解答編 第2話 +後日談


 有馬はぎこちなく笑みを作ると他のメンバーにも目線を配った。

「お遊びの推理はここまでにして、本番と行きましょう」

「本番?」

 突っ立ったままの寺田が拍子抜けした顔で問うた。

「そう、本番です。端的に言って真の推理を披露するってことです」

「お前……また俺たちを、おちょくりやがったのかッ!」

 次こそ本気で色をなす寺田に対して、有馬は依然として笑みを崩さずにいる。ただその眼には、悦楽の様相は完全に失われ、真摯さに満ちていた。

「先ほどの推理はふざけたわけではないですよ。可能性としてはあり得る推理だと、僕自身でも自負しています。ただ、どうでしょうね。本当に遠山の知り合いとやらは、この人里離れた山麓のペンションまでやって来たんでしょうか。……ほら、雪乃さんも部長さんも納得していない顔ですよ」

 安東は決まりが悪い顔で、有馬を見返した。

「すみません……」

 雪乃は何故か謝罪の言葉を口にしながら、言う。

「どうしても腑に落ちないことがありまして……。警察の仰っていた小さな雪崩が起きて道が塞がった話は、遠山さんの遺体を発見した何時間も前の出来事ですよね。仮に遠山さんを殺害した知り合いが車を利用したとして、雪崩が起こる前に、この寒さの中を外で待機していたのでしょうか……」

 雪乃の考えに同感だった。遅れるならまだしも、早めに来る必要はあるのだろうか。それに、もっと豪華なペンションなら分かる。しかし、従兄弟には申し訳ないが、建物自体は安普請とは言わずとも、他と比べればこじんまりとした物件だ。ましてや売りである従兄弟のふるう自慢の料理も出ないのだから。更に言えば、雪の足跡にも不自然さがある。蛇行した足跡は一見自然に見えるが、ライトの照らす雪庭に躍り出るような状況になっていた。普通なら建物の壁面に沿いながら、窓から室内の様子を窺うような足跡になるはずではないだろうか。そうなると遠山が考えていたらしき、彼女なり友人なりを呼び寄せるプランは如何なものだろうか、と思うのだ。それに――。

 安東の思考に共鳴するかのように綾乃が口を開いた。

「それに犯人の側からしてみれば、遠山くんの殺害目的で来たことになるんでしょ。どうしてこのペンションで? と思わざるを得ない。アリバイは当然作れないし、タクシーを使ったなら運転手に顔を覚えられてるリスクが伴う。近しい仲なら、それこそもっと効率のいい方法はあったはずよ」

 普段と打って変わった様子で、至極冷静に彼女は言った。

 綾乃は……有馬の推理に納得していたのではないのか? いや、……違う……違う! 安東は今度こそ、心の底から自身を恥じた。綾乃は分かっていた上で、分からない素振りをしていたことに、今更ながら気が付いた。

 それはつまり、綾乃にも、安東が提示した足跡のアリバイに何らかの欠陥があることを見抜いていて、敢えて口にしなかったことを意味する。それは何故か。……安東はすでに理解しているはずだ。綾乃が口を閉じるに値する理由は一つしか考えられない。

 安東の思考とは無縁に、場の流れは留まることなく進んでいく。

「議論では、大凡十分程度掛かる雪の足跡を作ることが出来る人物はいないという事実の判明により、僕達五人の中には犯人がいないと結論付けられましたね。しかしです。実際には足跡を作ることが可能な人物が、一人だけいたんですよ」

「……遠山くん、よね」

 雪乃が遣る瀬無さを表情に表しながら言った。

「正解です。被害者である彼にだけは、足跡の偽装を施すことが可能でした。つまり雪の足跡は、犯人が作ったものではなかったことになります。するとどうでしょう、見えてくる真相は様変わりしてしまいます。……まずは彼の計画から話しましょうか。憶測交じりの話になりますが、追々裏付けの証拠を出しますのでご勘弁ください。僕が推理の序盤で述べた遠山の人物像を思い出してみてください。彼はよからぬ企みを胸にペンションに来ました。その根本的な動機は、創作の糧とする為です。そして彼は、夕食後雪が止んだことを好機に雪の足跡を偽装して、ある企みを、外部犯の仕業に見せかけようとしたんでしょう。

