桃と美術室と偽装



 7月も終わり近くになると、ここ梅沢市では毎年恒例、桃の季節に突入する。桃とはとても息の短い果物で、桃の栽培農家は寝ずの作業を強いられる。専業農家によっては、年収の半分以上も、この桃によって支えられているくらいの話で、それだけこの梅沢市では、桃が重宝されているというのも頷ける話だった。


「へえ、今年も農協で桃のバイトを150名も募るらしい。徹夜の作業だろう。やってられないなあ」


 新聞の折込チラシを眺めていると、朝食のチョコレートパンを食べていたせつが、ふと顔を上げた。


「な、なんだよ。おれはやらないぞ。桃の仕分けバイトなんてやらないからな。徹夜だぞ!」


「なあに? そんなこと言っていないじゃない。やりたいなら止めないけれど。たいした稼ぎもないんだから。時給いいんでしょう? こっちのほうが」


「うう。言うな。それは言うな」


 彼はおもむろに立ち上がると、奥の納戸部屋に消えた。雪の考えていることは、時々……いや、ほとんど理解できない。こんなにも長くいるというのに。なにを始めようというのだろうか?


 置いてきぼりにされた犬の気分だ。なんだか落ち着かなくなって、おれは雪の置いていったチョコレートパンを齧った。すると、彼はなにやら白い大きな紙が丸まっているものを握って戻ってきた。


「これ」


「なんだよ、それ」


「これ。実篤さねあつな桃の絵」


「はあ?」


 雪が開いて見せてのは、おれが小学校の頃に描いた桃の絵だ。黄色く煤けた画用紙の真ん中に、ただ桃色の絵の具で丸が描いてあるだけ。陰影も凹凸も表現されてはおらず、ただ桃色で描かれた丸。


「よ、よせよ! なんでそんなの、お前が持っているんだよ! 捨ててくれ!」


 おれは顔が熱くなる。所謂『黒歴史』というやつだ。しかし雪は「嫌だ」と言った。


「お前、おれを辱める気だな」


「辱める? これ……」


 雪は、そっとその絵を眺めてから笑みを見せた。その笑みは優しい。この絵を馬鹿にしている様子には見えなかった。


「雪?」


 彼は目を細めて当時の話をした。

 雪は絵が上手だった。大人顔負けの絵を描く。中学一年生の頃、夏休みの宿題で「梅沢市が誇る桃の絵コンテスト」があった。もちろん、雪の絵は素晴らしかった。だが、そこに横沢という同級生がやって来てこう言った。


『お前の絵はうますぎる。お前が描いたんじゃないだろう? 親に書かせるなんて卑怯だぞ』


 しかも運の悪いことに、この時の美術教員は、気の弱い初任の女性だったために、横沢の声に引っ張られ、雪は描き直しをさせられることになってしまったのだ。


 当時の雪は、その意味がよくわかっていなかったのだそうだ。ただ自分が先生の意向にそぐわない絵を描いたと思い、素直に描き直しをすることに同意したのだという。


 そこでおれは、この絵のことを思い出した。結局、普通に書けば上手く描いてしまうに決まっている。放課後の美術室で一人居残りさせられて、白紙の画用紙を見つめている雪を見兼ねて、絵の下手なおれが、雪の代わりに書いてやった絵がこれだった。


「なんでこんなの、とっておくんだよ! お前のあの絵はどうした?」


「あれは捨てた」


「じゃあこれも捨てろ」


「ううん。これはいい。おれはこの絵が好き。実篤の気持ちがすごくこもっているから」


「はあ?」


「あの時。すごく嬉しかった。誰もおれの絵を信じてくれなかった。けれど、実篤だけは言ったよ。『お前の絵は上手すぎるんだ。中一の男子の絵って言うのはこんなもんだ』って。ああ、そうか。中学一年生の絵はこのくらい下手くそじゃないとダメなんだなって思った。それに——実篤だけはあの絵、おれが描いたって信じてくれたでしょう?」


 ニコッと笑みを見せられると、堪らなくなった。雪はそうやって、おれが忘れてしまうような些細なことを覚えていて、こうして大事にしてくれるのだ。同じ時間を過ごしていると言うのに。おれは……。


「お前さ」


「なあに?」


「おれのこと、かなり好きだろ? なあ、ずっと昔から好きなんだろう?」


 雪は小首を傾げた後、大きく頷いた。


「うん。好きなんだね。だって、おれには実篤しかいない」


「ね?」と笑う雪を思わず抱きしめた。


「実篤? なあに? 桃食べたくなった?」


「いや。おれは……お前がいい。桃なんかよりも甘いお前を味わいたい」


 彼の耳元で囁くと、そこが朱に染まるのがわかった。柔らか耳たぶを甘噛みし、それから舌で舐め上げた。雪のからだに力が加わる様子がわかる。


「まだ時間がある。なあ、いいだろう?」


「遅刻する」


「大丈夫だ。遅刻しておけ」


「実篤とは違う。おれは……」


「重役出勤って言葉があるだろう?」


「それは遅い人を非難する言葉?」


「違う。重役は早く来られると困るんだ。お前に見張られているみたいだろう? いいか。迷惑をかけるんじゃないぞ。部下たちに」


 細い首に手をかけて顔を引き寄せると、雪は困惑したような瞳の色を見せていたが、納得したのか「そうか。わかった」と言った。


「おれが早く行くと、みんなが困るんだね。じゃあ、ゆっくり出勤するようにする」


「それがいい。お前はいい上司だな」


 すっかり身支度を整えた彼の、ワイシャツを引っ張り出して背中に指を這わせる。今年の桃は梅雨が短く、大きくならないそうだ。しかしこの酷暑だ。きっと甘いに違いない。


 雪は桃よりも甘い。彼の唇を貪り食べる行為が好きだ。山々を背に広がる桃畑には、真っ赤に熟れた桃がたくさんなっている。けれども、そんなものよりなによりも。おれは雪がいればそれでいい。



********


 藤光さんの企画「桃」「美術室」「偽装」で書いてみましたけれど、BLで毛色が違うので、こっそりとここにあげておくことにします。


 桃、おいしいですよね。今年もまた、あっという間に食べられなくなっちゃうので、必死に食べます。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る