「あふぁ……」

 沈黙に慣れると、今度は眠気が誘う。

 じろり、と少女。

 何か言いたそうだ。

(いいだろ、あくびくらい。……帰んねえよ)

 梓真は目をそらすと、ポケットの割れた端末を取り出した。

(母さん……)

 くりかえし襲う睡魔は、今朝の、未明のできごとのせいだ。

 物音で目を覚ました梓真は、悪い予感にかられ、寝ぼけ眼で一階に下りた。

 案の定、リビングは明るく、台所から陽気な鼻歌まで聞こえてくる。それに野菜を刻むリズミカルなまな板の音。

 台所は山積みにされた食材で、テーブルは大皿小皿で埋め尽くされていた。

 食器は、四人分……

「母さん……」

 母親――陽子は手を止め振り返る。

「あら、ごめんなさい。起こしちゃった?」

「母さん。……朝からこんなに食えねえよ」

「ええ~、そんなことないわよ。お姉ちゃんは大学行っちゃったけど――」

(母さん……)

「お父さん、ああ見えていっぱい食べるし。あっくんも知ってるでしょ。それに――」

「母さん!」

瑞希みずきちゃんは育ち盛りなんだから」

「何言ってんだよ! 今のウチには二人しかいねえよ!!」

「あっくんこそ何言ってるの? だって、ウチは五人家族の――」

「四年前に出て行っちまったろ! 知らねえ間に!」

「……出て……行った……?」

「そうだよっ!!」

「出て行った……」

 母の瞳からみるみるうちに色が失われていく。

 後悔したが、もう遅い。

 母は包丁を離し、幽鬼のような足取りで寝室へと向かう。

「出て行った……」

 暗がりの中、それだけが聞き取れた。あとはぶつぶつと、念仏のように何かを唱えている。

 部屋には一組のふとんしか敷かれていない。母は確かめるようにその隣を見つめていた。

 見ていられない!

 梓真は食堂へ戻ると、食材を片っ端から冷蔵庫に放り込んだ。テーブルはそのまま。それが精一杯だった。

 自室に逃げ戻ると、けたたましい目覚ましの音が出迎える。

 結局、睡眠も食事も取らず登校した。

 それが今日の、災厄のはじまりだ。

(心配してっかな……)

 母は躁と鬱を繰り返す。正気を取り戻していれば、さぞや心配しているだろう。四年前に二人の家族が消えて、母の心配性は度を超すようになっていた。

 すでに帰宅時間を大きく過ぎ、普段なら間違いなく連絡を入れている。

 梓真は真っ暗な端末を握りしめた。

 すると、理緒が自分の端末を差し出す。

「使いたいの?」

「…………いや」

 この境遇がたまらなく嫌だった。

 今朝のような出来事は一度や二度ではない。そのたびに後始末をし、母をなだめてきた。――今日は失敗したが。

(しょうがねえだろ……)

 親と子が役割を入れ替えた家庭。梓真はまだ十代で、大人の役割を果たせるほど大人ではなかった。言いたくはないが、甘えたい時もある。

 爆発したい時だって――

「……」

 ポケットに端末を戻すと、道をヘッドライトが照らし、続いて白黒の小型車が停車した。

 やってきた警官は二人。でっぷりとした男は若く、もう一方はいかにも威圧的な体格をしている。どちらがオルターなのか、一目瞭然だ。

 若い警官は二人の――特に理緒の姿に驚いたようで、まず大きなタオルを羽織らせ、それから事情聴取をはじめた。破壊されたオルターの検分は相棒に任せている。

 そしてあられもない姿が事件と無関係と知るや、早々に帰宅を促し、さらに梓真には彼女をきちんと送り届けるようと釘を差した。

 そのうえ、

「このチャンス、必ずモノにするんだぞ」

 などと余計な耳打ちまでする始末だ。

「やれやれだな……」

 ともかくやっかいごとを終えて、梓真は一息吐く。そもそも、事情聴取といっても梓真はおまけで、受け答えはほぼすべて理緒にお任せだった。

 その理緒自身も、事件の核心を見聞きしたわけではなかったようだ。

 異様な物音に駆けつけると、すでにオルターは破壊され、犯行そのものも犯人も目撃してはいなかった。あの酔っぱらいとはずっとあとに遭遇したらしい。

 じつはそんなに悪い人間ではなかったのかもしれない。

(雨の中、女子高生が傘も差さずにいりゃ、声も掛けたくなるわな。ま、スケベ心がなかったとは思えねえが……)