 本来なら、始めに与えられた西側の部屋から何者かが侵入する偽の計画を立てていたはずです。西側の玄関や駐車場側は、雪景色を楽しむためのライトでは照らされておらず真っ暗ですからね。

 けれど間の悪いことに、直前で雪乃さんから部屋の交換をお願いされてしまった。彼女の聡明さは半日も接していない遠山にも分かっていたことでしょう。たいした理由もなく断ると、怪しまれてしまう恐れがありました。後々計画を遂行したときに面倒になるリスクとを天秤に掛け、部屋の交換を受け入れたんでしょう。表面上は快く、胸中では無下に断りたい一心で……。

 そして彼は止むを得ず計画の一部を変更し、東側のライトアップされた雪庭に足跡の偽造を施した。ライトのスイッチを切ることも考慮に入れたかもしれませんが、誰かが消灯に気づくと面倒ですし、外部犯がスイッチの場所を知っているとは考えられません。結局、このライトの元に作られた足跡が、議論では外部犯を疑いづらい理由の一つとなってしまったわけです。

 自らザックを荒されたようにし、偽装に使った靴はライターで燃やしたんでしょうね。バスルームは満遍なく掃除された状態で、換気扇が付いていました。本来なら痕跡が残りそうですが、足跡を偽装する為の「靴」であればいいわけです。簡素な物だったのか、薄っぺらい物だったのか、煤は窓の外に捨てたのか、……灰になったからには、その正体を僕達が永遠に知り得ないことは惜しまれます」

 ここまでの推理を訊いて、安東は口を挟む。

「遠山が邪な考えを持ってたことは分かった。で、それは実のところ何だったんだ?」

 そう言って相変わらず迂遠な言い回しの有馬を促した。

「では、彼のよからぬ企みの話に移ります。足跡の偽装をしたからには、泥棒が入った状況を想定していたはずです。しかしなぜ、このタイミングで足跡を作ったんでしょうか。まさか僕達を殺そうとしたわけではないでしょう。それなら深夜に決行するでしょうし、他の企み――ペンションの備品などを盗むにしても同じことが言えます。それに議論した通り、物置などには高価な物は置いておらず、食堂や厨房もリストと照らし合わせて確認し、無くなった物はないと判断しました。

 つまり、残る可能性は一つ。彼は他の人の部屋に忍び込み、或るものを盗もうと目論んでいたんです。そう仮定すると、皆がラウンジに居るこの時間帯は、逆に絶好の機会です。『なぜ、遠山は飲み会のタイミングで企みを決行したのか』という疑問の解答としても合点がいきます。

 しかしここで、ドアの施錠の問題が発生します。遠山は当然ながら自室の鍵しか持っていません。議論の中で、ドアの鍵を掛けたつもりで、掛けていなかったということはままある――という話は議論でもありましたが、僕達は怪しい人物が屋内に潜んでいないか確認をする為、各部屋も改めました。そして施錠を忘れていた部屋が無かったことは、議論で結論が出ています。

 それを踏まえると、『遠山はどのように目的の部屋に入ろうとしたのか』という疑問が浮上します。ピッキングも考えましたが、ここのペンションの鍵は解錠の難しいディンプルキーです。それに彼の荷物にも衣服にもそれらしい道具はありませんでした。足跡の偽装を自分の部屋に入ったように見せ掛けたことや、それ以外に足跡の偽装をしなかったことから、他の部屋の窓を割るなどの行為をして入ろうとしたわけではありません。あくまでスタートは彼の部屋であり、そこを物色した体で、廊下へと続きます。マスターキーの件もありますが、仮にペンション内にそれが存在したとしても、遠山自身が手に入れる術は無かったでしょう。

 一見不可能に見えますが、僕は議論の中である仮説が浮上したときに、肌が粟立つような感覚を覚えました。「鍵のすり替えを行えば密室を破ることが出来、姉妹にも犯行は可能になる」という部長さんが提示した説です。

