ACT18 鐘鳴詠の努力


「ふにゅっ……うぬぬぬっ……」


 六月に近づいて、気候の暑さもそろそろ本格的になってきた、ある日の放課後のこと。

 ポロシャツにハーフパンツという校内指定の体操服姿である鐘鳴かねなりえいは、高校のグラウンドの一角にある懸垂用の鉄棒にぶら下がって、どうにか腕の力で自分の身体――というより顎を、鉄棒の高さにまで上げようとするも。


「あいったぁ!」


 先に腕の力と握力の限界が来て、鉄棒を手放して地面に着地……すると共に、バランスを崩して尻餅をついてしまった。


「あううう……」


 懸垂をしようとしていた腕と手の疲労と、ぶつけたお尻の痛さとで、詠は中々立ち上がることが出来ない。

 一度のトライだけでこの体たらく。

 情けなさで、ちょっと涙が出そうになってしまうが……そこはグッと堪えて、モタモタと己を立ち上がらせようとしたところで、


「おーい、えーちゃん。どないしたん」


 わりと付近から、そこそこ聞き慣れた声がきた。

 そして、自分にとってそれは意中の人の声でもあるので、詠は反射的にビクリと肩を震わせる。


「げ、源斗お兄さん?」

「おう。偶然やな」


 大きな身体に大きな手足、ツーブロックの髪に三白眼がちょいワルに見えるけど、実はとても親しみ深い一つ年上の少年。

 新堂しんどう源斗げんとその人が、こちらに駆け寄ってきていた。

 自分と同じ体操服着用だけど、ちょっとサイズがぴっちりしており、それが彼の整った筋肉を強調している。

 そのためか、


「お、おおぉぉぉ……」

「え、どしたん、えーちゃん? なんや、えらいジロジロこっち見てくるけど」

「はっ……!」


 いつのまにか彼の肉体に目を奪われ、源斗がその視線に困惑しているのに、詠はすぐさまに我に返ることになった。

 このルーティン、どこかで体験したような。ものすごく恥ずかしい。


「ご、ごめんなさい……!」

「いや、別に謝らんでええねんけど……まあ、えーちゃん自身、どこも怪我なさそうでホッとしたわ」

「え?」

「ほら、えーちゃん、鉄棒の下でずっとヘタりこんでるのを見かけたから、どこか怪我したんかなって。サッカー部の助っ人の練習中やのに、思わず声をかけてもうた」

「あ……そ、その、練習のお邪魔しちゃってごめんなさい」

「ええねんええねん。サッカー部の連中には断りを入れとるし、それに助っ人よりも、えーちゃんの方がずっと大事やで」

「え……っ」


 彼に、ずっと大事と言われて、詠はボッと顔に熱を持つ。

 もちろん、深い意味はないのだろうけど、片想い中の少年に言われるとなると、詠の感情が揺さぶられるのには充分だった。


「あ、いや、その……」

「ところで、えーちゃん、こんなところで何してるん?」

「う……え、えぇと……」


 そして、自分のそんな状態を全く気にしてないらしい。

 源斗がいつもと変わらぬ様子でそのように訊いてくるのに、詠は少々残念な気分になるも……そのおかげで、少し落ち着いたりもした。ちょっと複雑。

 ともあれ、彼には話しておこうと思う。


「私、その、運動神経とか体力とかないですから、どうにか自分を鍛えられないかなって」

「んー。確かにえーちゃん細いから、力があるとは言えへんかもな」

「でも、お兄様も同じ細身なのに、あんなにも力強く立ち回れているから、出来るなら私もあんな風に……」

「いんや、アイツもそこまで力が強くないで」

「え?」

「アイツの場合、力はそこまでないけど、技術が凄いねん。頭が良くて身体の使い方もきちんと理解してるから、限られた力でも効率よく最大限に発揮しとる。そこに至るまで相当努力したんやろな」

