キャプリコン・セブン

SI.ムロダ

残量31

 唯一聞いたその音は、この指先が文字通りに目と鼻の先に薄く張った境界に阻まれた時のものだった。


「くそお」


 とうとう自分の汗が目に入るのも止められないほど落ちぶれたって訳だ。仕方なく、俺は狂ったようにこの情けない目を開閉させて、過多に張り付いた水分を目尻の方から追い出した。


 ようやくはっきりしてきた世界を、その一面の暗闇を精一杯に見渡してみると、ここでこうしているただ一つの利点は、誰にもさっきの不細工な瞬きを見られなかったことぐらいなんだということに気付かされる。

   

〈本当にただのそれだけなんだ。それ以外は、醜態を誰にも見られないで済む以外の利点なんてここには何一つとしてありゃしない。誓ってもいい〉

   

 気分が落ち着いてくればそれはそれで、今度は未だに慣れない樹脂臭い空気が、この透明の境界線の内側で俺と一緒にスーツに満たされているってことを思い出して、残された時間を計算するなり諦めと慰めの波にさらわれたような気になる。

   

〈さっきまで、体が一周するごとにそこに見えたステーションも、今は俺があっちを見つけようと目を凝らしたりでもしない限りは自分から姿を見せようとはしないのさ。信じられるか?俺は六〇〇日もあそこにいたのに。おい、六〇〇日だぜ〉

   

〈ステーションのためなら、それこそ、掃除、改良、点検、何だってやってやった。ついこの前だって空調の整備をしてやったってのにさ。そりゃあグラウンドからの指示だってのは俺もわかってるさ〉

   

〈いいや、何も恩着せがましく言うつもりなんかねえさ。ただ、これで御終いだとわかっちまうと、人間誰だって文句の一つや二つ、泣き言の三つや四つも言いたくなるもんだろ?だってさ、見て見なよ、これ。ずっと右回りに回転してるだけの一日を経験したやつが言うんなら、俺も素直に聞いてやらないことはないがね。そんな飛行士は稀だ。彼らは…結局誰も戻らなかったよ。慰めに勲章なんか貰って、それでその内に訓練資料の隅にでも添えられるのさ〉

   

「メーデー、メーデー、メーデー…。誰か、誰か聞こえないか、位置は220、34、6790。繰り返す、220、34、6790…」

   

〈それは勿論わかってる。他のクルーが居た区画がパージされたってことぐらいな。俺だってあの訓練は何回も、そりゃもう、夢に見るくらいやらされたんだ…〉

   

〈俺が言うのもなんだが、あいつらは優秀だから、きっと訓練通りにやれたさ。なんだ、ほら…、サマーがきっちりと仕切って、いつものように、全員がマニュアル通りに手順を実行する。当然な。それでもって、皆仲良く揃って、今頃はもう降下コースだろうさ〉

   

〈ああ、俺以外の全員は揃って無事だろう。作業を先行した俺以外はまだ、ブロック6に居た訳だからな。ブロック6なら緊急脱出用のポッドまでそう離れちゃいないんだし、俺が吹っ飛ばされる時に見た限りだと、あっちにデブリが飛んでくのは見なかったしな〉

   

〈サマーが俺を助けに戻って来ると思うかい?答えはノーだね。断言したっていい。やつは必ずマニュアル通りにことを進めるさ。そんでもって、地上に戻った時には、

クルーを危機的状況から救った英雄だかなんとか言われてさ、来年には早速もう一人くらい赤ん坊が生まれるってわけだ。もしかしたら双子かもしれないぜ?セレーナも待ち焦がれているだろうしな。はは、まあちょっとばかり冗談が過ぎたな〉

   

〈まあ、とにかく…。とにかくだ、ヘイリーには申し訳なく思うね。もう四年生になったところだから、卒業式までにはお父さんも戻れるだろうって、こないだ話したところなんだ。参ったね…。まったく〉

   

〈お、俺がここに上がる前は、まだ自転車の練習をしてたくらいの、ほんの子供だったのにさ、はは、補助輪なんか付けて走り回っているようなね。ところが、最近はクラスの男の子からちょっかい出されて困るんだとかいう訳だ。しばらく見ないうちに、もう立派なレディって感じでそう言うんだよ。ほんと面白いくらいにアンジーに似てきたね。全く…、怖いもんだね女っていうものは。俺の誕生日に選ぶマフラーなんかの趣味まで同じなんだから、信じられないね〉

   