 あの説によって、キーリングを外した者がいることが確定し、雪乃さんと綾乃さんにも犯行は可能だった、という推理が導かれたわけですが、非常に惜しい所を突いていたんです。鍵は犯人がすり替えたのではなく、被害者がすり替えたことを追えれば、真相に近づけたはずでした。そして――鍵のすり替えは、机上のタイムテーブルに眉根を潜めながら考えあぐねる僕達を嘲笑うかのように、午後八時四十分以前の段階ですでに行われていたのです」

 遠山が被害者であることで、すっかり死亡推定時刻にすり替えられたという先入観に囚われていた。しかし遠山の人物像を聞いた後では、鍵の持ち主がいる飲み会の場でも遠山なら容易にすり替えを行えそうに思える。

「さて……」

 有馬は、推理の最後を飾るようにメンバーを見回した。

「――遠山にとって、鍵を再び戻すことまでを考慮した鍵のすり替えが可能だった人物は、誰だったでしょうか」

 あれほど議論をしたのだ。安東は忘れるわけがなかった。他のメンバーも間違いなくそうだろう。有馬の問いに答えるようにして、皆の視線がラウンジのドアの前に立ち尽くしたままの寺田に注がれた。

 彼は表情もなく、有馬を見返している。

「遠山が盗もうとした物は、おそらく執筆ノートです。寺田さんは夕食時に執筆のイロハを遠山から訊き着想を得て、次回新人賞に挑めそうな良いトリックを思い付いたと公言していました。飲み会までの時間に書き溜めたであろうそれを、遠山は盗み取ろうと画策していたんでしょうね……。部長さんに「小説の為なら労を惜しまない」と言っていた台詞が、まさかこういう意味だったとは露ほども思いませんでしたが。

 そこに偶然部屋に戻った寺田さんと遭遇してしまった。頭部の裂傷から察するに、掴み合いの末に力負けした遠山が突き飛ばされ、後頭部を家具の縁に強打したのか、あるいはナイフを突き刺した勢いでそうなったのか。悪の報いは針の先ってところでしょうか。そして殺してしまったと判断した寺田さんは、昏睡した遠山の移動、密室の構築、状況が違えば止めの刺殺、その他にモバイルバッテリーの配置等を行った。順序は分かりませんが、併せて十二分近くあった自身の空白時間を使って、二度に分けて行ったと考えるのが妥当でしょう。しかし遠山は死んでおらず、昏睡状態から悪運強く回復した彼は、朦朧とした意識の中で胸に刺さったナイフの栓を抜いてしまった。……寺田さんの部屋でどんな会話が交わされたのか、また、凶器の出所も分かりません。しかしこれだけは確かです。寺田さんがすぐに自白してくれていれば、事なきを得たかもしれません……。残念です」

そう言って有馬はゆっくりとソファに背を預けた。

 彼と入れ替わるようにして、唐突に綾乃が立ち上がる。

「今しゃべった遠山くんの行動は、全て有馬くんの妄想なのよね? そもそも寺田さんが自室に戻ったことには、何の証拠もないわ。そうよ、トイレの後……部屋に戻るために鍵を持っていかなかったなんて、変よね?」

 綾乃は何故か、隙あらば楯突く勢いだ。先ほどの外部犯説の否定には同調したというのに、どういう心境の変化なのだろうか。

「酒もだいぶ入ってました。トイレついでに用事を思い出して二階に上がるものの、部屋の前に来て鍵のことを思い出した、取りに戻るのが億劫で試しにノブを回してみた、という行動はあり得るでしょう」

「それも憶測の域ね」

 有馬は小さく息をついた。

「では、証言に頼ってみます。議論では、寺田さんが最初にトイレに行ったときには、鍵をラウンジに置きっぱなしだったと言っていたのを僕は覚えていますが……寺田さん、どうですか」

