決別

「ン、グ……」

 梓真は無意識に飲み込んだ。

 染み込む水に目が覚める。

 疑ったのはそのあとだった。

(海水? まさか毒か!?)

 しかし目前の出来事にそれどころではなくなってしまう。

 感触は柔らかい。

 顔は少し小さいだろうか、やや幼く、黒い髪は長すぎず短すぎず。

 少女が、開けた唇を押しつけていた。

 思わず押しのける。すると――

「……よかった、気がついた」

「……ヴェル?」

 梓真は目を疑う。そこにあったのは購買部のアイドル、ヴェルの顔だった。

 なら、ここは星川市なのだろうか? 救助され、どこかに収容されて――

 しかし空は荒く切り取られ、暗い岩肌が下まで続いている。

 まだ洞窟を出ていない。

 起きようとする梓真。逆らう体を少女が持ち上げた。

 ようやく思い至る。

「……いや……リン、だったか?」

 少女ははにかんだ。

 ヴェルとうり二つの、広敷のオルター。ここが先ほどの戦場なら、彼女がいてもおかしくない。

 小さな――濡れた唇がささやいた。

「もう少し飲む?」

 梓真はたじろぎ口を隠したが、すぐに早とちりを恥じる。少女が差し出したのは唇ではなく、透明のペットボトルだった。

 梓真は奪い取るようにしてそれを口に当て、水を流し込んだ。

 のどが潤いを取り戻す。

 状況に考えが及んだのはその直後だった。

「そうだ……理緒は!?」

「今、玲亜が――」

「ここよ……」

 目堂玲亜に肩を借り、泥にまみれたインナースーツの理緒が歩いてくる。髪は乱れに乱れていたが、大きな怪我はないようだ。

「ひでえカッコだな」

「アンタもよ」

「ひでえ目に遭った」

「ホントに、ね」

「……無事で良かった」

「あなたは……あ」

 理緒は小さく声を上げた。

 かたわらの小さな手が梓真の額を拭ったからだ。

「……その、なんかワリいな。世話になりっぱなしで」

「いいんです」

「……」

 塗れたハンカチが頬へ伝うと、梓真は口をつぐんだ。

「わたしも嬉しい。あなたが無事で」

「……おまえも元気そうで、何よりだ」

 見上げてくる瞳が心身の痛みを癒した。

 その感情に梓真は戸惑う。

 ともにした時間は半日に満たない。なのに梓真の胸には、少女への深い想いが込み上げてくる。

「あのねえ、ほんわかしてる場合じゃないんですけど」

 邂逅に理緒が割って入る。

「覚えてる? 自分にされたこと! そのあと何があったか! 見たところ出血はないみたいだけど、アタマのほうは大丈夫?」

「……だといいんだが」

 キツい言葉に自嘲気味で答える。

「爆発……。ウンブリエルが自爆した……させたんだろ、六角が。でも、なんで無事に――」

 付近には無数の残骸が散乱していた。しかし、あの巨体とはいえ多すぎる。

 凝らした目に、慣れ親しんだパーツが飛び込む。

「ディアナ……」

 それ以上の言葉は出ない。

 固い岩の上に梓真の体はあった。打ち寄せる波のはるか遠く――海に光が戻りつつある。

 空もそうだ。ぼんやり赤く、割れた天井から差し込んでいる。

 その光の中に男はいた。

 爆風がそうさせたのか、膝を抱えるようにして水に浮かんでいる。生まれたての赤子のように――

「六角……先輩は……」

「ああ、わかってる」

 六角を見つめる玲亜。その心うちを梓真なりに察した。

「実験をされていたんだろ。……有機AIとかの」

「……そう。あなたのお父さんの研究成果」

「親父の?」

「……先輩が恨んでいたのは、あなたのお父さん、加瀬太一郎教授」

「親父が、やったのか……!?」

「いいえ、いいえ! 彼は論文を発表しただけ! 彼の研究は不完全なまま盗まれ、勝手に――」

 それでも動揺がやむことはなかった。六角の話が補強されたことに変わりはない。

(すると、俺も……)

