ホタルノヒカリ

ふぃふてぃ

第1話 ホタルノヒカリ -前編-

 とある金曜日の仕事帰り。まだ残暑厳しい夏の終わりに、多くの人が行き交う駅構内で高杉薫かおるは妻の美由紀みゆきと待ち合わせをしていた。


 もう、六時を回ったというのに、強い西陽は衰える事なく、アスファルトのジャングルに照りつけ、その熱は建物の中まで浸透してくる。


 薫はネクタイを緩め、ワイシャツの第一ボタンを外す。襟元が緩んでいても、黒の皺のないスラックスと彼のすらっと伸びた足に姿勢の良さも相まって、少しもだらけた印象を与えない。逆にジャケットを腕にかけて立つ姿は、モデルのようにさまになっていた。


 三十分遅れて美由紀が到着する。

「ごめんねぇ〜」

 白のブラウスに、膝より少し短めのタイトな黒いスカートに身を包み、右手を軽く振りながら美由紀が近づいてきた。薫が右手を差し出すと、美由紀は膨よかな胸を押し当て腕を絡めた。


 婚約したのは1年前。ちょうど美由紀が三十歳の誕生日を迎えた時だった。

 同じ会社の同僚で、部署は違えど薫は三十二と歳が近いこともあり、友人に誘われた飲み会で二人は知り合い互いは惹かれあった。

 未だ子供には恵まれないものの、仲睦まじく生活を共有している。互いに働いている事もあり経済には特に不自由はなく、金曜日になると、互いの予定が空いていれば、いつも夕飯は二人で外食と決めていた。



 二人は東武東上線に乗り込み、小一時間ほど移動し、お決まりのスペインバルに腰を落ち着ける。

「ジャガイモのアリオリ」「生ハム盛り合わせ」「むきエビのアヒージョ」

 いつもの定番メニューを頼むと、ハウスワインで乾杯した。

 B型の薫とO型の美由紀。しっかりした顔つきとは異なり、右へ左へと脱線を繰り返す薫の話を、美由紀はおっとりした口調で上手に収束に導く。

 パエリアと美由紀の好きなスペイン風オムレツを追加し、店を出る頃には十時を過ぎていた。


 気持ちの良い夜風を浴びながら、二人は手を繋ぎ、近くのスーパーマーケットまで歩く。

 店内は十一時で閉店だというのに、学生や若者で華やかに彩られ、BGMのホタルノヒカリが霞んで聞こえていた。美由紀は缶ビールに缶チューハイ、半額シールの貼られた惣菜がカゴの中に入っていく。


「やっぱり、これよねー」


 そう言って、美由紀はリンツのチョコを手に取ると、わざとらしくカゴに忍び込ませレジへ向かった。


 月明かりの家路。明日は休み。二人はしっかりと手を握り、雑談を交えながらゆっくりと家路を歩く。何処からみても、おしどり夫婦と言われるほど仲睦まじい。


 美由紀のふと呟くように投げかけた疑問が薫の耳を通り過ぎる。


「なんで、ホタル、すぐ死んでしまうんやろ」


 それは、先週テレビで見たアニメ映画のワンシーン。夏の終わりに毎年といっていいほど放送される戦争をテーマにしたアニメで、妹が兄に問いかける場面が思い出される。


 初めは寿命だったのだろうと、簡単に答えを出し、美由紀も「アニメだしね」と曖昧な答えのまま二人は納得し話は終わったが、薫は嫌にその問いが頭を離れなかった。


 子供ができたら戸建てを買おうと、急場凌ぎで借りたアパートは築20年。一見古びた感じはしないが、手すりのサビや塗装の剥げ具合はそれなりの歴史を感じさせる。


 二人は部屋に入ると薫はジャケットを、ソファーの背もたれに捨て置き、クーラーの電源を入れた。むわっとしていた熱気は、冷気に一瞬で吹き飛ばされ、人工の空気が部屋を覆う。


 美由紀はテレビを付け、ソファーに腰を落とすと、買ったばかりの小分けになったリンツのチョコを一つだし頬張った。


 薫が建て付けの悪い窓ガラスを開き、ベランダに足を踏み入れる。そして、そっと胸ポケットに手を伸ばした。


「ねぇ、今日は一緒にお風呂はいろ」


 薫は美由紀の甘えた声に、伸ばした手を引っ込め、その手で美由紀の頭を優しく撫でる。見つめ合う二人は甘い口づけを交わす。


 シャワーは直ぐに湯気を作り、浴室は湿気で満たされる。ダークブラウンの肩まで伸びる髪を、薫の手櫛が走る。リンスから香る蜂蜜の甘い匂いが、薫の鼻腔を刺激した。

 二人は体を擦り寄せ、腕を絡め合い、互いの身体を優しく洗い合う。薫の骨ばったゴツゴツした手が、美由紀の熱を帯びた薄桃色の肌を撫でると、美由紀は甘い声を漏らしながら細長い指で薫の下半身を刺激した。

 薫の気持ちとは裏腹に、下半身はイキリ立ち、やがて白濁とした液体を浴室にぶちまけると、二人は愛を確認するように熱い口づけを交わした。

 シャワーを終えた二人は、その後もベッドを揺らし愛を確かめ合った。


 そんな日々が、もう一年も続いている。

 薫は隣で寝息を立てる妻の可愛い寝顔を確認すると、ハーフパンツを履きベランダに向かう。 脱ぎ捨てたワイシャツの胸ポケットから、白い銘柄の錨のマークが記載されたタバコを手に取り、建て付けの悪い窓を開けベランダに出た。


 煙草に火がつき、バニラフレーバーの甘い香りと共に煙が立ち上るも、湿った夜風が吹き飛ばす。


 心と体の解離は煙草ではどうにも出来ず、薫はおもむろにスマホを取り出すと、メッセージを送る。


「逢いたい」


 薫は灰が落ちるのも気にせず、煙草を加えたまま頭を抱えて画面を凝視するも、返信はおろか、既読がつくことは無かった。



 陽光がカーテンをチラチラと通り過ぎ、眩い光に薫は目を覚ます。美由紀は薫の右腕を抱き枕にして、まだ気持ち良さそうに眠っていた。


 薫は不自由な左手だけで何とかスマホのホームボタンを押した。昼前を表す数字の羅列と、ラインのポップアップメッセージ。


「おはよ」

美由紀の唐突な呼びかけに、薫は素早くスマホの画面を下に向ける。


 美由紀は、とろんとした目で薫を除き込む。薫は挨拶代わりに優しく唇を重ねた。


「吸ったの?」

 美由紀の問いに薫はコクリと頷く。


「何か嫌な事あった?」

「接待が入った」

「今日?」

「うん、いい?」

「そりゃ仕事だからダメとは言えないけど……」


 薫は右で美由紀の太腿を撫でながら、左腕で抱き寄せ、深いキスをする。

「もぅ、ズルいよ」

 ぺちゃぺちゃと淫靡な音が寝室に響く。


「お昼は僕が奢るから許して。そうだ、美由紀の好きなビーフシチューにしようか」

「ホント、ズルい人ね」


 美由紀は唾液混じる唇を離し洗面台に向かい準備を始めた。薫は再度スマホを覗き込むと、深いため息をついたのだった。










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