 有馬が寺田に水を向けた。

「確かに、俺はそう言ったな……。鍵は、持っていってない。有馬の記憶通りだ」

 安東がキーリングについて言及したときの話になる。寺田が最初に席を外したとき、安東は寺田がラウンジに鍵を置いていったことを本人に根気強く確認したことは、メンバーの誰もが聞いていたことだろう。

 有馬は神妙に頷いて、綾乃の反応を確かめるように目線を遣った。

 彼女のくりっとした眼は諦めを色を帯びていない。

「それでも……っ! 足跡のアリバイが必要ない以上、私たちにも犯行は可能よね。それぞれの空白時間に遠山くんと接触して、寺田さん犯人説と似た殺害方法を取ればいいんだからね。推理だと言うならそこまで否定してくれなければ、私は寺田さんが犯人だと信じないわ」

 先刻の有馬ような道化じみた台詞を、綾乃は吐いた。頑として譲らない意思を込めたような眼で彼を睨みつけている。

 安東は綾乃の気持ちを漸く理解した。彼女は、推理を進めたことに……寺田を犯人だと糾弾したことに対して、憤っているのだ。

「勿論ですよ。残念ながらね……」

 有馬は皮肉に口元を歪めた。

「遠山が足跡の偽装を直前の時刻(電話をすると言った十五分間)に行っていたこと。そして雪の足跡は遠山の部屋にのみ繋がっていたこと。これらを鑑みるに、鍵のすり替えはすでに行われ、犯行を目論んでいたことは明らかです。これらを前提として、分り易く一人一人を検討してみましょうか。各々のタイムテーブルの空白時間は、遠山殺害が行えた時刻であると言えます。

 まず綾乃さんが犯人の場合、空白時間は午後九時二分から九分の七分間です。遠山がラウンジを去ってから約二十分後ですね。事件が起こる状況としては、遠山が二階に上がっていく場面を見掛けた、などでしょうか。それまで遠山は何をしていたのかという疑問が生まれます。計画の途中で何かあれば、怪しまれないように、一度ラウンジに戻ればいい話ですからね。それに目を瞑るとしても、密室の構築は果たしてどうでしょうか?」

「鍵は寺田さんの場合と同じ方法で、部長さんの言った鍵のすり替え説を……」

 はっと綾乃の眼が見開き、頬が一瞬痙攣したように動いた。

 有馬はそれをしかと見届けると、

「そう。一度しか席を立たなかった綾乃さんは、すでにすり替わっていた鍵で密室を作ることは不可能なんです」

 安東は脳内で彼の言葉を吟味した。

 寺田の鍵は、遠山がすり替えている。つまり綾乃が遠山を殺めた場合、手に入るのは寺田の部屋の鍵であり、遠山の部屋の鍵はラウンジにあるわけだ。そして、ラウンジの鍵をすり替える機会はあるとしても、遠山を心配する声が上がったあの時刻以降、誰も単独で行動できる時間はなかった。つまり一度しかラウンジを出ていない綾乃には、施錠された遠山の部屋に鍵を戻すことは不可能ということになる。

 彼女はもう、反駁する気はないようだった。

 有馬は着実に容疑者を減らしていく。

「そしてこれは、同様に僕にも言えることになります」

 有馬も一度しか席を外していない。厳密には寺田さんが言った一分未満の件があるが、ノックや声かけをする演技をしながらのごく短時間だ。移動に使ったロープの処理を含めた鍵を戻す行為は、到底不可能だろう。

「次に、部長さんにも全く同じことが言えますが、然しながらマスターキーの件は厄介な可能性です。部長さんが犯人だとすると、殺害時刻はかなり遅いことになります。それまでの間、遠山は何をしていたのかという点も見過ごせませんが、着目すべき箇所は別にあります。誰もが遠山の戻りが遅いと感じていたとき、それを真っ先に声に出したのは部長さんでしたよね。当然の流れで様子を見に行くことになりました。死亡推定時刻を曖昧にするには、時間が経つに越したことはありませんよね。さて、殺害時刻が最も遅くなる部長さんが、殺害から十何分と経たずして遠山の安否を自ら気遣うでしょうか。答えは明白です。部長さんも犯人ではありません」

