ピアノと花

39ZOU

「隣町の高専に凄い可愛い子がいたんだけどさぁ、俺の情報網によるとりんかちゃんって言うらしいんだ。あ、もちろん写真も持っているぜ?」


「あ、その子知ってるぞ?前部活で練習試合に行ったんだけど1人飛び抜けて可愛い子がいたから覚えているんだけど、りんかちゃんて言うのか」


虎次郎こじろう。期待しても無駄だ。お前はずっとここの男子ばかりの高専で俺達と過ごすんだよ!」


「嫌だァァァァァァ!!」


話をしていた男達は授業が始まる時間になると共に席へ戻っていく。


「今日も普通の日々だな。まぁ、その方が平和でいいけどさ」


周りの男達が大声で話している中、教室の隅で1人席に座ってイヤホンで音楽を聴いているのが俺、小川 啓太郎けいたろう。平凡なただの男さ。短い黒髪に、ぼんやりとさした顔。身長は男子の平均より少し小さい。別に身長が小さいことは気にしていない。ただ男子に馬鹿にされそうではあるが。


とりあえず俺のことについて話そう。


俺がこの高専に入ったのは就職を楽にしたいからという理由だ。高専は出るだけで短大を出たのと同じ扱いであり、大学受験がめんどくさかった俺はそこそこ勉強が出来ることもあってこの暮田くれた高専に入学することが出来た。


この高専は女子の比率があまりにも少なく、ほぼ暑苦しい男しか見ない。俺からすればどうでもいいことだ。ホイホイと標的を変えたり何を考えているか分からないのが女子。まさに恐怖である。中学のころに告白された男子がいたが、その男子も告白してきた女子が好きだったため、喜んで受け入れた。だがその告白が後にバツゲームによる物だったことを知り、別れ、その日から女子のことを嫌いになったとのこと。好きだった者に裏切られた時の心情は当事者以外計り知れないだろう。まぁ、そんなことはいいだろう。


俺はこの高専生活を十分に満喫している。そして卒業したらいい感じの企業に入って楽に過ごしたいと思う。


「さてと、今日も1日頑張りますかね」


ため息をつき、男性教師が授業を始めるのを憂鬱そうに見ていた。





〖〗


「あー、寒いいい!本当にまだ10月か?それにしては冷え過ぎだろ!寒すぎてサムスになっちゃうわね(?)」


今は今日の授業が終わり、学校の帰り道。高専には寮というものがあるが、俺の家は徒歩15分程で着くので別に入る必要も無いということで普通の高校のように通っている。


いつもの通る道を曲がった時、何かの音が聴こえてきた。


(これは………ピアノを弾く音か?)


今日まではピアノの音は聴こえなかったので不思議に思って音の聴こえる方向へ歩いて行く。


(ここか………)


そこはただの民家だった。だが透明の窓から1人の女の子がピアノを弾いているのが見えた。黒と少量の白が混ざった髪は長く、パッチリとしていて何かに本気で向けているような目。顔は白く、洋風の人形を思わせるようであった。身体は全体的に細めで、その細く美しい指で音色を奏でいた。


(この曲は………ショパンだな)


俺は有名な音楽ぐらいなら分かる。ショパンは俺の推しだ。どの曲を弾いているかなら判別出来るくらいには。


しばらくの間俺はその音色に聴き入っていた。女の子がピアノを弾き終わった時にはつい拍手をしてしまっていた。


(凄く上手だったな………)


「あ」


女の子がずっとピアノを聴いていた俺に気がついたようだ。女の子は俺が覗いていた窓まで近寄ってきて窓を開けた。近くで見ると、より姿が明確になる。彼女は今白黒の私服であるが高校生くらいに見えた。俺とはさほど歳の差は無いと思われる。女の子と呼ぶより少女の方が正しいだろう。