〈あ!待てよ、たしかに今…、なんか…、何かが聞こえる…。地表からじゃねえな、案外、俺はまだ見放されてないのかもしれん…〉

   

「メーデー、メーデー、メーデー。聞こえているか?こちらはキャプリ…」

   

〈なんだよ、くそ!ステーションからのノイズかよ…。一瞬、あのサマーが柄にもなく捜索に戻ったのかと思っちまったよ。そうだったな、基本に忠実な男、キャプテンサマーがそんな真似するはずないだろうに。俺もサマーに命乞いなんかするようになるとは思いもしなかったが、確かにやつの腕前は一流だ。それは俺も認めるさ。なんたって空軍で何回も表彰台に上がってるような奴だからな〉

   

〈それから、なんだっけ…?そうそう、アンジーには俺のことで、これからまた迷惑かけると思うと、もう随分と、こんな風にあまり話さなくなっちまったが、つまりは…本当に感謝してるのさ。ヘイリーが生まれた時も、出張でその場に行けなかったし、お義父さんが亡くなった翌日にはもうここへ上がっていたんだからな、俺は〉

   

〈家の事は全部彼女に押し付けて逃げたみたいに思われたって仕方がないってことなんだよな、実際。挙句の果てには、そのまま何にも言わずに消えちまう上にさ、彼女は何も入ってない空っぽの棺に花を手向けることになるんだよな。ああ、これほど酷い話もないよ。まったくだ…〉

 

 こうして永遠に回り続けるだろう俺のケツの下には愛すべき故郷が悠々と広がっていた。俺の身体の原材料の全てはあそこで生まれ、そして、行く行くはこの俺もまたあそこへ元通りバラバラになって戻っていくはずだったんだ。

 

〈ほら、子供がブロックで何か組み立てて遊んでさ、マムがもう夕食だって呼びに来ると、その作った妙な形のやつを、またバラバラにして元のボックスの中へてきとうに放り込んじまうような、何かそんなようなことなんだよね俺たち人間だってさ〉

 

〈オキシジェンの残量が少ないから、つい弱気になってそう言ってるんじゃあないんだよ俺は決して。最初から、ここへ来た時からさ、時々考えてたんだよ、たまにね。

俺にだって眠れない時ってのがあるんだよ。六〇〇日もこんな所にいりゃあね。そんな時はいつも、何重にも合わさった特殊ガラスの一番内側から、ひっそりとあの青いでっかいのを眺めてやるんだ。そりゃあもう、とことん疲れ果てて眠っちまうまでね〉

 

〈そんで…、あ、そうだ。光の球の話だ。ニュースで見る衛星軌道の映像は修正がかかってるし、俺たちクルーも守秘義務ってのに同意しちまってるもんで、誰も言わないけどさ…。ああ、時々リタイアした元クルーが随分と後になってそのことを話したりしてるのは、勿論、俺も知ってるさ。まあ、とにかくだ、あれはそこら中に居るぜ、マジでな〉

 

〈ああ、そりゃあ、でっかいタマからちっこいタマまで色々だ。とにかく、あいつらはこっちを何時でも、起きてる時も寝てる時も、それからクソを垂れてる時だって監視している訳なんだ。クルーの方も毎日見てると段々と慣れてくるんだよ。ああいうもんの研究家の連中からしたら、これはとんでもなく羨ましい状況なのかもしれないがね。まあ…、とにかく奴らが何かを仕掛けてくるってこともないし、ただそこら辺を飛び回ってるだけなもんだから、ついつい俺たちも油断しちまってるのかもね。

もしも何かされたって俺たちは逃げることも出来ないし、かと言って奴らを追い払う手段も持ち合わせていないんだからな〉

 

〈奴らがこっちを窺うように、俺たちもただ見てるだけってだけさ。恐らく、これで最後になりそうだからさ、あのタマのことは是非ともこの辺でぶちまけときたかったんだよね、正直。ああいうものは本当に居るってことを。そんでもって、常に頭の上を飛び回ってこちらを見ているってことをさ…〉

 

〈ついでにこんな感じに放り出された俺の事もどこかから見てるかもしれないんだからな、救助してくれりゃあ、ほら、ちょっとした頼みごとを聞いてやらないこともないんだがね、いや本当に。でもまあ、そうはしないだろうね。なぜって、そりゃあ光の球の連中と言うのはそういうもんだからさ。あのさあ、何度も言うようだけど、俺は六〇〇日も…、オーケー。もうよそう…〉

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