「…………」


 驚いた。

 新堂源斗は、詠の兄である鐘鳴かねなりけいとは普段から犬猿の仲であるという噂を、この一ヶ月半でたくさん聴いている。

 その仲の悪さに関しても、詠は実際に何度か目の当たりにしているだけに、彼が兄のことをそこまで理解しているとは思わなかった。


「……よく見てるんですね、兄のことを」

「なっ……!」


 思わず詠の口から出た言葉に、源斗、驚愕で大きな身体を仰け反らせ、ものすごく顔を歪ませている。

 変顔の類ともいえる。なんだかおもしろい。

 でも、本人にはちょっとイヤな言葉だったのかも知れない。

 詠、ちょっと慌てた心地で、


「あ、ご、ごめんなさい。私ったら」

「いや、ええねん。えーちゃんの前で、えーちゃんの家族を悪く言うわけにはいかん……!」

「そ、そんな律儀にならなくても」

「それに、アイツの小手先の技術なんぞ、この俺の本能で磨き上げた技術に比べたらまだまだやしな……!」


 苦悶の表情ながらも、源斗、兄に対してしっかりマウントのポジションは取りたいらしい。

 それもこれも、兄に負けたくないという負けず嫌いの感情からなのか、己の能力の自信の表れなのか……。


「ま、まあ、アイツのことはともかく! ……それで、えーちゃんは、身体を鍛えたいから懸垂やってたん?」

「あ、はい。他にも鍛えたいところはいっぱいあるんですけど、ぶらさがりの懸垂に関しては、中学の頃からまだ一回も出来てないですので……」

「ふむ……」


 詠のやりたいことに対して、源斗は思案の仕草。

 いつも明るく笑っている顔ばかり見せている彼なだけに、考える様子の顔も、それはそれで格好良く見えて、詠はまたもちょっと胸を高鳴らせるも、


「よっしゃ、えーちゃん。鉄棒にぶら下がるところから始めよっか」


 ほとんど時間も経たないうちに、源斗は元のフランクに戻ってそのように提案してきた。

 ちょっと残念だけど、いつもの彼も好きなので、それはそれで……という思考はともかく。


「ぶら下がる、ですか?」


 詠は彼の言葉に首を傾げる。

 一体、どういうことだろうかと思うのだが、源斗は笑顔のままで、


「そう。それだけでも結構握力は鍛えられるし。まずは三十秒を目標にしよう」

「それだと、結構時間がかかっちゃうような」

「えーちゃん、こういうのはちょっとずつでええねん。一気にやろうとせんでもええ。ぶら下がって、ちょっとずつ時間をのばして、そこからどういう風に自分を持ち上げるかを考えて、ちょっとずつ持ち上げていくねん」

「ちょっとずつ……」

「先は長いように感じるかもやけど、俺かて昔からそうやって頑張ってきたことやし」

「――――」


 惚れた惚れないを抜きにして、源斗の言葉は詠に刺さる。

 源斗も、昔からこんなにも立派な体格だったわけでもなかったと思う。元より下地は出来ていたと思うけど、そこからさらに長年積み重ねた結果が、この力強さなのだ。

 それに兄の慧も、幼少から体格こそ小さかったけど、現在に至るまでずっと剣の鍛錬を欠かしていない。だからこその今の技術なんだと思う。

 ……今までの自分は、そういう積み重ねから逃げていたのだ。身体の弱さや小ささからくる、自信の無さで。

 でも、今こそ、ここでなんとかしようというからには、この積み重ねは必要なことなのだろう。


「わかりました。今日から時間をかけて、やってみます」

「そうしたらええ。俺も今日からサッカー部と練習やけど、三十分くらいは時間とれるから、えーちゃんの成長ぶりを確かめさせてーや」

「そ、そんな、悪いですよ。源斗お兄さんの貴重なお時間を」

「さっきも言ったやん。大切な友達のえーちゃんの成長を見守ることも、俺にとっちゃ貴重な時間やねん」

「なっ……!」


 詠、またも顔に熱を持つ。

 そういうことをここまでサラリと言うあたり、本当にこの人は細かいことを気にしない人なんだろうな……と思うと同時に、彼は友達や家族をとても大事にするから、誰にでもそんな風に言えるんだ、と詠は気づく。