「とても良いショパンだったよ。つい棒立ちになって聴き入ってしまったね」


「あ、ありがとうございます」


少女は素直に喜ぶのではなく少し困惑した顔で俺に言う。


「あ、すまない。ストーカーとかそういうわけではなく偶然通りかかっただけだ。普通のオーディエンスだよ」


「そうでしたか。ピアノを弾いている時にチラチラと視線を感じたので変な人に監視でもされているのかと思いましたが良かったですよ」


「すまないが俺は女性には好意を持つことはなくてね。少なくとも俺が君をどうにかすることはないよ」


すると少女は何かを察したかのように手をポンと叩く。


「もしかしてホ―――――」


「いや、断じてそれはない。うん」


危うく俺の印象がとんでもないことになるところだった。そんな不名誉な証を付けられてたまるか。


「そんなことはいいんだ。君はどこの高校なのかな?」


「え、やはりスト――………そんな目で見ないでください。別に高校ぐらい教えてもいいですよ。わたしは呉高校生です。あなたは私服という点からして高専生でしょう?」


「ああ、俺はこの近くの暮田高専生だ。だがそれよりも君の高校の方が問題だな。今日は呉高校は7限授業+掃除とかいう鬼畜日程のはずだ。だが何故家にいる?サボりか?」


「へぇ、詳しいんですね」


「中学のころはオススメの高校って何度も薦められていたからな」


「そうなんですね……あ、わたしは別にサボりじゃないですし、早退きですよ。少し熱が出てしまったんです」


少女は手を広いおでこに当てる。熱があったという表現だろう。


「んで、帰ってきて暇だからピアノを弾いていたと?」


「ピアノ自体は元々弾く予定でした。今度ピアノのコンクールがあるので。それで先程のショパンを今日から練習し始めていたんですよ」


サボりとか変に疑った俺が悪いな。だがコンクールという盛り上がるイベントでショパンの中でもアレを弾くとは…………。どうしてそれにしたのか気になったが変なことを聞くのはヤボだろう。個人の好みがあるのかもしれない。


少し下を向いていた顔を少女へ向き直した時、少女の家の中から誰かの声が聞こえた。


瑠美るみー。少し早いけど混む前にひま寿司行くわよー。準備してねー」


「はーい!……というわけでさようなら」


「また明日も弾いているなら来るからな」


「わたしに会いに来てくれるんですかー?」


少女―――瑠美が少し期待したような目で見つめてくる。


「んなわけ。そもそも俺が興味あるのは君の音楽であって君ではない」


すると少女は残念そうにガックリと肩を下ろす。そこまでショックなんだろうか。所詮はただの見ず知らずの人に対して。


「あー、実際に一目惚れする人がいるんだとか思って感激してたんだけどその感激は一瞬で消え去ったよ…………」


「知らんよ。じゃあな、岩田 瑠美」


俺が岩田だと分かったのは表札があったからだ。別れを告げ、手を振って歩き出そうとする俺。その時、後ろから呼び止められる。


「なんだよ」


「どうして初対面なのに呼び捨てなのよ!それに、あなただけ名前を知っているの不公平じゃない!?教えてよ」


くっ、匿名のままで行こうと考えてたのに!少女の細い視線が俺の背に突き刺さる。仕方ない。聞かれれば答えてやるのが世の情け。


「小川 啓太郎だ。うん、覚えておかなくてもいいぞ」


「では、啓太郎。明日も聴きに来てくださいね。暇そうな顔してるし」


失礼なやつだな。しかも敬語のくせに名前は呼び捨てと………。まぁ、俺が暇なのはホントのことなんだが。


「ああ、ぜひとも弾いてくれ、瑠美」


こうして俺の普段の生活に新たな色が加わったというわけだ!この先どのようにして彼女と関わっていくかは知らんよ。





〖〗

俺は瑠美―――いや、を聴きに行くのをかれこれ1週間程繰り返ししていた。行く度にピアノの腕は確実に上がっていたし、接してくる数も日に日に多くなっていた。なんなら今、彼女の家の中にいる。最初は上がる気など無かったのだが彼女がどうしてもと言うので仕方なくそうした。だが外で聴くよりは中の方が音の聴こえが良い。上がるという行為は俺にとってはメリットの方が大きかったようだ。