 自身が犯人でないことは自明ゆえに、言われるまで気が付かなかった。たしか議論中には有馬が述べた、『安東が犯人ならば遠山の部屋を施錠しない』という仮説も、犯行直後で心理的に鍵を掛けたのではと寺田に否定されていた。しかし時間が経ち落ち着いた後で、自ら遠山を案ずる発言はしないだろう。

「最後に雪乃さんですが、雪乃さんは遠山や寺田さんとほぼ同時に出て行きました。先にも詳述した通り、遠山は計画を即実行に移した可能性が高いので、想定している犯行時刻ともマッチします。綾乃さん同様、二階に行く彼を訝しんで後を追った、といったところでしょうか。席を外した時刻も二度あるので、前述の鍵のすり替え説で密室を構築することも出来るでしょう」

「さすがにお姉ちゃんの方は否定出来ないでしょ?」

 綾乃が再び噛み付く。姉を犯人に仕立てることの躊躇いは微塵も無く、鬼気迫る眼が有馬を射貫いていた。

「そうですね……、ロープの登り降りが細腕の雪乃さんに出来るのかと問いたい思いもありますが、可能性は否定出来ませんので、別の切り口から考えました。それはやはり鍵です」

「鍵のすり替えの話はさっき――」

「雪乃さんがサークルで使用しているカメラを取りに行ったときには」有馬は強引に話を続ける。「雪乃さんが部屋の鍵を持っていたと思われます。しかし遠山を案じて、皆で外回りで部屋の窓辺に近づいたときのことです。綾乃さんが尻餅をついたタイミングで部屋の鍵を落とし、部長さんがそれを拾って渡しましたね。呆然としながらも受け取った様子からして、落としたのは綾乃さんで間違いないと思われます」

「その鍵は――」

「雪乃さん、綾乃さん。申し訳ありませんが、ここからは僕がいいと言うまで口を閉じていてください。どうかお願いします」

 有無を言わせぬように、有馬は声を大にして喋りを止めない。

「遠山がラウンジを出た八時四十分の時点で雪乃さんが持っていた鍵は、十時十二分以降には綾乃さんの手に渡っていました……。綾乃さんが一度の空白時間に部屋に戻るため、鍵を雪乃さんから渡してもらったんでしょうか。いえ、まだ答えないでください。実際に鍵が移動しているのですから、そのときが自然に思えます。そしてその場合、雪乃さんの二度目の空白時間が綾乃さんのそれよりも後になる為、寺田さんの鍵とのすり替えは行えず、雪乃さんが犯人である可能性は消滅します。

 さて、お二人の部屋の鍵はいつ姉から妹へ移動をしたのか。――雪乃さんが犯人だと仮定した場合の、彼の本当の鍵を部屋に置いたであろう九時二十一分から二十九分の間に自室の鍵を持っていたのはどちらか。一時的に鍵を渡したのなら理由も踏まえて教えて欲しいです。本来なら別室で訊くべきでしょうが、問題ないでしょう。……カウントを取りますので、同時に答えてください。3、2、――」

「もういいよ……。鍵は有馬くんの言うように席を立ったときにお姉ちゃんから受け取ったの」

 ついに綾乃は諦めの言葉を口にした。これで、真に寺田が犯人だったことが、白日の元となった。

 遣り切れない思いが満ち、ラウンジが静まりかえる。寺田も罪の肯定を表すように先程から無言で、ドアに背を預けていた。

 安東は痛切な思いで有馬の推理を振り返る。穴がないかと洗いざらいに精査するものの、寺田が認めた状態では、実りは望めなかった。

 衝突、賛同、諍い、ここに至るまでの議論の過程を思うと万感迫るものがあったが、ただ、最後に有馬に問いたいことがあった。

「有馬……一つだけ訊いておきたい。お前は推理を披露するときに憶測が混じっていると言い、現に蓋然性の高い推理に留まっていた。けれどそれを裏付けする証拠は後から出すと言っていたよな。それは本当にあるのか?」

