第2章 阿久利川事件 5

 衣川の畔に伸びる雑木に囲まれた小道を漫ろ歩いていた義家がふと歩みを止め、人心地ついたようにホッと息を吐いた。

 漸く汗も引いたところである。

 見上げる空は知らぬうちに茜色に染まっていた。

(本当に静かなところじゃ)

 虫の音や草の葉のさざめきに静寂の音を聞いたのは何年振りであろうか。

 ヒグラシの声が漸く涼しく感じられる。

 ふわり、と夏風が夏の小道にそよぎ、橡の梢の葉を揺らす。

 ……娘の袖が舞い、美しく剣が閃く様が浮かぶ。

 右手の崖下を見下ろすと、キラキラと衣川の潺が夕日を受けて煌めいて見える。

 ひらひらと風に乗った立羽蝶が、風に乗って目の前を横切っていく。

 ……扇を翻しながら、挑むようにこちらへ流しかける娘の強い眼差しが蘇る。

 席を外してからも尚、娘の剣舞を踊る姿が、娘の上気した細い項に浮かぶ玉のような汗の粒や、夏衣を閃かせるたびに薄絹にくっきりと張り付き浮かぶ肌色の隆起が、どうしても瞼にちらつく。

(ああ、……俺は一体どうしちまったのか!)

 なによりも、まるで義家達を射すくめるような、あの鋭い眼差し。

 風を切るように扇が鳴り、太刀が翻るたびに、本当にこちらに挑みかかってくるのではないかと何度もハッとした。

(……もう少しだけ頭を冷やしてから帰るとするか)

 足元の遥か下で滔々と流れる衣川の涼気に顔の火照りを覚ましながら、橡の幹に凭れ目を瞑る。

 川のせせらぎの音が心地よい。


 ちゃぷ、と水の撥ねる音がした。


 目を開け、崖下を見下ろす。

 さあ、と流れの溜りを肌色が過る。

 思わず凭れていた幹から身を起こす。

 川で若い女が、水浴びをしていた。無論、一糸まとわぬ裸身である。

 水面に長い髪がふわふわと広がる。水の中で身を翻すたびに魚の鰭のようにふわりと流れる。

(あれは――先の、俘囚長の娘か!)

 思わず義家は息を飲み、食い入るように見つめていた。疚しい気持ちや不届きな魂胆は欠片もなかったが、目を離すことが出来なかった。

 やがて娘が川岸へと上がり、濡れた髪を払うと、ぱしゃ、と水の飛沫が陽光に反射し橙色に輝いた。

 未だ少女の名残を残す肢体が夕陽の色に木漏れ日の影を落とし、くっきりとした陰影を惜しげもなく義家の前に曝け出す。

(美しい……)

 邪な気持ちからではなく、只純粋な思いで義家は胸の内で感嘆の溜息を吐いた。

 やがて娘は梢に掛けていた夏衣を手に取ると、それを羽織りながら岩の蔭へと姿を消してしまった。

(……ああ、行ってしまう)