「どうでしたか?今日は」


「とても良かったぞ。段々と曲調が重い感じになっていくのもその曲には合っているかもな」


「え……わたし自身への感想は?」


「そんなものは知らんよ。前にも言っただろう?俺が興味あるのは君の音楽だって」


そんな………と気を落とす瑠美。


「まぁ、そんなことはいいんだよ。瑠美はこの1週間ずっと俺が君の家を通る度にピアノを弾いていたよね?そしてそのまま俺が聴くという日々」


「そうだけど?」


「さすがに毎日熱出して早退とかおかしくないかな?そもそも学校に行っているのか?」


瑠美は眉をひそめていた。図星だろうか。


「……………………」


「別に俺はどうこうとは言わないよ。俺だって行きたくない時だってあるからな。まぁ、決めるのは自分だな」


俺が呟いたその言葉に瑠美は震えていた。俺が普段呟く言葉には軽く落ち込んでいても、このような訴えかけるような姿は初めてだった。


「行けるものなら行きたいよ……。行けないから今出来るピアノをやっているんだ……」


「瑠美…………………」


ハッと瑠美が気を取り戻したかのように目を見開いた。


「あ、ごめん。少し暗くしちゃったね」


「知らんよ。そんなこと気にしていない」


すると安心したように瑠美はいつもの微笑みを浮かべた顔に戻る。


「あ、気分転換に花でも買いに行かない?」


「随分と唐突だな。しかも俺と行くときた」


「悪くはないでしょ。どうせすることがないなってことで暇だからここに来ているんだろうし。それに、花はいつかは買う必要があったしね。早めに買っておくに越したことはないよ」


「そうか………。まぁ、暇だから着いていってやるよぉ!暇だからっ!!」


その返事を聴いて瑠美はとても満足のようだ。飛び跳ねるようにして玄関の方へと向かっていった。


(こいつも色々と大変だったんだな……)


さてと、俺も行きますかね。


俺も下ろしていた腰を持ち上げ、外で待っていた瑠美と共に花屋へと歩き始めた。




〖〗

花屋へ向かう間、ちょくちょくどうでもいい雑談をしながら歩いていた。話題提供は全て向こうから。俺からは別に話したいなとは思っていなかったし、無視し続けるといつあキレそうだったために会話しているんだ。


「どうして啓太郎からは話題を出してくれないのかな?ずっとわたしが喋っているよ」


「そんなことは知らんよ。……そのボッチを見るような目はやめてくれないかな?まぁ、今では事実なんだけどさ」


「あ……(察し)すみません」


「別にいいさ。それより瑠美は話題が欲しかったんだね。いいだろう、くれてやるさ」


おお……と感激したかのように目を輝かせる瑠美。


「まず1つ目に、なぜ君がピアノを始めたか。2つ目に、どうして俺なんかといる?」


瑠美は考える動作を1つも無しに即答する。


「ピアノを始めたのはただ思い出に残したいからというだけだよ。人生、やれる間に色々とやっておかないと損だからね」


俺にはその言葉が他の誰よりも深く感じられた。瑠美は「2つ目は…………」と今度は少し考えている。これを即答してもらえないとは少し悲しいねぇ。


「2つ目はね―――真剣にピアノを聴いてくれる人だから」


「え?別にピアノを聴いてくれるなら友達や親がいるだろし、何よりこんな他人の俺なんかでいいのか?」


「いいんですよ。こんな淡白でも啓太郎はこんなわたしに付き合ってくれているんですから」


「……………まぁ、俺も悪い気はしないよ」


出来る限り小さな声で呟いたはずだが、あ、と瑠美が口から漏れていたということは聞こえてしまったのだろう。少々恥ずかしくなり、同じ歩幅で歩いたのだがつい早走りになってしまっていた。


「ほら、もう着くぞ」


「ちょっと歩くの早いですよー!」


先程の会話をしてから3分後くらいに目的地である花屋〔楽々園〕に到着した。中ではまだ20代くらいであろう青年と女性が働いていた。


「さて、さっさと花を買って帰るぞ。何にするかは決めているか?」


「うん、これにしようかなって」


瑠美が指を指したのは白いカーネーション。その白はとても純白で、変に扱えばすぐに汚れが目立ってしまうようだった。


今の彼女に不思議と似合うなと感じた。


「それもいいけど、この花じゃ駄目かな?俺はこの花結構好きなんだけどなぁ」


俺が指を指したのはスターチスという紫色の花。この花を俺が選んだのは適当だ。ただ、彼女にカーネーションを与えなければいいと思ったからだ。彼女は最初、不思議そうに花を見ていたが、やがてスターチスを気に入ったようで、俺に微笑みを見せた。