「……わたしも、先輩と同じ」

「二人、か……」

「今はもう、ね……」

 そのひとことは、梓真の心を深くえぐった。

「施設にはたくさんの子供がいたの。でも生き延びたのは、わたしたちだけ」

「脳に障害がある子供の施設、か?」

 すると、玲亜は哀しい笑みを向けた。

「初めから“ない”子供たち……」

「……そりゃ、どういう――」

「わたしには生まれつき大脳がなかった」

「なん――」

 さりげない言葉は重い告白だった。

「集められたのは、わたしのように大脳がない、あるいは脳のすべてがない、そんな子供たち。先輩も、他にも……大勢の」

「んな……そんなことあるもんか! 出生前診断? とかでわかんだろ!」

「だから、そういう母胎を探したの。無頭症の胎児を宿した母親たちを。脳に障害はあるが治療はできる――そんな風に言い含めて」

「そんな、こと……」

「施設に念書が残されていたの。文面は“治療費全額と引き替えに、治療の方針には一切の口出しをしない”、そんな感じ」

 話が真実味を帯びるほど、少女は人ではない、異形の何かへと変わっていく。

「そして……」

 独白は続く。

「わたしたちは親から引き離された。けど、そこでは……彼らはわたしたちを“人”扱いしなかった。……当たり前、なのかしら」

「それは……」

「移植された不完全な“それ”の調整のため、あらゆることが行われたの。……もう、思い出したくもない……」

 沈黙が続いた。

 思考の奥に沈めていた想像が、表層にまで上り詰める。

 脳の何割かを人工のそれに置き換えたなら、その分、自分は人でなくなっているのではないのか。移植分が20%なら八割が人間、50%を越えていれば、自分は人として半分以下の存在である――と。