彼は胸中を推し量れない眼でこちらを向いた。

「実は、僕の説が憶測や当て推量ではないことを示す証拠はありませんでした。ただ、証言ならば先刻手に入れたばかりのものがあります」

 そう言って有馬は再びスマホを軽やかに操作して、安東達に見せる。先ほど表示していた「人」さんの苗字検索の画面だ。それをゆっくりスライドさせていく。書かれている情報は、都道府県別のその苗字を持つ人の人数。

「寺田さんは雪国出身ですが、僕の記憶違いでなければ、北海道ですよね」

 そこに書かれている情報は、新潟県に十名ほど、兵庫県に十名ほど……といった都道府県別の人口分布だ。そして北海道の欄には、ほぼいない、と明記されている。

「勿論、国の統計調査による情報ではありませんが、親類縁者で暮らしておられるならば十名ほどの明記はあって然るべきです。それに別のサイトでも酷似した人口分布の情報が載せてありましたので、信憑性に欠けるとは思えません。要するに、どうして寺田さんはこんな嘘を付いたんでしょうか? その理由は、外部犯と結論付けた僕の推理を、真のそれだと断定させる為ですよね」

「…………。」

 寺田は、憤るでもなく、困惑するでもなく、青ざめた顔を床に落として微動だにしない。

「警察の到着後、鑑識員が臨場したときにお願いして、寺田さんの部屋の鉄錯体を調べてもらうことは出来るはずです。ルミノール反応だけでなく、足痕や毛髪の繊維も見つかるかもしれません。ですが……、もう、その必要もないでしょう」

 有馬の笑みは消えていた。

 安東は寺田を見据える。その胸中には、改めて痛切な悲しみが響いていた。

「……何故なんだ。何故すぐに、殺してしまったことを言ってくれなかった。そんなに俺が、俺達が信用できなかったのか。それとも……。寺田は人一倍正義感の強い男だと、俺は思っていたんだがな」

 寺田の幅広の肩が落ち、しおらしく頭を下げる。

「……すみません、すぐに自白しようとしていました。なのに一瞬、分からなくなってしまったんです。正しさが。……遠山は聞くに耐えない言葉の暴力で俺を罵りました。本当に自分が、その……」

「悪いのは自分なのか? ですか」と有馬。

「…………ああ。……そうだ」

「どう見積もっても過剰防衛ですよ。どんな侮辱の言葉を吐かれようと、先に手を出した方が、負けなんです」

 有馬の鼻白んだ物言いには、やや棘のある視線が向けられた。

「どうして鍵を掛けたの……? 施錠しなければ、廊下から入って鍵を置くだけで済んだでしょうし、わざわざロープを使う労力と時間を割く必要もありませんでした。それによって容疑者も議論中では自分を入れて三人まで絞られる危険も実際ありました。どうして鍵なんかを……」

 そこまで言って、雪乃は気づいたのだろう。寺田があわよくば外部犯にしようとしたこと。それから、もし警察に内部犯を疑われたとしても、議論で挙がったように真っ先に寺田に嫌疑が向けられることを。

「凶器は結局、遠山君の持ち物だったのか?」

「いえ、……俺のですよ」

 意外な趣味があるのかと思ったが、次の言葉で色々と合点がいった。

「綾乃から、誕生日プレゼントとして貰った物です。荷物の中に入れていました。今回の合宿用にと……」

 五人だけのサークルだからか、それぞれの誕生日には何らかのプレゼントを送り合っている。しかし高価な物は金銭面の考慮もあって、暗黙的に誰もが避けていた。それでも有名ブランドのペティナイフをプレゼントしたということは、つまり、綾乃が指輪をしてまで主張していた新しい恋人というのは、彼なのだろう。

「最初は私を犯人に仕立てようとしたのかと驚いたわ。でも、すぐにその考えを改めたのよ。さっきお姉ちゃんも言った密室の意図に気づいたから……。議論が始まって、どうしようか考えた。お姉ちゃんは明らかに外部犯説に否定的な顔だったし。足跡の不可解さにも悩まされていたけど、わたしに出来ることをしようと思った。ミステリーでは怪しい人物は犯人じゃないって相場が決まってるんでしょ?」

