「くま、どこに行きたい?」


 瑞希が尋ねる。楓ちゃんがくまのを腕組みのようなポーズにさせる。


「学校の中しかだめだよ」


 楓ちゃんの優しい注意。自由を奪われているくまが言う。


「それはわかっているが……」

「とりあえずぐるっと校内を見てさ、それから講堂で他のクラスの合唱を聴こうか」


 私が提案する。私たちのクラスの出番は午後なので、午前中はずっと自由時間だ。


「それがいいね」


 瑞希が言う。楓ちゃんもいいねいいねと言いながら、くまを何度も万歳させる。そして弾むようにくまに語りかける。


「楽しみだね。くまさん合唱聴くの初めてでしょ? あ、それとも、テレビとかで聴いたことはあるかな?」


 今度は万歳をやめて、くまの手をその耳にあてて何かを聴くかのようなポーズ。ここでくまがそっと言った。


「楓……」


 くまの声は困っている。続けて言うには、


「すまないが、あまり動かさないでくれないか」

「あ、ごめんなさい……! 痛かった?」


 ぬいぐるみなのに、何故か痛みはあるのだった。楓ちゃんの言葉を、くまは否定する。


「痛くはない。けれどもなんだか、あまり愉快な気分でもない」

「ご、ごめんなさい……」


 楓ちゃんがそっとくまを机の上に戻した。


 ともあれ、今日の予定は決まった。私がくまを抱き上げて、さっそく校内を見て回ることにする。




――――



 生徒たちがあちこちではしゃいでいたりくつろいでいたりする中を、私たちは歩いていく。教室、音楽室、美術室、理科室。職員室……はとばして。上級生の棟もパスする。だって、足を踏み入れづらいんだもん。


 図書室では、本を読んでる子や、おしゃべりをしている子がいた。背の高い書架の間をうろうろする。光りのあまり差し込まない古い階段を下りて、外に出る。かわいらしい食堂にクラブハウス。加奈ちゃんにも会う。


 桜並木を通り抜けて(花が咲いてないからあんまり桜っぽくないな)、芝生の中庭へ。池で泳ぐめだかをくまにも見せてあげた。


 くまの世界の学校はどんなところなの? って瑞希がきいた。でも案の定、くまは曖昧にはぐらかしてきちんと答えない。横で、楓ちゃんが、すっごくかわいいところだと思う! と主張していた。おそらく、ぬいぐるみのくまたちが通う学校を想像したのだろう。


 そして講堂へ。くまを膝の上に置いて、合唱を聴いた。演目と演目の間の休憩時間に、同じクラスの子がこちらに気づいた。たちまち目ざとくくまを見つける。


「どうしたの、それ。かわいいね」

「でしょ?」


 私はそう言ってくまを立たせ、手を振らせる。おっと、こういうことされると不愉快なんだっけ。今度から気をつけなきゃ。


「なんでまた学校に持ってきたの?」


 クラスの子たちが数人、こちらに集まってきた。私はその質問にちょっと迷う。ほんとのことを言うわけにはいかないし……。


「えっと、あの、お守り? みたいな! 今日の合唱、上手くいきますようにって!」


 下手な言い訳になっちゃったけど、誰も突っ込まず、へーとか言ってる。


 そこに声がかかった。この声は……。後藤先生だ!


 後藤先生は近づいてきて、私に言った。


「一瀬さん、そのぬいぐるみは……」

「あ、あの、その!」


 私はとびあがらんばかりになってしまう。生徒はいいけど、先生に見つかるのはまずい! そんなに怒られはしないと思うけど、でももし、没収でもされたら……。


「ご、ごめんなさい、つい、今日は持ってきてもいいかなって思ってしまって、あの、普通の日は持ってきませんし……」


 くまを背中に隠してしまいたい。もう遅いけど。おそるおそる、後藤先生の顔を見ると、先生はこちらをとがめる気はないようだった。


「別にいいわよ」


 そう言って、後藤先生は立ち去った。……ふう。よかった。何も言われなくて。後藤先生がお母さんの友達だったって話を思い出す。ひょっとして、後藤先生、このぬいぐるみを見たことがあるのかな? お母さんが、私たちにあげる前に、先生に見せたとか。


 気になったけど、後藤先生はもう行ってしまった。




―――




 お昼を食べている頃から、楓ちゃんがだんだん無口になってきた。そう、楓ちゃんはたいそうプレッシャーに弱いのだ。そして、これからいくらもしないうちに、本番がやってくることを、意識してしまったのだ。


 お昼の後は少しばたばたした。クラスの子や他のクラスの子が教室に出入りして、彼女らとあれこれ話をする。私はくまを窓際の席に置いた。窓に向けて、外が見えるように。ちょっとこれから相手ができないけど、外でも見て楽しんでねって。


 楓ちゃんがますます沈んでいる。


「……どうしよう。あともう少しで、本番なのよね……」

「大丈夫だよ! 練習のとき、上手に弾けてたじゃない!」


 私ははげます。実際、練習通りにやれば全く問題ないと思うんだけどなー。


「でも、練習と本番は違うの!」


 楓ちゃんは頑なだった。思いつめるタイプだな。知ってたけど。


 私も、本番に強いってわけじゃないから、気持ちはわかるけど……。

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