 それなら六角や、この少女はどうなのだろう。

 完全に人ではない……のか。

「それで……その……」

「わたしたちには、モニターのための送受信機が埋め込まれていたの。ある日そこに千億の個からのアプローチがあった。彼らの助けで、わたしたちは施設を乗っ取ったの」

「ふっ、やつら、盗品をさらに盗んだってわけだ」

「有機AIはとても危険なモノなの。世界のあり方をかんたんに歪めることもできる」

「どうやって?」

「そう、ね。……昔、頭蓋に穴を開け、人を思いどおりにしようとしたことがあったでしょう?」

「ロボトミー手術か?」

 現代でこそ悪魔の所行とされているが、当時の研究者たちには純粋な動機しかなかった。

「有機AIを発展させれば、知識や経験はそのままに、人格だけを入れ替えることができるの。その意味がわかる?」

「……」

 たとえば、一国の重要人物を思いのままにできるなら、国家そのものを操ることも可能だ。かつてない戦略兵器となるだろう。

「それは許されないことなの」

「千億の個のやってることはどうなんだよ? 人を影から支配してんだろうが」

「わたしたちは人の“善”を刺激して、“悪”を封じているだけ。個人の自由を奪ったりはしない」

「鵜呑みにはできねえな」

「……とにかく、わたしは自由を手に入れた。でも……」

「でも?」

「自由にならないものもあった」

「それは?」

「……寿命」

「……」

 六角の遺骸に被る波。玲亜の視線がそれを追う。

「彼らは言っていた。耐用年数は、もって二十年だって。だから先輩は施設を出て、日本の諏平大に入った。広敷教授を頼って。他に頼れる人は見つけられなかったの」

「その“彼ら”に見切りをつけてか」

「彼らは全員、先輩に殺された。悪を封じたの」

「人殺しじゃねえか!」

「そう、ね。あの時だけは、わたしも胸がスッとした。先輩をサポートするのに、なんのためらいも感じなかったわ」

 わたしにはわかる、わたしにしかわからない――彼女の言葉をようやく理解できた。彼女もまた、暗い心を秘めている。

「他に方法はなかったの。彼らはまたいずれ、生け贄を集める。千億の個は、止まらないトロッコを犠牲の少ないほうへ導いただけ」

「……それで、おまえは……」

「広敷教授の研究は、彼らに劣るものだった」

「……」

 バツ悪く、顔を背ける梓真。

 その手を玲亜の両手が握る。

「……なんだよ?」

「わたしは、生きてる?」

 熱く脈動する玲亜の手。それは確かな命の証だ。

「生きてるに決まってんだろ」

 少女はほほえむ。そこにはほのかな哀の色がある。

 彼女の問いかけ――それは”自分は人であるのか”だ。

「先輩は、彼らの予測をはねのけ続けたの、意志の力で。……わたしもあきらめない」

「……いつから、アイツを先輩って呼んでんだ?」

「先輩を追いかけて大学に入った時。よろしく、先輩……って」

「……そうか……」

「あらためて聞くわ。……加瀬くん、わたしたちと来る気はない?」

「玲亜!」

 声を荒げたのはリンだ。

 一度出したはずの答えを梓真は迷った。

 自分は完全な人ではない。その意味で玲亜と同様の存在だ。なら、そのそばで彼女に協力してもいいのではないか。彼女の延命のために。

 でも、それでも――

「行けない」

 そう口にして、握られた手を戻す。

「待っている人がいるんだ」

「……そう」

「悪いな」

「……」

 玲亜はほどかれた手を名残惜しそうにしていた。

 だが、ほどなく、

「……あなたは? ……恩田さん」

 と、今度は理緒へと問いを投げる。

(何を今さら……)

 二つ返事で断る――そう思い込んだ。

 だが梓真の期待は外れる。

 理緒は口を閉ざし、凍り付いたように動かない。

「おい、理緒! まさか……」

 感情のままを言葉にした。

 いずれ別れの時がくる。だとしても、今じゃない。彼女には少しでもそばにいてほしい――それだけだ。

 しかし理緒は、あきらかに答えに窮していた。

「おまえ、なんで――」

 梓真は歩み寄ろうと立ち上がる。しかし体がそれを裏切った。

 六角の呪い……。あの時と同じように、右の半身が思うようにならない。

「加瀬さん!」

「何やってんのよ!?」

 倒れそうになる体を、リンと理緒が支えた。

「何って……さっきの六角とのやりとり、見てなかったのかよ」

「あれ、演技だったんじゃ……」

「……違う」

 黙り込む梓真に、理緒は大きなため息を吐いた。

「まったく、手の掛かる……」

「……ああ、まったくな……」

 理緒はリンと梓真の体を座らせ、玲亜に言った。

「ねえ、救助を呼べる?」

「通信が復旧するまでもう少しかかる」

「そう」

 二人の会話を、梓真は上の空で聞いていた。

 自分はどうなったのか、どうなるのか――

 自由な体はあのつらいリハビリの成果だった。それがすべて台無しに――

(……なんでだよ……)

 六角の話を信じるなら、自分と同様の異変が姉にも起きていたらしい。

(その原因――原因は――)

 ドプ。

 遠くの音が梓真を現実に戻した。

 洞窟の入り口に人影が二つ。

「やっと来た」

「玲亜!」

「安心して。襲ったりはしない」

「……」

 警戒は解けない。

 迫り来るのは軍装のオルター、先ほどまで敵だったモノたちだ。

(まだ敵……なのか?)