 思わず声を上げて呼び止めてしまいそうになる。

 娘の姿が消えた後も、もう一度、今の娘が美しい姿を見せに現れてはくれぬものかと、暫く義家は川岸を見下ろしたまま佇んでいた。



「あ、姐さまが戻って来られました」

「姐さま、何処に行かれておられました?」

 干菓子を口一杯にもぐもぐ頬張りながら縁側に腰かけていた蘿蔔と菘の姉妹が顔を上げ、笑顔を綻ばせる。

「汗を掻いたから少し川で水浴みをしてきたのよ。お前達、良いものを食べているわね?」

 髪を未だ少し湿らせたままの一加が双子達に笑いかける。

「あのおじちゃまがお土産だと言ってくださったの!」

「一緒におはじき遊びもしてくださったの!」

 二人揃って指さす先で手酌を呷っていた佐伯経範が気づき、苦笑いしながら頭を下げる。

「子供達には退屈な集まりかと思いまして。甘党なもので干菓子は肌身離さず持ち歩いておりまする」

 照れたように頭を掻く経範に、礼を言いながら会釈する一加の裾に早速双子達が纏わりついてくる。

「私も姐さまと水浴みしとうございましたのに!」

「姐さまと水遊びしとうございましたのに!」

 ぐずる双子を宥めながら主人が諭す。

「ごめんよ、また今度にしましょう。今日はもう日が暮れる故。それに――」

 やや凄んだ色を浮かべながらニヤリと笑ってみせる。

「うっかり誰彼時に河原で遊んでおると、怖い狼にかどわかされてしまうぞよ……咬もうがおーっ!」

 きゃあ! と黄色い悲鳴を上げながら女童達は逃げ出した。



 少し遅れて宴席に戻った義家に気づき、先に座に着いていた元親が顔を上げる。

「遅うございましたな」

「河原で天女を見かけてな」

「ほう。羽衣は得られましたか?」

「一歩遅れて掴み損ねた。天へと飛び立ってしまったよ」

肩を竦め、宴もたけなわの広間を見回した義家が、ふと笑みを漏らす。

「それにしても、今日明日にでも弓を引き合うのではないかという我らが、こうして宴に興じているとは、まるで故事に謂う鴻門の会じゃのう」

 主の言葉に元親も頷く。

「さて、どちらが項羽か劉邦か」

 無論、この引き合いには、水面下での鎬の削り合いの意味が暗に含まれている。

「この宴にて、干した杯の数で戦の決着をつけてくれるというなら世話ないのだが」

 何気ない様子で呟く義家の言葉に驚いて元親が振り向く。

「てっきり御曹司は御父上と同じお考えの方かと存じておりましたが」

 郎従の問いかけに義家は呵々と笑う。

「俺は武士ぞ! ただ不毛な争いを好まぬだけじゃ」

 そこへ、ふわりと濡れ羽の髪を揺らしながら一加が現れた。

「あら、若様。いつお戻りに? 皆様、心配していましてよ?」

「あ。いや……」

 すぐ傍に座し銚子を向ける娘を前に思わず腰を浮かせる。

 つい今しがた、息を潜め余すところなく生まれたままを眺め尽くした身体である。

 透き通るように真っ白な成熟半ばの隆起、なだらかな曲線、柔らかな膨らみ、美しい脚線が、義家の目の前で娘の衣の上にふと重なる。

 微かに漂う水の匂いと、乾ききらぬ艶やかな濡れ髪がまた艶めかしい。

 疚しさを見破られはせぬかと娘の視線から目を逸らしながら杯を受ける。

「おや、一加様。お召替えをされてきたのかな?」

 元親の言葉に恥ずかしそうに俯く。

「ええ。少し汗をかいてしまって。お見苦しいでしょうか? どうかご容赦を」

「いや、素のままの御姿もまたお美しい」

 笑う元親の前で、未だ少し湿りの残る髪を気にするように一加が首のあたりに手をやる。

 白い項がチラリと垣間見え、義家は明後日の方を向いて杯を干した。

「これ倅や、どこへ行く!」

「……厠へ。少し頭を冷やして来まする」

 少々酒が過ぎたと見える景季が、赤い顔をしてふらふらと席を立った。


「実に愉快な宴じゃ、嬉しい歓迎であったぞ!」

 ご満悦の様子で頼義が頼時に笑いかける。

「御君にご満足頂き、我ら一族も恐悦の至りにございまする」

 恭しく低頭する頼時に、頼義も笑顔で頷く。

「ところでのう、予が衣川関を越え、其方らの領内を訪ねたのはこの地に着任して以来四年振りじゃ。随分この辺りの風景も変わっていよう。そこで、じゃ」

 頼義の双眸に不穏な光が走る。

「明日は是非、衣川をはじめ、小松柵や河川周辺、もし時間が許せば鳥海柵の辺りまで散策してみたいと思うが、差支えないであろうな?」

 ぎょっとして義家や元親らが顔を上げる。

 貞任や宗任らがちらりと頼時に目を遣る。

(どうじゃ、流石に穏やかではおれぬであろう。予の前で狼狽えて見せよ!)

 意地の悪い笑みを隠そうともせずに頼義がじっと頼時の顔色を見つめる。

 しかし、頼時は暫し考えこんだ様子を見せた後、ぽん、と手を打った。

「おお、それでは舟で遊ばれるのが宜しいでしょうな。恐れながら、当地衣川や磐井周辺は景色面白き渓流に恵まれておりまする故」

 狼狽どころか良い提案とばかりに破顔する郡司に、陸奥守は呆気にとられる。

「いや、只今ご指摘いただくまで、恥ずかしながら手前、御君の御心情に気づきませなんだ。斯様に我が奥六郡を懐かしんで頂けるとは、感激の極みにございまする。早速、腕に縒りを掛け用意をさせまする!」

 ニコニコと平伏する頼時を前に、どす黒い顔でわなわなと肩を震わせる頼義の様子を眺めながら、「やれやれ、今から支度が大変じゃ」と呟き貞任が杯を呷った。


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