飯田康彦


 そこに立っていたのは六十代後半から七十代前半ほどの男性だ。白髪まじりの髪を後ろに撫でつけ、シワのある顔を優しくほころばせている。


「あっ、ひこちゃん! おはようございまーす!」


 その男性を見つけるや否や、先程までぺらぺらと喋っていた茶色くんが明るい声を空へあげる。するとそんな彼の言葉を聞いて、「なんで教育実習生の先生いる前でひこちゃん呼びやねん」と黒髪の子がため息をついた。


「ははは。私は良いですよ、ひこちゃん呼びでも。可愛いじゃないですか」


「そうですかー?」


 は優しく微笑むものの、黒髪の子はまだ納得がいかないらしい。しかし、本人がいいならそれでいいかとでも思ったのか、彼は直ぐに引き下がった。


「すみません。この学校の職員の方ですか?」


 実はずっと気になってたことを口にした。この男性はどうやら先生のようではあるが、現役にしては失礼ながらもお年を召しているように見えたのだ。

 すると、その声を聞いた男性は頭をかいて軽くはにかむ。


「あぁ、そういえば挨拶がまだでしたね。初めまして。この学校で地歴公民を教えている飯田康彦いいだやすひこと申します」


 いいだ やすひこ。

 あぁ、それでか。


 そんなことをチラッと考えたものの、今の実にのんびりしていられる余裕もない。その柔らかな物腰に逆に改まってしまった実は、思わず背筋を伸ばすとカチコチと頭を下げた。


「私も挨拶が遅れてしまい申し訳ございません! 今日からこの高校でお世話になる教育実習生の新原 実です! これからよろしくお願い致します!」


 その声はあまりにも堅苦しかったらしい。康彦はふふっと声を漏らすと、「そんなに緊張しなくてもいいですよ? 他の学校よりは色々と自由な高校なので」と笑みを浮かべる。すると、そんな康彦の言葉に太陽のような声が同調した。


「せやでせやで! 堅苦しい学校とちごーてゆっくりのんびりでええで」


 意気揚々と口を開く茶髪の彼。すると、そんな様子を見た黒髪の子が呆れた眼差しをそちらへ向けた。


「まさかお前の口からゆっくりとかのんびりとか言う単語が出てくるとは······」


「何でや。俺癒し枠やろ」


「確かに癒され······ってんなわけあるかダボ」


 またもや奏でられたノリのいいリズムに、康彦が微笑ましそうに苦笑する。どうやら彼らの掛け合いは日常茶飯事らしい。二人は相当仲が良いようだ。

 二人がやいのやいのと言い合いを始めると、実はまたもや取り残されてしまう。そんな実に気がつくと、康彦がこちらへ顔を向けてニコリと笑った。


「それじゃあ学校に入りましょうか。集会で自己紹介もして頂かなければなりませんし、その他にも色々とお話があると思いますので······」


 そう言うやいなや、康彦はスタスタと歩いていってしまう。どうやら着いてこいと言いたいらしい。実はそれを読み取るのに一瞬戸惑ったものの、慌てて彼の後を追う。


「あ、先生達もう行くん?」


 康彦と実に気がついたのか、二人の後ろから明るい声が飛んできた。実がそちらを振り返れば、言い合いをしていたはずの二人がこちらに向かって手を振っている。

 その笑顔に手を振り返すと、実は目の前の校舎を仰ぎ見た。頭上に広がる青空に、その白壁はよく映えている。

 これからこの校舎の中で、たくさんの思い出をつくるのだろう。そう考えると、緊張はするもののとても心が弾んだ。

 そうしてそっと深呼吸をすると、実は暖かな朝日が差し込む校舎へと足を踏み入れた。





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