4話目【先へ】

 紅茶から漂う湯気の帯が鼻の先にふわりと伸びていた。それはすぐに消えて、液晶に映る半透明の自分に一瞬意識が向く。それをなるべく見ないようにして、ヒヨリさんからの返信をもう一度読み返した。

 ダイレクトメッセージには、あのときの言葉とほぼ同じ内容がつづられている。

『周りの皆さんみたいに、もっと——』

『皆さんすごいです。憧れです。ぜひまた——』

 向上心の獣のような彼女が記したテキストを眺め、息を深く吐いた。


 ふざけないでほしい。


 思わずテキストエディタを立ち上げる。椅子に腰掛け、更新分の文章を書こうとキーを叩きはじめていた。


 まったくもう。まったくもう。

 あなたはいつもそうだ。


 指がパソコンのキーボードを無遠慮に叩きつづける。そのたびにカップの紅茶が小さく波打った。

 もしかしたら、あなたはまだ気づいていないのかもしれない。

 でもね。

 私にとってヒヨリさんは、もうとっくの昔に「すごいひと」の側だから。

 自分のはるか先にいて、そこからにこやかに手を振っているような。それでもあなたは言うだろう。

『まだです。もっと先へ』

 一瞬、自分の眉間にしわが寄った。

 私だって、ヒヨリさんを尊敬している。書いても書いても、いつまで経っても、自分に何かが足りない気がする。在りたい理想の自分は常に遠いところにいて、けぶる霧に包まれた影のように曖昧な姿をしているから正体がわからない。

 それでも、先に進むのをやめない。

 彼女を通してそんな姿を日々目の当たりにしているから、今こうして体を動かすことができていた。



 勢いに乗って書きはじめてから、しばらく経った。

「できた……のか?」

 更新分に加えて多少のストック分まで書けたのはなによりだったが、おかげで足先がすっかり冷えてしまった。室内の静けさの中で、コタツに足を突っ込んで作業をすればよかったと、ほんのり後悔。

 コップの取っ手を握って口元に持っていく。

「紅茶、つめた……」

 それでも、酔いかねない自分の熱を冷ますにはちょうどよかった。

「……私だって、憧れてるっつーの」

 私は彼女と競うつもりはない。ないが、ヒヨリさんから分けて貰ったこの昂揚こうようを忘れずにいられれば、私だってさらに一歩、先へ踏み出せる気がする。

 なら、私だってもっと先へ——。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

言葉が焚きつけてくる ななくさつゆり @Tuyuri_N

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