「うん、いいよこれで」


彼女はレジにスターチスの植木鉢を持っていき、購入して店を出る。花と少女という組み合わせはとても似合っていた。


「瑠美は買ったこの花はどうするのかな?」


「うーん、コンクールの時に傍に置いておこうかな。啓太郎が自ら選んでくれた花だからね。まさかこれにしようと言い出すなんて思いもしなかったよ」


「まぁ、なんとなくだ」


「でも………ありがとう」


彼女にありがとうなんて言われたのはこれで2度目だ。今回のありがとうは初めて言われた時よりも心が入っており、大きな笑顔を作っていた。


「…………………知らんよ」


俺達は行きの時よりも多く会話したと思う。女嫌いのはずの俺が普通に会話している。彼女を通して少しずつだが克服してきているのだろうか?どちらにせよコンクールは土曜日である明日だ。もし彼女がコンクールが終わったあとにピアノを弾かなくなったら俺はどうするのだろうか………。フッ、それこそ本当に知らんよ、だな。空を見上げるともう夕日は沈みかかっていて辺りは暗くなりつつあった。本格的に暗くなる前にさっさと帰って寝るかね。コンクールは午前だ。寝坊しないようにしよう、と心に決めて彼女と別れるまでは共に同じ歩幅で道を歩いていた―――。





〖〗

「ああ、いい朝だ。時間は………よし、大丈夫だな」


今日は瑠美のコンクール当日だ。場所は近所の市民ホール。昔、中学の男友達がピアノをやっていたのでその時に着いていったのだがそれと会場が同じだったために道は分かる。

冷凍食品を使った適当な飯を食べ、身支度をする。


会場へ着くと、中には小、中、高と多様な学生がおり、その親御さんであろう方も子供達と一緒にいた。まだオープニングまで時間がある。暇だし瑠美でも探しにいこう。俺はホールの中をブラブラと歩き始める。


「あ、いた」


あっさりと見つけられた。瑠美は母と共に自販機で飲み物を買っていて、お話しているようだ。


「瑠美、大丈夫?怖くない?これでピアノを弾くのは最後になるかもしれないけど後悔はない?」


誰だって大舞台の時には緊張するよな。どうやら彼女の母は極度の心配性らしい。


「うん、少し怖いけど大丈夫だよ。最後まで頑張ってみる―――――あ、啓太郎」


少し遠くで見ていたのだが見つかってしまった。彼女は髪を揺らしながら俺の傍まで近づいてくる。


「ちゃんと来てくれたんだ~」


「ああ、お前のピアノを聴きにな」


「素直にわたしに会いに来たって言えばいいのに」


「ふん、知らんよ」


口ではそう言っているが、自分でも若干口元が緩くなっているのに気づいた。


「わたしの出番まであと30分くらいかな?席に座って晴れ舞台を待っていてよ」


「おう、見届けてやるよ」


俺は瑠美と別れ、会場の前から4列目の席に座る。この列が演奏を見るのには丁度いいくらいだ。5分程座っていると、1人目が舞台へ上がった。


「1番、昼谷ひるたに かける君。演奏曲は『夜に走る』 です」


観客の歓声と拍手が鳴り響く。1人目、2人目、3人目と次々と登る演奏者。その誰もがずっと練習して来たんだなと感じさせられるくらいに音楽は洗練されていた。学生だからと言って侮れない。本当に必要なのは上手かではなくどういう思いを込めるかだ。


「8番、岩田 瑠美さん。演奏曲は『練習曲作品10第3番』です」


今まで俺が見たことのない制服姿の瑠美が舞台へ上がり、ピアノの前へ座る。その際、隣の台に昨日買ったスターチスが飾られていた。瑠美は1度深呼吸をした後にその細い指でピアノを弾き始める。目線はピアノにしか向けていない。いや、ピアノを弾いているこの瞬間はそれしか見えていないだろう。


(凄いな……最初聴いたより演奏への思いが断然違う。これに全てを賭けているようだ)


前半部分が終わり、中盤部分に入るとショパンならではの激情的な場面がハッキリと聴こえた。


気づけばもう演奏は終盤に差し掛かっていた。もう終わりなのか……という虚無感が俺に染み渡ってくる。


今、彼女の演奏は最高潮に達している。このまま行けば練習の時とは比にならないレベルの演奏になる。それは俺も喜ぶところだ。


(だが……………)