 固唾を呑んで見守る中、彼らは物言わぬ六角を持ち上げ、運び出す。

「……交信、元に戻ってんじゃねえのか……」

「短距離だけ」

「なんで襲ってこねえ?」

「計画は変更になったの」

「なんで!」

「先輩が死んだから」

「だからって……わかんねえな。ずいぶんと大がかりな計画に見えたが、それをそんな、あっさり……」

「一つのニューロンが、思考プロセスに大きく関わる場合もあるの」

「一千億のAIがサディスト趣味におつきあいかよ」

「“個”の真意は別」

「……有機AIの危険性、か」

「それだけじゃないの。有機AIには、危険な要素と同じくらい、希望に満ちた可能性がある」

「そんなモンかね」

「あなたは自分の価値を理解してない」

 玲亜の言葉に答えるかわりに、梓真は顔をしかめて見せた。自分を価値ある人間などと、とてもじゃないが思えない。

「わからないの? 教授の話、忘れちゃった? ほら練習試合のあとの、雨の中の……」

「ああ、覚えてるぜ。マルスがリンと交信してたとかなんとか」

「……」

「……そういや、マルスとどんな話してたんだ?」

「ヒミツだもん」

 リンが意味ありげに顔をそらす。

 一方、玲亜は目を伏せ吐息をもらした。

「これだけは覚えておいて。あなたの中にあるものは、ただの外付けストレージじゃない」

 残念なことに、せっかくの広敷教授のご高説を梓真は半分も覚えていなかった。

「加えてあなたの心の動き、行動。それが“個”の考えを揺るがした。希望の扉は人の中にこそある、本人の意志にゆだねるべき、と」

「……ふん」

「玲亜。そろそろ……」

 リンはつぶやき、梓真を理緒に預けて立ち上がった。

 その仕草はどこか寂しそう。

 玲亜もそうだ。

「ごめんなさい。わたしたちも撤収しないと。あなたを送り届けることはできないの」

「撤収? どうやって?」

「予備の一隻がまだ残ってる」

 答えたのはリンだった。

「クルマかなんかは、残って……ねえよな」

「ちょっと、やりすぎ」

 玲亜の何気ない言葉に、なぜかリンの口が尖る。

「あれは……しかたない」

「……それで、どうするの?」

 玲亜に、理緒は首を振った。

「本当にいいの? それで……」

「しかたないじゃない。こいつ、放っとけないし」

「……わかった。じゃ、ここでお別れ」

 素っ気ないひとことで、玲亜は洞窟の出口へと向かう。

「……元気でな」

「……」

 リンも玲亜に続いた。

 その時ふと、あることを思い出す。

「待ってくれ!」

 振り向く二人。

「スピカはどうなった!? 無事なのか!?」

 すると玲亜は笑い声を返した。

「……何がおかしい?」

 笑いをこらえて玲亜が答える。

「安心して。ひどい損傷だったけど、AIは無傷」

「……そうか」

「今は、元の体にいる」

「なら、いいんだ」

 胸をなで下ろす梓真。と、玲亜はまた吹き出す。

「だから! 何が――」

「あなたの目の前にいる」

「……!?」

 ふいに少女が抱きついた。背は、座ったままの梓真とほとんど変わらない。

「……リン、おまえ、が――」

「きっと、もう会えない。これでお別れ……」

 潮と泥が臭う。もちろん嫌じゃない。彼女が助けてくれた証だ。

 その中に、甘い香りがまぎれていた。


「鼻の下、伸びてるわ」

「うっせ! ……おまえ、輝矢に似てきたな」

「何気にあなた、オルターたらしよね。オルター嫌いって嘘だったんでしょ」

 言いたい放題の理緒に、梓真は反撃を思いつく。

「その中に、おまえは含まれんのかよ」

「……バーカ」

 理緒はそっぽを向いただけ。挑発にさほどの効果はなく、ダメージはむしろ梓真の方が大きかった。

「さーて……」

 気まずさをどうにかしようと、独り言のように切り出す。

「いつまでもこうしらんねえな。千里の道も……一歩から――」

 上体を倒し、左足だけで立ち上がろうとする。しかし結局ふらついて、理緒の助けを借りなくてはならなかった。

