第6章 平穏

 


 康平二(一〇五九)年卯月下旬。衣川並木屋敷。


 黄海の合戦より一年半後――。


 何時の頃に植えられたものかは定かではないが、この館が並木屋敷と呼ばれている所以は、屋敷周辺を囲むように丁度今満開の花を綻ばせている桜並木にあるとされている。


 所用を終え、帰りがけに桜の花々を眺めていた一加が蔵の前を通りかかると、仕事中の経清の姿を見かける。倉に納められている貢納物の確認をしているらしく、帳簿と符票を見比べながら思案顔で顎を撫でている。経清の監督の下、何人かの雑仕夫が忙し気に蔵から出入りしていた。

一番上の姉の夫である彼は、一加からすれば義兄に当たるわけだが、そういえば、今までなかなか言葉を交わす機会がなかった。

 声を掛けると、帳簿から顔を上げた経清は、強面の頬を微かに緩め目を細める。

「花見には良い日和じゃ」

 口を開けば気さくに話も弾むが、それでも解けない眉間の深い皴は素の面らしい。

「いつもお忙しいご様子にお見受けいたしまする」

「なに、忙しいのは幸せなことじゃ。今付き合わせしているのは昨年度より我らの管轄の下に入った田畑から納められたものじゃ。今までは国府の徴納方式に合わせ管理していたが、これからは我らが直接官物を取り立てることになる。官符も我らが発行した新しいものと差し替えることになるのじゃ」

 そう言って見せてくれたのは、今まで国府が発行していた赤い陸奥国印章の入った官符と、印章が記されていない新しい符票である。

「これまで長きに亘り、この地の民らは真人に劣る俘囚として扱われ、朝廷やその手先たる国府に只搾取されるだけであった。だが、陸奥の民らが培い得た実りは、陸奥の民らの為に還元されるべきものじゃ。徒に都の公卿らを肥えさせるために費やされるような既存の在り方を改めねば、いつまでもこの地の民らは豊かにはなれぬ。それを思えば多忙といえど苦労にはならぬよ」

 そう言って穏やかに笑ってみせるものの、

「とはいえ、こうも日和が良いと、つい仕事を中座して花を眺めに漫ろ歩きたい誘惑には駆られてしまうが。いずれ、このまま上手くいけば国府や朝廷と和睦を模索する段に進むことになろう。それが片付いてからゆっくり妻や子らと花見でもしたいものじゃ」

 頼義との開戦の年に生まれた経清と有加の子は、今年で三つを数えていた。


 


 ……安倍氏率いる陸奥勢を前に劇的な大敗北を喫した後も、頼義は決して陸奥攻略を諦めたわけではなかった。


 黄海の合戦より一月余り後の天喜五年十二月、頼義をはじめ源氏側の強い要請が功を奏し、頼義は引き続き陸奥守に再任される運びとなった。これは事実上、朝廷が頼義の安倍氏討伐を公に認めたことに他ならない。

 これに再び自信を得た頼義は、凄まじい復讐の炎を滾らせながらすぐさま周辺諸国へ協力を要請し、壊滅状態の国府兵力を整え、再度奥六郡への大攻勢をと試みたものの、事は全く思うように進まなかった。


 ――同年十二月の国解に曰く、「諸国の兵粮・兵士、徴発の名有りと雖も、到来の実無し。当国の人民、悉く他国に越えて兵役に従はず。先に出羽国に移送するの処、守の源朝臣兼長、敢て糾越の心無し。裁許を蒙るに非ざれば、何ぞ遂げん云々」と。


 右は『陸奥話記』において記されている頼義が朝廷へ送った愚痴否々報告書である。

 朝廷の名の下に協力を要請しているのに誰一人兵糧を送ってこないし兵も貸してくれない。多賀城周辺の若者宛てに召集令状をばら撒いても皆嫌がって他の国へ逃げてしまう。出羽へ逃走した兵役忌避者を取り締まるよう出羽守に要請しても全く言う事を聞いてくれない、というような内容で、これを受けた朝廷は翌年四月に出羽守を更迭し新たな者が着任した。しかし、この国司もまた頼義の要請に全く耳を貸そうとしなかったのである。

 かつて鬼切部の戦で国府側に与し戦った前秋田城介平重成やその息子貞成をはじめとして、出羽周辺では桓武平氏勢力が大きな力を持っており、周辺の豪族勢力ともお互いに強い結びつきを持っていた。既にこの時代から源氏と犬猿の仲であった平氏諸党らは、頼義が陸奥に着任した当初から国府には一切協力しない旨予め申し合わせていたのである。それでなくても、安倍と密接な血縁関係を持つ巨大勢力清原一門を刺激するようなことは出来れば避けたい。

