蛍の光、雪の夜

ちえ。

蛍の光、雪の夜

「いいなぁ、若さって。私はこのままただ年を取っていくのかな。」


 昔ながらのこじんまりした書店のカウンターの中で、遥果はるかさんはぼんやりと呟いた。

 普段はいつも微笑みが絶えなくて、その心の優しさが全部顔に出ているような表情をしているのに、今日はなんだか元気がない。


 学校地帯にある住宅地の一角に構えた小さな書店。

 学生が買い求めるような専門書や参考書が多く並んでいて、雑誌やコミック本なんかは入口近くに少しだけ。客入りは多くはなく、その大半は入口付近での時間つぶしの冷やかしだ。

 この書店の本分は専門書や参考書の受注だとか、通販らしい。その事務所は上の階にあるらしいが、入口が別なので訪れた事がない。

 俺は今日も遥果さんとこの狭い書店で雑務や雑談をしながら、今日は珍しくも多い彼女の溜息の数を数えていた。


 遥果さんと出会ったのは四年ちょっと前だろうか。

 高校一年の夏、うっかりと学年一斉の申し込み書を出し忘れ、買い逃してしまった参考書を買いに、注文の封筒に印字されていたこの書店を訪れた。

 そのとき、初めて訪れた小難しい本に囲まれた本屋で右往左往していた俺に、声をかけてくれたのが彼女だった。

 俺より一回りくらい年上の大人の女性なのに、どこか可愛らしい雰囲気をしていて、柔らかく穏やかな笑顔に見惚れてしまった。不器用そうに少しもたつきながら、俺が探していた参考書を用意してくれるその様に、思わず手を貸したくなってしまった。

 一目惚れだったのだろうと思う。その日から俺の中で、彼女は天使だった。

 この書店のアルバイトの募集を見たのは、その数か月後。俺はそれを知った日に突撃するかのようにこの書店を訪れて、晴れて彼女と一緒に過ごす時間を手に入れたのだった。


 アルバイトという名の二人だけの時間は穏やかだった。隙間時間の多い仕事の合間にはたくさんの話をして、遥果さんの事をたくさん知った。

 彼女はとても優しくて。ちょっと不器用で。

 短大を出て、親のすねかじりだと言いながらこの店を任されている。

 彼女はたいそうなお嬢様で、実家はかなりの資産家で。

 任されているのは店番だけで、店長という役職をくれるためなんだと彼女は言う。

 何のとりえもない自分が、仕事をさせて貰っているのだと。

 だけど、彼女は本当は本が好きで、人が好きなんだろう。お客さんと話している姿は楽しそうで、買いに来た方だっていつも和やかだ。

 自分のお気に入りの本を、こっそりと入口近くに置いていたり。売り上げにもならない立ち読み客にだって気を悪くする様子はない。

 話だって上手で、いつもさりげない気遣いが溢れている。


 そんな天使は、二十歳で結婚したらしい。

 ずっとずっと好きだった幼馴染に迫って。

 夫の事を喋る彼女はいつだって幸せそうに笑って、少し寂しそうだった。思わず、抱きしめたくなるほどに。


 だけど、叶わなくても、遥果さんと過ごせるこの時間は、魔法がかかったような幸せなひとときだった。


 店内には、聞きなれた陽気なクリスマスソング。英語で綴られる歌詞は何を言っているのかわからないのに口ずさめるような大定番だ。

 出入り口が開閉する度に、外の凍えるような冷たい空気がこの空間に交わる。今日は夕方から雪になるという天気予報の通り、曇った窓ガラスの向こうには白い粉雪が漂っている。