「もう……」

「わりいな。よっと……」

 大岩を避けながら、二人三脚で海岸を目指す。けれど梓真の右足はされるがまま、水底のでこぼこに弄ばれる。

 そしてようやく、眼前に日の出直後の美しい海が開けた。陽がうっすらと背中に照り、ひんやりとした潮風がなでる。

「ここでひと休みしようぜ」

「ちょっと、まだ、ぜんぜん歩いてないじゃない」

「……」

 梓真には疑問だった。助けられただけの自分は休養十分。なのに体に力が入らない。

 タイミング良く、お腹が不平を鳴らす。

「ああ、はいはい……」

「そういや、なんも食ってねえ」

 緊張の連続だったとはいえ、迂闊にもほどがある。これから何十キロと歩かなくてはならないのに。

 ところが理緒は、

「ちゃんと預かってるわよ」

 と、目線で自分の背中を指し示す。

「ホントか!」

「とにかく、腰を落ち着けましょう」

 崖の一ヶ所に手頃な岩を見つける。横長の面が上を向き、並んで座ることができた。

 理緒がリュックを下ろしている。それを横目に、梓真は海岸を見渡した。

 穏やかな波。昨晩の死闘が嘘のようだ。

 フェイカーたちの仕業か、残骸はかけらも見あたらず、痕跡と呼べるものは無数の足跡だけ。それも、いずれは満ち潮に浚われてしまうだろう。

 目を海原へ転じる。

「……見えるか?」

「え? うーん。……あ、あれじゃない?」

 理緒はすばやくそれを見つけた。

 白いシルエットは艦というより船。民間の輸送船のようだ。遠すぎて大きさはわからない。

 あれに、玲亜たちが乗っているのだろう。

 それと――

「広敷教授も一緒なのね」

「だろうな」

「……良かったの?」

「残ったっていいことねえさ。誘導されたのかもだが、オルターキラーを使ってたのはアイツだぜ」

「なら、法の裁きを受けるべきでしょ」

「見ただろ? 今のアイツに責任能力があるかどうか。行き先は、精神病棟みてえなモンだろ」

「それは……そうかも知れないけど……」

 容赦ない朝日の中、船は陽炎に消えつつある。

「……これで全部、終わりか」

「そうね……」

「そもそも、なんでここにいるんだ、俺たち……」

 疲労は、体より頭を損なっていたようだ。

 理緒は顔をしかめて言った。

「SC。優勝」

「ああ……そうだった……」

「お父さんに会うんでしょ?」

「……」

「……何よ?」

「会えねえかも……」

「なんで、どうしたの?」

「俺たちは優勝した。運もあったが、とにかく、勝ちは勝ちだ。それが……見ろよ、このザマ」

「梓真……」

「たぶん無効試合。優勝も無効さ。そういう運命なんだよ。……そもそも最初から、生きてるかどうかすら怪しかったんだ」

「ちょっと、落ち着きなさいよ」

「……」

 梓真は冷静だ。思考から妹の存在を意図的に消していた。

「ホームページに名前があったんでしょ、その、未来フューチャーデザイナーズ会議の出席者に。死んだ人を載せるわけないじゃない」

「……」

「とにかく、加瀬教授は生きてる。安心しなさい」

「そうだろうか……」

「そうよ! そんなことより、目の前のことを考えて!」

「目の前……ってえと……」

「まず、崖を登る――というか、わたしがあんたを押し上げなくちゃならないってこと。それからどっちに向かうかよ。どこにいるかもわからないんだから」

「……それについてはアテがある」

「へええ?」

 小馬鹿にするのを無視して、梓真は叫んだ。

「ポボス! いんだろ!? 出てこいよ!」

 そのとたん――

 二人の目と鼻の先に、音ひとつ立てず舞い降りる物体があった。

 その姿に、理緒は驚くより戸惑う。

「ポボス!? えっと……シリウス、じゃなくて?」

「ポボスなんだよ。じいさんと……輝矢が、改造を終わらせてくれてたんだな」

 ポボスより一回り小さい犬型のオルター。それは自然な動作で銀の体を向けると、黒い首で二人を交互に見つめた。