 タオルで髪は多少乾いていたが、制服は、はぼびしょ濡れのままだった。

 にもかかわらず――

「それじゃあ……」

 ずぶ濡れの女子高生は傘から抜け、雨粒に身を晒す。

 梓真はあわてて傘を伸ばした。

「待てって! 送るよ」

「……じゃあ、そこの停留所まで」

「って、LRTに乗んのかよ?」

「えっ、ええ。いつものことだから」

「いや……」

「大丈夫。この時間はそんなに混んでないから、迷惑にならないわ」

「やっ、そうじゃなくてだな……」

 迷惑どころか、下着の透けた白いシャツは、男たちへ何よりのご褒美となるだろう。

「……ウチ、近いから寄っていけよ」

「なんでよ?」

「なんでって……」

 目のやり場に困っている梓真を見ても、彼女は理解していないようだ。

「……あ、雨の日は混むぞ。俺んちはずぐそこだから、もう少し乾かして……服も貸してやるし」

「……あなたの服なんか」

「姉貴の服だよ。それならいいだろ」

「……」

 渋々ではあったが、ともかく理緒は説得に応じ、加瀬家へと訪れた。

 ひなびた、といおうか、レトロ、というべきか。

 住宅地のはずれにあるその家は、古色蒼然の趣を持ち合わせていた。近隣の色あせた家々と比べても、古さのレベルが別のステージにある。

 玄関の窓には暖かな明かりがあった。

(勝手なもんだ……)

 つい先ほどまで否定しておきながら、今は母の優しさを頼みにしようとしていた。面倒見の良いいつもの母なら、ずぶ濡れの女の子を放っておくはずがない。おせっかいを焼いてくれる――そう期待していた。

 掌紋を合わせてロックを外し、扉をいつもより大きめに開いて、梓真は板の間に上がり込んだ。塗れた靴下は靴の上に放る。

「待ってろ、タオル取ってくっから」

「……ええ」

 扉ががちゃりと閉まると、理緒はその扉に背中合わせで控えた。

 一方の梓真は、廊下に足跡を残しながら脱衣所へと向かう。だが進むにつれ、緊張が増していった。まるで物音がしないからだ。

(母さん……まさか、寝込んでるんじゃ……)

 しかし寝室にも、一階のどこにもその姿は見当たらない。

 梓真は脱兎のごとく玄関へと引き返した。バスタオルを理緒に投げ、裸足をスニーカーへと突っ込む。

「……どうしたの?」

「母さん、母さんがいない!」

「ちょっと、傘! 傘くらい持っていきなさいよ!」

 これ以上なく焦る梓真は、振り返る間を惜しんで傘をひっつかむと、玄関を飛び出した。

(母さん……やっぱり電話、しとくんだった……)

 後悔がさいなんだ。本当はもっと早く、学校からでも連絡を入れるべきだった。それで解決したかはわからないが、逃げ出した自分が苦々しい。

「くそ、どこ行った……」

 鬱状態の母がこれまでに家を出たことはなく、行き先に心当たりなどない。

 ぬかるんだ敷地から門を出る。

 するとあっさり、そこには母の姿があった。

(くそ、馬鹿か俺は……)

 母は差した傘とは別に、大きめの傘を手に提げていた。

(俺を捜しに出たんじゃねえか……)

 ずきん。胸がひどく痛んだ。

「あ、あの、……ごめん、母さん、俺……」

 しかし懺悔の言葉を探す梓真に、母は目もくれようとしない。

(怒ってる?……)

 そうではなかった。

 立ち尽くしていた母は、突然、傘を二本とも投げ出し、玄関へと走り出す。

 そこには――

「あ、え……」

 戸惑う少女に、母は飛び込み抱きついた。

「お帰りなさい! 瑞希ちゃん!」

 梓真は悟った。本日最悪の災厄を、自らが引き起こしてしまったことを――


 明かりも付けず、梓真は塗れたままの制服でベッドに寝ころんだ。

 壁ごしに母の声が聞こえてきたのはそのずっとあとだ。

 ……そのままにしてたのよ…………わかった……何も聞かないから…………お願いだから……

 隣は、瑞希と呼ばれていた少女の部屋だった。

 しばらくして、とんとんとんとリズミカルに階段が鳴る。母はこの上ないほど上機嫌のようだ。

 間を置かず、今度は扉を叩く音。

 照明に灯を入れて答えた。

「なんだ」

 扉から顔を見せたのはもちろん彼女だ。

「お風呂、上がったから」

「ああ」

「それから……」

 きたか、と身構える梓真。けれど、

「悪いけど、浴槽のお湯は抜いちゃったから、入れ直して」

「……」

 想定外の言葉だった。

「何よ?」

「……あのなあ」

 彼女がそうすることぐらい、梓真にも想像が付く。“悪いけど”などと詫びを入れられるのはかえって嫌みに聞こえた。

 むしろ、

「女子高生のだし汁を期待してたんなら、残念でしたー」

 ぐらい言われたほうがマシだ。

 言い返すのもしゃくだが、とにかくベッドから体を起こした。

 理緒も部屋に上がり込む。

 すると、だぶだぶのタンクトップ姿が目に飛び込む。しかもノーブラ。塗れた白シャツがしとやかに見えるほど、目の毒だ。

「もう、なんなの」

「あ、や……」

 直視できず口ごもる。

(母さん、なんつーの着せんだよ)

 刺激が強すぎるとは思わなかったのだろうか? あれは姉が男――主に梓真――を挑発するために買った服だ。“妹”だからセーフなのか?