 何よりも、源氏が誇る精鋭騎馬群を一千騎以上も率いて挑んだ黄海の合戦にて完膚なきまでに叩きのめされたというのが大きい。ホラあいつらやっぱり負けて帰ってきゃがったよ、と出羽の平氏らは腹を抱えて大笑いしたという。


 歯軋り喧しい頼義へとどめとばかりに追い打ちをかけるかのような一大事が起こったのはその最中の事。


 突如、安倍の客将であり国府の離反者、藤原経清が自ら胆沢の精鋭部隊を率いて衣川以南の穀倉地帯を襲撃、国府勢を蹴散らし安倍の支配下に置いたのである。


 元々安倍寄りであった周辺の俘囚らはやんやの喝采で彼らを迎え、白衣を背に靡かせ馬を進める胆沢兵士らの凛々しさに胸を射貫かれた乙女らは、兵士らの兜を飾る野花を挙こぞって手折り、その様子を伝え聞いた国府の若き敗兵らに妬涙の手巾を噛ませたという。


 そういった諸々を経ながらも、この一年余りの間、奥六郡をはじめ陸奥の地には久しぶりに穏やかな一時が訪れていたのである。




 同日夜半。金ヶ崎西根、安倍氏居城。



 居室の前の縁側にて、十三夜の小望月を眺めながら、一加はぼんやりと物思いに耽っていた。

 昼間の陽気の名残のような草木の若芽の青い香りが微かな夜風に薫っている。

 床に就く気になれぬまま漫ろ気を持て余す一加には、その仄かな香が柔らかくて涼しい。


 昼間の経清の言葉が、ずっと頭に残っていた。


 ――このまま上手くいけば国府や朝廷と和睦を模索する段に進むことになろう


 もし和睦が叶ったとしても、一度敵味方に分かれてしまった者達は、一体どうなるというのだろう。


 そんなとりとめなきことに漠然とした思いを馳せていると、渡り廊下の向こうから、既に床に就いているはずの双子の一人がこちらに歩いてくるのが見えた。

「蘿蔔?」

 歩み寄ってみると、蘿蔔は真っ赤に目を泣き腫らし、しゃくり上げながら一加にしがみついた。

「姐さま……」

「どうしたのかえ?」

 ひっく、ひっく、と啜り泣きながら声を忍ばせるように訴える。

「私は怖うございまする……」

 そう偲び泣きながら、握り締めていたものを、躊躇いながら差し出した。

「……とても、怖うございまする」

 ……それを見て、一加は察した。

 そして、改めて姉妹のように共に育った侍女を見つめる。

(……そうか。この子らも、もうそんな年頃になったのか)

 いつの間にか、もう誰も双子らのことを女童と呼ぶことはなくなっていた。

「大丈夫。……私も、お前と同じぐらいの頃だったから」

 自分の体の変化に怯え肩を震わせる侍女の背中を撫でてやりながら微笑んだ。

「今日は、久しぶりに一緒の布団で寝ようか?」

 蘿蔔を抱きしめながら囁く。

 腕の中で、少女もスンと鼻を啜りながらこくりと頷いた。


「えへへ」

 布団に入ると、すぐに甘えるように一加に抱きついてくる。

「姐さま、お母さんの匂いがいたしまする」

「何だか知らぬうちに、随分大きくなったわね、お前」

「姐さま、くすぐっとうございまする」

 苦笑する女主人の胸元に顔を埋めながら、先程の怯え切った様子が嘘のように、幸せそうに蘿蔔が頬擦りしてくる。

「温かくて、いい匂いがいたしまする……」

 不意に、胸元がじわりと熱くなる。

「……お母さん。……お父さん」

 一加の胸に顔を埋めながら、蘿蔔が声を忍ばせて泣いていた。


 双子達は孤児であった。

 聞いたところによると、元は武家の父と母と共に多賀城の近くに住んでいたが、鬼切部の戦で父を喪い、間を置かずして母を病で喪い、身寄り無く人買いの手に渡っていたところを、頼義着任の出迎えの為国府を訪れていた頼時が目を留めて、一加の侍女として引き取ったものらしい。


 いつしか、蘿蔔は一加の腕の中で寝息を立てていた。

(……本当に、知らぬ間に大人になってしまう)

 いつも後ろにくっついて離れようとしなかったのに。


 ――あの女童達、今日は居らぬようだが?


 ふと油断すれば、あの人の言葉ばかりが思い出されてしまう。


 ――早いな。初めてそなたと逢うてもう一年も経つ。あっという間じゃ



 蘿蔔を起こさぬように顔を上げ、外を眺めやると、小望月に叢雲が掛かっていた。


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