 こみ上げる嬉しさの中に、後ろめたさも紛れている。この二代目ポボスのベースは、スピカが“埋葬”した機体を無断拝借していた。

「なんでいるってわかったのよ」

「フェイカーに気づかれないように追跡するなんて芸当、ディアナにはできない。あの正確な遠距離射撃も、こいつの観測あっての代物だよ」

「なら、加勢してくれてもよかったのにぃ」

「小さい分、戦闘力はオミットしちまったんだろうなあ」

 ジト目の理緒はポボスと鼻を突き合わせてみる。が、いくら待ってもなんの軽口も返ってこなかった。

「……ねえ、本当にポボス? 音声装置もオミット?」

「そりゃ、通信が不通だからな」

「? なんのことよ?」

「ま、そのうち……。それより――」

 梓真は理緒の下ろしたリュックに手を伸ばした――つもりが、体は途中で止まらなかった。

 すかさず理緒が受け止める。

「バカなの?」

「うるせー、腹減ってんだよ」

「まったく……」

 理緒は梓真を崖の背もたれに戻すと、リュックの中をあらためた。

「まずこれね。あとは、缶詰と……何かしら?」

 出てきたのは白いビニール袋にカンパン、そして軍のレーションだ。

 梓真は渡された袋を片手で開いた。

「って菓子パンかよ。こんな日持ちのしねーモンを……。うわ、賞味期限切れてんぞ!」

 梓真は口を使って包装を解くと、あわててかぶりついた。

「あーそれ! わたしが食べようと思ってたのに

ぃ!」

「……早いモン……勝ち……」

 もぐもぐと、咀嚼と言葉が交互する。

 唾液に溶ける辛さと甘さに心の底から喜んだ。念願の「三種のチーズ入りカレーパン」を、まさかこんな場所で味わえるとは。

 だが至福の時間は突如として地獄と化す。

 梓真の無言の救助要請に、理緒はペットボトルを握らせた。

「本当にバカなんだから」

 急いで水を流し込んで、梓真はあやうく命を取り留める。

 しかし大きく息を吐いたあと、

「おい! これ、飲みかけじゃねえか!」

 と、ほとんどカラのボトルを突き出す。

 大量に飲みはしたが、カラにするほどの勢いはなかった。

 だが理緒の返事は――

「それ、あんたの飲みかけ」

「あ?」

「さっき、落ちてたから拾っといたの! 水は貴重でしょ!?」

「あ……ああ、洞窟で、か……」

「そうよ!」

「……」

 まじまじとペットボトルの飲み口を見つめる。

(……あん時はもう、間接キスだったのか)

 何かをかぎつけたのか、不審の目が向けられていた。梓真はボトルで鼻の下を隠すと、ごまかすように遠くへ目をやる。

 朝焼けの海は一面に輝いて、船の影はもうどこにもはなかった。

「ポボ……シリウスのこと、二人に言いそびれちまったな」

「きっと気づいてるわよ。何しろ――」

「全知全能、千億の個、か。……とにかく、怒ってねえってことだよな」

「あの態度を見てたらね。贈り物と思って大事にしたら?」

「ああ……」

「……」

「本当に終わったんだな……」

「いえ、まだ……」

「え? なんだよ」

「無事、帰るまでがナントカって言うんでしょ」

「……そうか……。このあと、歩け歩け大会か」

「そうよ。覚悟しなさい」

 うんざりとする梓真を、理緒が鼻で笑う。

 一帯の地理をポボスは把握してるだろう。迷わず最短の道を選んでくれるはずだ。

(とはいえ、どれくらい歩きゃいいんだ? 二十キロじゃすまねえよな、たぶん……)

 リュックは大きいが、口ぶりからすると全部が水と食料というわけではなさそうだ。道中、入手できなければ、それで間に合わせるしかない。

 袋に残ったパンはあとひとつ。学食人気の最下位を争う“もっちりクルミパン”だ。

 貴重なそれを梓真はニヤけ顔で差し出す。

「おまえも、食っとけ」

 けれど理緒は――

「やっぱりこれ残した。まあ、このおいしさは味音痴にはわからないものね」

 と、満面の笑みで返した。

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