時はトレーニングをしっかりやってたと言ったろ?可笑しなことに、俺はそこをほとんど駆けるようにして登って行こうとしたんだぜ〉

 

〈最初は何だって調子が良いもんだよな。あっという間にクルーは見えなくなった、つまりそれだけ先行したんだよ。あっけなくね。だがね、七分目を過ぎたあたりから、何だか雲行きが怪しくなってきやがった。ああ、これはね、比喩的な意味と、文字通りの意味の両方で雲行きが怪しくなったってこと。つまりは、天候が急変したんだよ。何かの悪戯みたいにさ。あれだけ動かしていた身体が、汗一つ掻かなくなったんだよ。信じられるか?その一時間の間にだよ。そうだな、あの前後の温度差は一〇℃以上だったろう、少なくとも〉

 

〈そして、気が付くと俺の身体は震えだしていたんだよ。さっきまであれだけ温かかったのに。そんでもって、予想外なことは、ただのそれだけじゃ終わらなかった〉

 

〈視界がみるみるうちに悪くなっていくんだ。相当に濃い霧だった。もう雲の中に居るのかと錯覚するぐらいで、伸ばした手の先は何にも見えやしない。こう、指先が消えていくようだったね。まさか、昼間っからそんな風に手探りで山の中をうろつくことになるとは思いもしなかったよ〉

 

〈でもね、まだそれで終わりじゃあないんだよ。それで、これが一番ビビっちまったんだけど、それは強風だった。それもただの風じゃあないんだな、これが。

何かが飛んでくるわけ。硬いものが吹き付けてくるんだよ、全方向から〉

 

〈雹だよ。小さなキャンディをぶっかけられるみたいだった。そうなると霧もくそも無いんだがね。それでさ、その時にもう一つ気が付いた、ゾッとすることは…、何だと思う?声がね、自分の声が聞こえないんだよ。風の音で、それ以外の音が何一つ聞こえなくなったんだ。叫んだりもしたんだけど、耳から入る音は、ただ風がびゅうびゅうと鳴る音だけでさ、辛うじて、喉の振動が頭の中を伝わって、何となく声が聞こえるような気がするだけなんだよね〉

 

〈凍えながら、その上視覚と聴覚を失って、全方向からキャンディを投げつけられてると考えたらどうだい?あのサマーだって、きっとパニックになるぜ。俺はもうその時、初めて自分が死ぬかもしれないと思ったよ。不思議なことに、恐怖はあまり感じなかったな。もうだめかもなって、ただ冷静にそう思ったんだ。ちょうど、今もそんな風に思う瞬間があるんだよ、実は〉

 

〈でさ、その時はとりあえず勘を頼りに歩いたんだ。山小屋がどこかにある事は確実だからさ。道を間違ってしまったら、まあ、その時はもう、それまでだろうなと考えたりもしたかな。結局その道の先に山小屋は待っていた。ラッキーなことにね。大袈裟にも、俺はまだここで死ぬ運命ではなかったってことか、とすら思ったもんだ〉

 

〈けどね、今回はどうだろうね。だってさ、どう見てもこの先に山小屋はねえよ。ただの真っ暗闇…、どこまで行ってもね。そんでもって、残念なことに俺は自分の行く先を決めることは出来ないんだ、あの時とは違ってね。手足をバタつかせながら、こうやってただ干草かなんかみたいに流れてゆくだけさ〉

 

「こほん、メーデー、メーデー、メーデー。こちらはキャプリコン7。誰か居ないか?こちらはキャプリコン7。サマー!聞こえるか!」

 

〈さあて、どうしたもんかね。うちはすぐそこに見えてるってのに、あそこへ降りる方法がないってのは、悔しいもんだぜ、正直〉

 

 俺はいつごろからか、命のカウントダウンが切り替わる瞬間をこの眼に焼き付けようと躍起になっていた。この無感覚な世界では、その数値の減少の度に起こる、モメンタリな緊張とその後方で黒々と待ち受けている不安が唯一俺の死を反証して、絶縁された浮遊物をまだここにこうして、生命たらしめているのだった。

 

 この空虚に漂う肉体の中で絶え間なく放たれるパルスが、この脳内で常にその居場所を変えながら連続することが意識とされるのなら、死と言うものも常々そう仰々しいものではなく、電気化学反応の消沈という、ほんの些細な事実に過ぎないのかもしれない。

 その辺のデブリとこの俺を分かつものは、つまり、この窮屈なパッケージに包まれた全身を駆け巡るケミストリがあるかないか、ただのそれだけで、もうじき俺もそのシステムの重要素を一つ失うことで、長年諦めなかったサイクルをとうとう止めざるを得なくなるのだろう。

 

 皮肉にも、この残量が尽きた時、いよいよ俺の生命は生存のクライマックスを迎えることになる。願わくば明け方の二度寝のような快感と共に終わりとしたいものだったけれど、俺みたいなひねくれものの場合はそんなのとは似ても似つかないような苦い終幕が待ち受けているのだろうか。どちらにせよ、その後は身体中の反応が徐々に止んで、終いに有機物デブリへと成り代わるだろうということは何よりも明らかだった。

 

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