「それで、執拗に寺田が犯人だと言ってたのか」

 綾乃がこくんと首を振った。

 だとしたら、綾乃の言動は何もかも演技だったことになる。寺田との険のある諍いも、あの見るからに情緒不安定な叫びさえも……。結局自分は、ミス研メンバーのことを理解し悟ったような気でいて、何も分かっていなかったのだ。当の寺田に関しても。安東は本日何度目かの自虐に、自嘲の笑みさえ浮かびかけた。

「それに、有馬くんが外部犯説を再浮上させなかったら、わたしが言ってたと思う。知り合いなら可能かも、って。でも雪庭を眺めてた人がいるか分からなかったし、窓の外を最後まで見てたのは結局わたしだから、有馬くんの推理には感謝したわ……。でも、全部見抜かれちゃってた。遠山くんがどんなに悪辣な人だったとしても、こんなこと、良いわけなかったよね……。ごめんなさい、遠山くん……」

 綾乃の眼から、おそらく本当の涙が一筋こぼれ落ちた。

 その言動を見て寺田は絨毯に頽れるように座り込み、項垂れた状態で肩を震わせていた。

「何でなのよ……」

 最後に言った綾乃のその言葉は、誰の何に対してだったのだろうか。

 事件終幕のタイミングを計ったかのように、警察車両の煌々としたヘッドライトがラウンジの窓を照らした。



 寺田が自白していることから、警察からの聞き取りはそこまで長くは掛からなかった。安東達は身支度を調えると、一人分の空席が目立つレンタカーを運転ながら、一人欠けた日常へ戻るために山を下っていった。道中、必要事以外は誰もが口を閉ざして沈黙を貫いていた。

 ミス研は、大学側からサークル活動の休止を言い渡された。一時は救命をしたとはいえ、合宿で未成年の命が失われたのだから当然だろう。よく廃部にならなかったものだ。自分が遠山の親だったら訴え出ていてもおかしくない。

 就活も卒論も終えていた安東はミス研を失ったことで、バイトをしながらも暇な時間は否応無しに増えていた。そうなると思考は、あのペンションの出来事を無暗に掘り返す。そうして繰り返し考えている内に、気付くことがあった。

 有馬が「予想以上の収穫」といったように、有馬としては、あの時点で寺田の嘘を指摘できたはずだ。そうしなかったのは、自説を用いて探偵ごっこを楽しみたかったからだろうか?

 もしかしたら、と安東の脳裏に憶測が過る。ミス研メンバーの反応次第では、有馬は最後の推理を明かさなかったのではないだろうか。彼は外部犯説を披露した後、仔細に安東達を観察していた。雪乃はもとより、安東も違和感を抱いてしまい、それを表情に出したばかりに、有馬は最後の推理を明かす決断を下したのではないか。……妄想というよりは願望の域だが、安東にはどうもそう思えてならなかった。

 あの凄絶な冬の終わりに、偶然キャンパス内で有馬を見掛けた。缶コーヒーを奢ることを名目のもとに近況の話をしながら、その話を振ったことがある。「――つまり、有馬は最後の最後まで、推理を述べるか否かを迷っていたんじゃないのか?」彼は「相変わらず部長さんはミステリ通ですね。しかし警察の捜査能力を甘く見すぎですよ。すぐにバレます」と一笑に付したが、悪戯を目論むような例の笑みは、どこにも見受けられなかった。ごちそうさまと言って缶を回収ボックスに入れ、ジャケットのポケットに手を突っ込みながら去っていく彼の背を、安東は静かに見送った。

 安東はもうすぐ大学を卒業し、地元の企業に務める。おそらくもう会うことはないだろうミス研メンバー達の顔と、今後の暗澹としたミス研の展望を憂いながら、有馬が去った道とは正反対に踵を返して歩き出した。



                    ペンション「noblesse」の殺人 (了)

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 ペンション「noblesse」の殺人 遠山朔椰 @saku-1582

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