だがなんだろうな。これを聴き終わった時にはもう彼女のピアノを聴けない気がしてしょうがない。彼女の演奏曲である『練習曲作品10第3番』は別れの曲として広まっている。俺が抱いている疑問もそういう曲だから感じているだけかもしれない。いや、この曲をCDプレーヤーを通してではなく直で聴いているからこそ分かる。重みが違うんだ。他の演奏と。俺は心の底ではそう思いながらもそんなことは無いだろうと否定していた。


「あ」


彼女の演奏が終わり、拍手喝采の中、俺達観客へお辞儀をする。俺も心からの拍手をする。その時に瑠美が俺の方を見て少し笑ったような気がした。


(さて、楽屋の前にでも行ってみるか)


俺は1人の演奏者に言葉で感想を使えるために楽屋へ歩き始めた。





〖〗


「よぉ」


「あ、啓太郎。しっかりわたしの演奏を聴いてくれていたね!今までずっとわたしの練習も見てもらっていたし、啓太郎がいたからここまで出来たんだよ!」


「ふん、知らんよ」


「こんな時でも淡白だねぇ」


「まぁ、でも――――――」


俺は少し溜めてから言う。


「最高の出来だった。本当に素晴らしい演奏だったよ」


「ありがとう。………………少しお母さん抜きで外行かない?話したいことがあるんだ」


瑠美はよそよそしく言った。何を話すのだろうか?だが別に問題はないしとりあえず従ってみよう。


「ああ」


そのまま俺達は楽屋を出て会場の外へ出る。まだ他の人達はホールの中にいるようで、外はがら空きだった。今は俺と瑠美だけの空間だ。ひとまず目についたベンチに2人で並んで座る。……周りからみたら恋人のように見えるだろうな……。という要らぬ心配を外にして瑠美が口を開くまで待っていた。


「あのさ……啓太郎はわたしのことどう思っているのかな?」


「……どういう意味かな?」


「そのままの意味だよ。啓太郎自身が正直にわたしにどういった思いを持っているか」


瑠美はピアノを弾いている時の、何かに全てを賭けているような表情をしていた。これは

本物の質問だ。ここで答えるべきだ。だが、俺はまだ自分がどう思っているのかが分からなかった。ある程度の感情はある。それでも心のさらに底へ行くとなると気づけないのだ。答えが出せず止まっている俺の代わりに瑠美が話す。


「わたしは……こんなわたしにずっと付き合ってくれて……淡白だけど、なんだかんだ言って着いてきてくれる……最後の最後まで着いてきてくれる………」


「…………………」


俺は無言で彼女の言葉を聞いていた。その言葉はただ並べているだけではない。俺には彼女が何か大きな振り返りをしているように聞こえた。


「わたし達が関わっていられたのは短い時間だけどさ、その時間の中で、啓太郎。きっとわたしは……あなたを―――――――――」


「え」


彼女の言葉が途切れたと気づいた瞬間には、彼女は糸が切れた人形のように動かず俺に身体を預けていた。


「おい、瑠美………?急にそんなことってないよな?おい!!」


彼女の温かさが段々と無くなる。俺は最悪なことを想像し、焦りながら持っているスマホで救急車を呼んだ。大量の汗が俺の背をなぞっている。どうして……?と考えているうちに俺は気づいた。彼女は今日までにこうなるんじゃないかということを予知していたのではないかと。思えば不自然だなという行動もあった。自分が早く気づいていればこうならなかったかもしれない。俺には責任がある。救急車を呼んだ後にベンチに寝そべる彼女の傍に着く。


「頼むっ!どうか最悪な展開にはならないでくれよぉ!」


気づけば俺は必死だった。それも過去にないくらいに。いつの間にか涙と鼻水が顔をつたっている。そこで俺は初めて自分の本当の気持ちに気がついた。そうだ……俺は――――


「嫌われることじゃなくて、大切なものを失うことを恐れていたんだ………」


もうあの時みたいになりたくない。だから俺は自ら殻に閉じ込もってしまったんだ。ずっと俺は過去から逃げていたってことなんだ。

だから……だから――――――――――


「俺はお前を失いたくない!本心に気がつかせてくれたお前を!そして、俺が好きになっていたお前を!!!」


反応の無い彼女に俺は訴え続ける。


「だから………だから………生きて言葉の続きを聞かせろよ…………」





〖〗

大切なものを失った俺は近所の不良と絡むようになっていた。吸うことのないタバコに手を出し、それで気を紛らわしていた。今日も同じ日々である。いつも通り路地にあるゴミ箱の上に座ってタバコを吸っていると、リーダー格である龍司りゅうじさんに声をかけられた。若いが少しハゲており、口元には濃い髭を生やした20歳くらいのタバコ好きだ。今も吸っている。こんなに若いのに健康面は大丈夫なのだろうか?という要らぬ心配を見る度にしている。