 もう閉店の時間はすぐそこで、遥果さんと二人並んだカウンターの中で、入口でたむろする高校生たちを見るともなしに見つめながら立ち並ぶ。

 少し距離のある彼らの話は聞こえなくて、俺たちの話も彼らに聞こえない。


 普段は明るく前向きな彼女の言葉が、今日は少し寂しそうで。

 俺は彼女と同じ方向に身体を並べたまま視線だけ向けた。


「私も昔はあんな風だったのかな。」

 彼女の視線の先では、高校生カップルが笑いながらふざけ合っている。それを見ながら遥果さんは寂しそうに言って、誤魔化すような笑顔を俺に向けた。

「遥果さんには、旦那さんがいるでしょう?」

 俺はじくじくと痛む胸を押し隠して、乾いた笑いで応える。

 彼女は、俺と出会った時から人妻で。夢が覚めれば一緒にはいられない人で。

 いつもこの店を出るときには、その現実が胸を貫いていた。


 遥果さんは少しだけ笑って俯いた。

「本当はね、私たちが夫婦だったのなんて、三年くらいのものだったの。入籍はしてるけど、彼はもうずっと私の元には帰ってこないし、家なんてただの倉庫よ。私の実家に支援して貰えるから離婚していないけれどね、私はいらないのよ。」

 笑っているはずの彼女の眦は、濡れていないのが不自然なほど空虚で痛々しかった。

 カウンターの向こう、近くて遠い年若いカップル達。それを見つめて平然とした顔で笑い、平然とした声で話しながら、遥果さんの肩と指先が細かく震えている。

 遠くて声が聞こえないような思い出に胸を染めたまま、彼女がここではない遠くを見て呟く。

「もう、止めちゃおうかな………」

 それは初めて聞いた彼女の弱音だった。


「………俺なら、遥果さんにそんな悲しい事は言わせないよ。」

 震える彼女の手を、カウンターの下で握りしめた。

 冷たい彼女の手に、この胸を焦がすほどの想いが伝わるように、強く。


 彼女の口から、一番欲しかった言葉を聞いてしまった。

 もしも、もしも。遥果さんが、他の誰かのものでなんてなかったら。

 この幸せな夢を終わらせずに済むのに。


 四年ちょっと想い続けてきた生身の恋心は、もう止まらない。

「知っていたでしょう?俺は遥果さんのこと好きだって。」

 今日最後のお客さんたちを見守りながら、迷いなく伝える。

 びくりと戦慄いた掌が少しだけ迷ってから、そっと俺の手を握り返してきた。

「……そんなの、大祐だいすけくんは私よりずっと若いし、まだ大学生でしょう?」

 楽しそうに笑う高校生たちには、俺たちの話は聞こえない。だから、店員らしく、騒がず、静かに、愛を囁く。

「若かったらダメ?今はまだ頼りないかもしれないけど、絶対に遥果さんを守れる男になる。だから、お願い。俺のものになって。」

 僅かに視線を向けて、彼女を見やる。俯いた彼女の頬はじんわりと赤くて、彷徨った視線がちらりと此方を向いてから、また俯いた。

「…………………はい。」

 小さく、消え入りそうな声が聞こえて、抱き合うように硬く手を結びあった。


『蛍の光』が鳴り響くと、店内のお客さんたちは習性のように顔を見合わせて背中を向ける。

 その旋律の寂しさに。この扉の向こうの、雪の舞う寒い夜の中へと足を踏み出して。

 はやく、はやく。ああ、はやく。

 その旋律が鳴り終わるのを待っている。客の背中を見守る胸の中は、今すぐに何もかもを投げ捨てて、彼女を抱きしめたいと、それだけでいっぱいで。

 カランカランと音を立てて、最後の背中が消えていった扉が閉まるのと、曲が終わるのはほとんど同時だった。


 その瞬間、彼女の手を引っ張って抱き寄せ、焦れた本能のままに唇を重ねた。

 永遠に近いほど長かった一曲の間を待ちわびた反動のように、熱く呼吸を乱し合って。

 この手の中に、恋い焦がれた天使がいる。そして俺の腕の中に堕ちてきて、この甘い唇を差しだすのだ。

 宵闇の雪も燃えてしまう。凍えた気温も沸騰させてしまう。

 この夢を叶えたかった、どんなことをしたって。

 もう俺のものだよ。


 遥果さんは俺に初めて泣き顔を見せて、それから見たことがないくらい幸せそうに笑ってくれた。

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蛍の光、雪の夜 ちえ。 @chiesabu

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