 さっきも思った通り、ちょっと残念。

 でも、彼に大切と言われて、ちょっと嬉しい。

 胸中がまたも複雑になるけど……今は、前に進もう。


「じゃあ、今からやってみます。その、鉄棒のぶら下がり」

「おう、もうちょい時間あるから見といたるさかい、やってみ。目標は三十秒!」

「はいっ」


 そんなわけで、第一歩として始める、鉄棒のぶら下がりであるのだが。

 この日は、どれだけやっても、最高で十秒が限界だった。


「ううう、第一歩の目標ですら遠い……」

「最初はそんなもんやって。一秒ずつ延ばしていけばええねん」

「は、はいっ」


 落ち込む詠に、源斗は笑顔で励ましてくれる。

 そんな彼の存在が、とても有り難く、そして心強かったので。


 自分のためだけではなく、源斗お兄さんにも、応えたい……!


 そういう気持ちで心を奮い立たせて、翌日。


「おお、延びたやん。えーちゃん、十五秒やでっ」

「ふぅ……あ、明日はもう少し、頑張れそうな気がします」


 さらに翌日。


「二十五秒! ええやんええやん! 目標まであとちょいやでっ」

「はい。ま、まだ、まだまだいけます!」


 そうして、土日を挟んだ、月曜日。

 その土日の間にも、詠は、源斗に教えてもらった手を握って開くトレーニングを欠かさなかったためか、


「二十八……二十九……三十! やったで、えーちゃん!」

「は、はい。や……や、やりました!」

「おう! おめでとう、えーちゃん!」

「で、ですが、まだ目標が残っていますから、続けてお願いします!」

「お、燃えとるな、えーちゃん! その意気その意気!」


 ついに、ぶら下がりの目標秒数を突破した。

 もう一度やってみても、三十秒は超えられたので、ついに、本格的な懸垂に取りかかろうとするも、


「ふにゅ……ふっ……うぬぬぬぬ」

「えーちゃん、ちょっとずつ、ちょっとずつ」

「は、はいぃ……あぅっ!」


 ぶら下がったまま、少しだけ腕を曲げられたものの、自分を持ち上げるまでには至らなかった。


「ぶら下がりだけとは、全然違いますね……」

「んー、確かに握力と腕力は、使いどころがそこそこ異なってくるからな。でも、やっぱり握力は最低限必要やから、今までのことは絶対に無駄にならんはずや」

「わかります。握力がないままだったら、腕を少し曲げることすら出来ないままでしたから。ですが、が、頑張りますっ」

「おうっ」


 そうして息巻きつつも。

 またもや詠にとっては遠い道のりが始まるかも知れない……と、ちょっと不安でもあったのだが。

 ――その日は、結構あっさり迎えられた。

 初めてぶら下がりが三十秒を突破した二日後……つまるところ、源斗が詠の懸垂をコーチングを始めてから、一週間後。


「うにゅ……ぬぬぬぬぬぬぬぬっ!」

「頑張れ、えーちゃん! あと一歩や!」

「はいぃぃぃぃ……!」


 今日は調子が良く、両手は鉄棒にフィットし、腕もよくよく力が入ってくれて、いい感じに、自分の身体が持ち上がってくれて、



「いっ……かいぃ……っ!」



 ついに、詠の小さな顎が、鉄棒の高さまで到達した。

 それを確かめた瞬間、詠の腕の力が抜けて鉄棒から落ちてしまいそうになるものの、しっかりと両の足で着地する。


「~~~~~!」


 ちょっと足がビーンと痺れたし、両手両腕の疲労も半端なかったものの、その痛みや疲れの感覚すらも、目標を達したことを現実と知らせてくれたような気がして。


「私……もしかして、出来ました?」

「おうっ、やったな、えーちゃん!」


 思わず、源斗を見ると、彼は満面の笑顔で親指を立ててくれたものだから。

 詠、歓喜のあまり、居ても立っても居られなくなって、