 ところが理緒は気にする素振りも見せず扉を閉め、言った。

「……ねえ、お母さん、ものすごいお料理してるわよ」

「……だろうなあ」

 梓真は目を泳がせながら会話を続ける。

「……で、他に言いたいことは?」

「そうね……あ、リーダーの教科書貸してくれない? 予習しときたいんだけど、今日は鞄に入ってないのよ」

 結局彼女は同学年、輝矢と同じA組の転入生だった。

(あいつ、本当はわかっててとぼけてたんじゃねえだろうな……)

 彼の性格なら充分ありえる。

「泊まる気マンマンだな。いいのか、それで」

「仕方ないじゃない」

「人違いです、わたしは瑞希ちゃんじゃありません、って言やあいいじゃねえか」

「それはあなたの仕事でしょ」

「……そうだな。悪かった」

 あっさり非を認めると、少女は意外そうな顔をした。

「……それで?」

「明日の朝まで妹のふりをしててほしい。頼む」

 強引に――ではなく、なるべく自然な形で現実に戻してほしい。カウンセラーからはそう教わっている。

「わかったわ」

「……いいのか? 頼んでおいてなんだが」

「さっき連絡を入れたから、一晩ぐらいは大丈夫よ」

「……」

 ずいぶん物わかりのいい親だ。放任主義なのか、よっぽど信用されているのか。

「ところで――」

 梓真は彼女を正面から見ていない。見ないようにしている。

「わたしは、瑞希さんに似てるの?」

「……どうかな」

 似てる……だろうか?

「協力してるんだから、少しは教えなさいよ」

「瑞希は俺の妹で、親父と一緒に四年前から行方不明……。これでいいか?」

「……ふうん、そう」

 深く追求する気はないらしい。

「……明日までよ」

「わかってる。あとは、なんとか……」

 気が重い。朝、彼女を連れ出すのも、そのあとのいいわけも……

「ねえ……」

「……」

 視線が合う。彼女を初めてちゃんと見ることができた。

「教科書。貸してくれるんでしょ」

「あ、ああ」

 梓真はベッドから這い出て、机に置きっぱなしの教科書を手渡す。

 理緒はそれをパラパラと捲った。

「いちおう書き込んではいるのね」

「うるせえ」

「B組よね。ずいぶん遅れてる」

「バカばっかだからな」

 すると少女は身を翻し、顔だけを向け、

「早くしないと風邪引くわよ」

 そう言って扉も閉めずに姿を消した。


 翌朝、雨はすっかりと上がり、背中に当たる日差しが暖かく心地良い。

 しかし梓真の心は晴れないまま。夕べから胃の痛みに悩まされ続け、胸をさすりながら歩く始末だ。

「ぜんぜん食べてなかったけど、お昼まで保つの?」

「昼飯、食えねえかも……」

「夜はごちそう作るって、お母さん言ってた」

「ぐっ……」

 ふたたび胃液の浸食が始まる。理緒の歩みは軽快で、それが梓真には腹立たしい。

「おまえは、一人でパクパク食いやがって」

「だって、お母さんを安心させてあげないと」

「おまえをちゃんと連れて帰れって、なんども、しつこく……ああ、くそ。どうなるんだ、ったく」

 今朝、母から彼女を引き剥がせたのは奇跡に等しい。

「気の毒だけど、あなたの家の事情だし、わたしを連れてきたのもあなたなんだから」

「それで考えたんだが……」

「……ええ」

「置き手紙ってのは、どうだ?」

「置き……手紙? なんて書くの?」

「やっぱり一緒にいられませんとか、今お世話になってる家族に悪いから、とか、なんとか……」

「それで、お母さんが――」

「傷つくし、諦め切れねえだろうが、とりあえず生きてるって思えたんだし」

 ……真実ではないとしても。

「なんだかうまくいきそうにないけど、ま、あなたがそう思うんなら」

「ああ、そうする」

 会話はそこで途切れ、やがて曲がり道に差し掛かった。

「もう見えないわよね」

 振り返ると、古い町並みの中に小さく家が見える。

 もしかして、まだあの前にいるのだろうか。脳裏にはまだ、二人を見送り続ける母の姿が焼き付いていた。

「じゃあ、ここで」

「……?」

「一緒のところ、誰かに見られたらまずいでしょ。お互い」

「ああ……まあ……」

「さよなら」

 輝くような笑顔で理緒は足を早める。

 梓真は立ち止まって見送るしかなかった。


 そして、今度は見えない母を振り返る。

(俺はこの街から離れることはできない、そういう運命ってことか……)

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