「啓太郎、お前はいつまでそうやっているつもりだ?」


「別にいいじゃないですか。どうしようが僕の勝手ですよ」


龍司さんは腕を組んで俺を心配するような目で見てくる。


「お前は忘れていることがある」


「なんですかそれは?そんなもの僕には無いと思うんですが」


「それはお前の掴んだ未来だ」


「………未来?」


「お前は1度は忘れていた心を思い出し、再び掴んだ。お前はにアレを選択したことで無意識に気づいていたんだよ。そしてようやく掴んだ。お前はそれをまた手放すのか?」


龍司さんがへ向けた言葉。それが俺の忘れていた記憶を引き出した。


「そうだ……。そうでした……。もう俺は手放さないって決めたんだったな……」


俺は路地裏を抜けるために歩き出す。出口には真っ白な光が射し込んでいた。


「そうだ。お前はこんなところにいるべき男じゃない。行ってやれよ。その大切な物のところにさ」


龍司さんの言葉と共に路地裏を抜けた俺が進んだ先は……………………………………


――――――――――――――――――――

「あ、ようやく起きた?」


「え、ここは?」


俺が辺りを見渡すと、そこは病院の病室だということが分かった。そして目の前には――


「瑠美!?」


「やほ。啓太郎ってばずっとわたしの傍で涙流していてそのまま寝ちゃったらしいよ。そんなに泣いてくれたのか~」


嘘だろおい………。俺は最高に混乱していた。その混乱具合は野菜を切っている最中に包丁で指を切ってしまったのと同じぐらいだろう。そして混乱と同時に涙が溢れた。


「良かった。本当に良かったぁ………うっ」


「あ、啓太郎!抱き付かないでよ!落ち着いてね!ちゃんと話すからさ!」


瑠美に鎮められ、ベッドの隣のイスに座る俺。場が整ったのを確認した瑠美は自分についてを話し始めた。


全て話すと長くなるため簡潔にまとめるが、まず彼女には持病があった。それも、今では治療がかなり困難なものだ。それでも治療するための技術は数年すれば手に入るとのことだった。だが病は悪化し、治療する前に宣告された余命が来てしまうとのこと。その余命された日は今週辺りのどこか。そして今日彼女は倒れ、俺はてっきり彼女が亡くなったと思い込んでいた。というか今日まで病ののとを知らなかった。


ならどうして生きている?


という質問には、彼女曰く、気の持ちようらしい。最初はそのまま運命を受け入れようか考えていたが、ある出来事がその気持ちを変え、やはりもう少し生きてみたいと思わせてくれた。その出来事とは―――――――――


「啓太郎の存在だね。啓太郎はこんなわたしにもずっと付き添ってくれたし、なんならわたしが好きって言ってくれたしね」


「くそっ、聞いてやがったか!」


「薄れていく意識の中でちゃんとね。あ、そうだ」


瑠美が何かを思い出したようで顔をハッとさせる。


「啓太郎は言葉の続きを聞かせろよ!とか呟いていたね」


「それも聞いていたのか………」


彼女はうん、と言い、顔を赤らめながらその言葉を呟いた。


「わたしは―――啓太郎が好きになっていたんだよ。だから、またいつでもピアノを聴かせてあげるよ」


俺は無意識に顔が緩んでいたと思う。


「そうだな。…………俺はお前のピアノを求めていたのではなく、弾き手のお前自身を求めていたのかもな…………」


最後の言葉はボソリと呟いたつもりだった。


「ん、何か言った?」


彼女に俺は普段の口癖になっていたあの言葉で返す。


「いや、知らんよ」


病室には俺の持ってきたサザンカが凛と自分の生き様を示すように咲いていた――――。






















































































































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