「……源斗お兄さんっ」

「うおっ……!」

「ありがとうございます、ありがとうございます……!」


 大きな彼の胸に、思いっきり飛び込んだ。

 今ある詠の全力でぎゅーっと抱きついて、彼への感謝の言葉を吐き出す。


「え、えーちゃん?」

「源斗お兄さんのアドバイスを信じて、ここまで来れました。本当にありがとう……!」

「……俺は、ちょっと口出しただけや。ちゃんと出来たのは、えーちゃんの努力の結果やで」

「それでも、源斗お兄さんがいなかったら、私、どうなってたことか……!」


 感謝を口にしながらも、本当に彼のおかげだと詠は改めて思う。

 多分、源斗が居なかったら、詠は努力の方向を間違えて、これから先もきちんとした懸垂が出来なかっただろうし、そこからまた力の無さと身体の小ささを理由に積み重ねから逃げて、あきらめてしまっていたはずだ。


 新堂源斗が居たからこそ、鐘鳴詠は逃げずに向き合って頑張ることが出来た。


 そう、思わずには居られない。


「だから、私、私……!」

「……あ、あのう、えーちゃん?」


 感極まった想いが大きくなって詠はさらに強くしがみつこうとするが、そこで、すぐ頭上から源斗の声を聴く。

 見ると、源斗にしては珍しく顔を赤くしており、しかもこちらを見ずに明後日の方向を見ている。

 話すときはいつも真っ直ぐに見てくる彼が、何故、そうなっているんだろう?


「えーちゃんが嬉しいのはわかるんやけど……その、皆が見とるんで、そろそろ離れてくれると……」

「え?」


 彼の言うとおり、詠がふと視線を横に向けると……サッカー部の面々を始めとして、下校中の生徒達もそろって、興味津々でこちらを見ている。


「これは白昼堂々、大胆ですなぁ」

「ゲンさん、いつのまにリア充に……!」

「二年の新堂くんでしょ、アレ? それで女の子の方は確かあの鐘鳴くんの妹……」

「購買の姫様が、購買の風神と……ってコト!?」

「ううむ、それにしてもこの身長差、そこはかとなく犯罪臭が……」


 ひそひそとした声が聞こえるのとその会話の内容、あと、未だに源斗がこちらを見てこないのに……ようやく、詠は今の状況に気付いた。


 ――鐘鳴詠が、新堂源斗の身体に、抱きついている。


「あ、あ、あ、あ、あ、あの……!」


 途端に、詠は顔どころか全身に熱を持って、反射的に源斗から離れる。

 何かしら言葉で取り繕うとしても、上手く口から出てこない。

 しかも、周囲からの好奇の視線は未だに続いている恥ずかしさからか、


「ご、ご、ごめんなさい……っ!」


 詠、この場から、思い切りダッシュで逃走しようとしたのだが、


「え、えーちゃん、荷物荷物!」

「あっ……!」


 源斗に、鉄棒の脇に置いてある通学鞄と制服の着替えが入った体操服袋の存在を指摘されて、詠はふと我に返ってその荷物を回収してから、


「えっと、その、やっぱりごめんなさい……っ!」

「いや、やっぱりって何!?」


 改めてダッシュで逃走(テイク2)。

 今度はもう振り向くことなく、詠は体操服姿のまま、その場から一直線に校外に飛び出したのであった。



 もちろんのことながら。

 詠、その日の夜は、無意識で出てしまった自分の行動に対すると恥ずかしさと後悔で、中々眠りに就けなかったのだが。


「えへ、えへへ、えへへへへへ……」


 彼に抱きついたときの感触はしっかり残ってて、それを少しでも想起した途端。

 羞恥と後悔の合間を縫って、ちょっと顔がだらしなくなったりもするのであった。

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